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闘病の記録 大腸ガンと闘う その20 今回も 家内の過去の病歴についてお話いたします。 平成5年10月17・8日(日・月) にかけて、 親しい友人5人と、紅葉を求めて 仙台郊外の作並温泉に旅行に出かけた。 普段の彼女は、色々と多岐に渉り多忙であった。 そのため、親しい友人との旅行は、生活をリフレッシュする絶好の機会でもあった。 喜んで出掛けたその夕刻、友人から電話があり、 「気分が悪くなり倒れて、仙台市立病院救急救命センターに救急車で搬送され、入院した」 と知らせがあった。 時々貧血といって、休むことがあっても、今まではしばらくすると、 直に回復するので、あまり気にも掛けていなかった。 またそんな類いで、皆さんに迷惑を掛けたのではないか? 今の時間、車で行くしかないか。 仕方無い、車を飛ばして、行くか。 また電話があり、 「病院で調べたら、多分、新幹線・仙台行きの最終に間に合うと思います」と 友人から電話。 仙台行き最終新幹線にやっと間に合う。 車内電話で明日からの仕事の手配と依頼をする。 病院に到着。 友人に顛末を聞き、御礼と御詫びを申し上げ、 旅行を継続するよう、旅館にお引取りをお願いする。 集中治療室ナースステーションに到着を告げると、 担当医から病状の説明があり、「5分間の面会」を許される。 帽子・白衣に着替え、除塵・除菌のエアーシャワー室で消毒して、 集中治療ベットに案内され、5分間の面会。 勿論、本人は、昏睡状態。 脳内出血、断層写真を見せられ、 「今、脳内の中枢近くに、ピンポン玉位の出血があり、 この様に、右脳に集結する左半身全神経の根幹部分が、 圧迫されて1/3位の太さしかない状態。 圧迫されているだけならば良いが、恐らく此の太さでは切断している可能性が高い。 生命には別状無いと思われるが、予断は許されない。 この様な状態では、回復しても、良くて半身不随、恐らく寝たきりになると思われます。 言語の中枢に極めて近いので、言語にも、支障があるかもしれません。 2・3日が、やま場と思って下さい。 脳内の脳圧が高くなっているので、様子を見て、 脳圧を下げるため、出血球の血を抜きたいと思います。 頭骨に5mm位の穴を開け、脳の安全と思われる所を、 血球に向けて注射針を貫通させて、血を抜く手術を行います。 患者に病状の急変が有るかもしれないので、直に連絡できる所に待機していて下さい」 予想しなかった容態に、愕然とする。 集中治療ベットには各種検査計器と治療装置が、ベットの回りにグルリと備え付けられ、 当直の医師2名と看護婦数名が、モニターテレビの前で、患者の状態を、 24時間体制で、集中管理して、病変異常に即応している。 最前線の集中医療体制の内部を、初めて見せて貰った。 家族の待機室に案内されたが、やや広い部屋に、大勢の人が容態を心配して待機していた。 廊下の長椅子に、交通事故でもう5日も昏睡状態なので、此処にいるという人が居た。 暗い夜中の仙台の街に飛び出す。 妻には苦労の掛けっぱなしで、何一つ 些細な喜びも与えずに、このまま逝かれては、 残念で、残念で、何とか生きてくれ。 自然に涙が流れ、頬を伝わるが、 暗い街中を、 当て所も無く、 さ迷い歩いた。 3日目の20日(水)夕。 やっと昏睡から覚める。 昨日、妻の実妹が駆けつけて来たので、2人で見舞う。 言語障害は起こらなかった。 どうやら、危機は脱出したようだ。 午前中、脳圧を下げる手術をしたお陰か? 抜き取った血を見せられたが、あまり抜けなかったようだが、 後は自然に吸収されるとの事。 4日目21日(木)午後。 一般病棟の個室重症病室に移される。 さすが東北六県の拠点病院。 東北六県の重症患者が転送されて来るので、集中治療室はベット不足気味、 危機脱出者は即座に一般ベットに。 