|
昭和20年8月のこと その14 終戦 最後の空襲 爆撃機B29が日本本土に易々と侵入し、日本中を焦土と化したのは、 マリアナ諸島に基地が出来てからである。 昭和19年6月15日、米軍はマリアナ諸島サイパンに上陸、 戦闘が続く中で滑走路の建設を始めている。 3万の日本軍守備隊は激戦、7月7日玉砕し、1万の住民も命を失った。 更に7月21日マリアナ諸島グァム島に上陸、 激戦の末8月10日1万5千の日本軍守備隊は玉砕、 日本本土空襲の長距離爆撃機B29基地がマリアナ諸島に次々と完成。 昭和19年11月24日マリアナ諸島サイパンからの爆撃機B29による東京初空襲。 それから昭和20年8月15日まで連日、日本中の何処かがB29の爆撃を受け続けた。 延べ171日、空襲による死者数は正確にわからず、 少なくとも30万から50万人が死亡し、1500万人以上の国民が罹災した。 ポツダム宣言受諾を決定したのは8月9日から10日にかけての御前会議である。 日本最後の空襲は8月14日の夜から15日未明にかけてである。 日本側が中立国を通じて正式にポツダム宣言受諾を申し入れた後になる。 作戦に関する資料によると、 「攻撃日の選択――この作戦が計画された時、日本と和平交渉中である。 最高司令官は、緊急司令により最大の効果ある攻撃を実施できるよう、全軍に命令を出した。 何故なら、敵国(日本)の責任で和平交渉がはかどらないようであるから、 この作戦は8月14日から15日にかけて実施されるよう命ぜられた」 日本側は8月12日午前2時半、「天皇の国家統治権を変更しない」という条件付で、 ポツダム宣言受諾。 連合国側は、12日午前0時45分、サンフランシスコ放送で 日本の条件付受諾の問い合わせに対する回答を送った。 非公式な回答をめぐって、日本側首脳は混乱に陥っていた。 「天皇および日本国政府は、連合国司令官にSubject toする」の英文解釈で、 陸軍は「隷属する」とし、外務省は「制限の下におかれる」と訳した。 問題は「国体が護持される」のか否かをめぐる議論で、12日、13日が空転した。 この数日の遅れが米第20航空軍に最後の日本本土爆撃作戦を決断させた。 日本の敗戦が決定した以上、条件をめぐる交渉さえ許さないという、 米軍の強硬な意思表示が、この空襲であった。 この最後の空襲は、サイパンから 爆撃機B29は、誘導機を含め 766機の大部隊で、秋田市、 小田原市、高崎市、熊谷市、 伊勢崎市の5都市が爆撃され、 死者376人、負傷者3231人、 焼失家屋6479。 (「日本列島空襲戦災誌」 東京新聞出版局) 8月15日早朝から。硫黄島より P51戦闘機、空母艦載機の 攻撃が東京、神戸、木更津。 空襲のあった関東、東北の人々の 日記には、B29の恐怖の夜と、 玉音放送の真夏の正午が強烈な 対照で、戦争と平和、生と死を 同時に体験した人々の記録が 書かれていた。 国民学校訓導・某の昭和20年8月15日の日記 大正3年生まれ 当時30歳 山形市の国民学校訓導 山形市は比較的平穏で、 5月東京から学童疎開107名を山形駅に迎えた。 8月9日長崎に原爆投下。 この日から、東北全域に艦載機1700機の空襲が始まる。 日記には「敵の醜翼が奔馬の如く山形の空を駆けて行く。アア何と言う情けなさであらう」 14日の空襲で山形も終わりだと覚悟して、15日を迎えたと言う。 その日、土下座してラジオに向かったと言う。 8月14日(火) 今日も暑い。工場も容易でない。昼に学校に行き、高等科1年と会食する。 8円の肉200匁を大根輪切りのように食ふ。食った甲斐がある。(略) 夜中の入りにB29三十目標来る。愈々今夜が山形の終わりかと思わせられる。 秋田を攻撃だ。2時過ぎ迄休みなく来る。これが最後であった。 8月15日(木) 日本民族の有史以来の一日だ。 本日正午畏くも玉音の御放送により日本は遂に国体護持の一線を最後に ポツダム宣言受諾を回答、連合国に無条件降伏を申入れた。 遂に敗戦国日本を世界に告げた。 万事休せり。 人間の力は国家の力に支配されること今日より甚だしく感じたることなし。 そして国家の力は実力に依って確証せられること、国家の力は科学が第一の基であること、 現代国家の盛衰は一に科学の如何にあること。ああ何と言うも所詮無駄である。 今は只大御心の大詔のまま冷静に挙作するのみ。 学徒・某の昭和20年8月15日の日記 昭和4年生まれ 当時17歳 旧制中学3年生、学徒勤労動員で中島飛行機製作所に汽車で通勤。 熊谷市への空襲は中島飛行機製作所の破壊を目的に、79機のB29の焼夷弾爆撃。 最後の空襲のなかで最も被害多く、市街地の74%焼失、罹災者1万5千、死者234人、 負傷者3000人。 投下焼夷弾8049発の一つが学徒・某の背中に直撃。 8月15日戦争は終わり、母親には息子の遺体と日記だけが残されたと言う。 母が今でも悔やんでいるのは、「息子に一度でいいから腹一杯食べさせたかったこと」と言う。 日付のみ記入の日記が埋まることはない。 8月14日(火)曇りのち晴
雨が降ると思われたが雲だけでふらず。 遠い遠いといっているうちには、目的地についている。午前中は同じところをはじめた。 何しろ遅刻者が多いので、分隊で四名のところとてめずらしくない。 二小隊も数えたら十四名だ。 十時より木材運び、会社の人が話せるので昼で帰ることになる。 弁当を食べたらコロッケから二小隊にお説教、作業の態度について。 二時五十三分ので帰る。家に来て薪わりに汗流す。 今夜敵機大挙来襲という情報が入ったので本及び本箱を壕の中にいれる。 8月15日(水) |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事