有効に回転させないと、助けられる命も、助けられない現状が浮かび上がってくる。 看護婦の検診の度に 「此処は何処ですか?」 「お名前は?」 「今、朝ですか? 昼ですか?」 「朝は何を食べましたか?」 答えによって反応を見ているようだ。 まあ、声が出るだけで良い!! 何とか話が出来るだけで良い!! 6日目23日(土) 主治医から 「月曜からリハビリを行いましょう。 早ければ早いほど良い。 出血は安定しています。 病状を見ながら行いますから、安全です」 まだ、手も足も左は感覚も無く、身体全体をも、 自分の意思で動かすことも、出来ない状態である。 相変わらず看護婦に、「此処は何処ですか?」 「何を食べましたか?」 と 聞かれている。 25日(月) 昨日午後、一般病棟の4人部屋に移される。 一応、最悪の事態から脱出とのこと。 今日から毎日午前中にリハビリ開始。 車椅子にやっと乗せるが、上体が安定しない。 リハビリ室の畳の上に、ドテッと横たわっているだけだ。 リハビリの先生に、手足をマッサージされて、今日は終わり。 30日(土) 月曜からリハビリが始まり、今日土曜日、6回目のリハビリ治療を受ける。 車椅子に座らせるに、幾らか楽にはなったが、相変わらずリハビリ室の畳の上に、 ドッテット横たわっているだけ。 一週間で変化が起こるわけは無いが、やはり初めに言われたように、 一生寝たきりなのかも知れない。 11月1日(月) 医療相談室が設けられている。 相談員を紹介され、病院転院の話が出た。 「東北六県の拠点病院として、救命救急センターは、 重症患者の受け入れを担って来ているが、重症患者は後を絶たず、 常にベットが不足している状態で、その為危機を脱出した患者は、 出来うる限り最寄の病院に、転院していただくための相談室が設けられ、 相談させて頂いています。 仙台市立である関係で、仙台市民を優先しますので、 市外の患者には、ご理解頂くわけです。 また家族にとって、最寄の病院が便利と思います。 病院の情報は集めてあり、紹介も連絡も受け入れ状況も確認できますので、 推薦病院を紹介しますので、行かれて確かめてから、転院に付いてご理解を頂きたい」 と言う事で、推薦病院を2・3ヶ所紹介された。 仙台は遠いので、何かと不便で、いずれは転院しなければと、思っていた。 丁度、妻の妹も同席して話を聞いた。 そこからが、大変なことに成った。 妻の妹は、姉の病気が心配で、殆ど付ききりで看病し、私が手出しできぬ位。 しかも義母に、毎日定期的に報告していた模様。 転院の話も、直ちに報告。 それならば、今義母が通院している病院が良い、院長先生も懇意だからと。 私は近くの病院で、妻に対する罪滅ぼしの積もりで、リハビリを毎日この手で、 支援したいと思っていた。 そんな話には耳を傾けず、しかも 「こんなに成ったのも、貴方が悪い。 もう貴方に任せられない」 と。 今までそんなきついことを言う人ではなかったが。 私が承知しないので、義母は、母に電話する。 母は、「父の最期が近い今、余り波風を立てるより、 義母の気の澄むよう、世話になったら」 かくて、神奈川県秦野市のリハビリ病院に転院することにした。 義母は 「私が費用負担するから」 といって 看護婦つきの寝台車 を、用意した。 11月8日(月)午後8時過 仙台市立病院の医師・看護婦に見送られ、出発 11月9日(火)午前10時前 神奈川県秦野市 リハビリ病院に到着 義母が負担した、寝台車の費用 は、後日鄭重に 返済した。 お見通し 家族の一人が、病気になると、家中が いや 親子兄弟姉妹まで、
果ては一族郎党までもが、テンヤワンヤの大騒ぎになるという話。 体験しました。 次回に 続く |
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2008年06月22日
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