なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

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   昭和20年8月のこと  その22   終戦

   昭和20年8月6日 8時15分、広島の上空でウラニウム爆弾が破裂した。
   爆心地を中心に半径6km周辺の家屋が6〜7万戸壊滅、政府9月の発表は、
   死者7万、負傷者13万、然し実際は死者20万、負傷者15万以上といわれる。  
   大本営はこれを「新型爆弾」と発表した。 
   原子爆弾と正式に発表したのは、無条件降伏が決定した14日の報道からである。
   アメリカは7月16日に原爆実験に成功し、終戦後自国の優位を確保するために、
   8月8日のソ連参戦の前に使用した。  

   広島逓信病院院長・蜂谷道彦の昭和20年8月15日の日記
   明治36年生まれ 当時42歳
   岡山県立矢掛中学、第六高等学校、岡山医科大学を昭和4年卒業。
   昭和17年広島逓信病院院長就任。  爆心地より1.5kmほどの地で原爆被爆。

   8月6日
     まさか大試練の日であろうとは思わなかった私は、夜来の警防勤務でくたびれきって
     座敷の真ん中に寝転んでいた。 からりと晴れた土用の朝だ。 
     雲一つない紫紺の空にくっきりと浮かびあがった庭の樹木、まばゆい光、しかも逆光、
     濃い影が庭に深味を与えて、とても美しい。私はぼんやり庭を眺めていた。
     眺めていたというより美しさにみとれていたのであった。 
     さらに強い光がすうすうと二度つづけさまに光った。 
     黒い日影が全くなくなり、庭の隅々、石灯籠の中まで明るくなった。
     マグネシュウム・フラッシュか、電車のスパークか、果ておかしいナ―――
     薄暗い闇を通して斜めに傾いた柱がぬっと眼の前に現れた。 
     私は思わず飛び起きて逃げ出しつつあったのだ。その柱の下をくぐった。 
     我武者羅の脱出だ。 通りつけた廊下を駆け出していた。 
     パンツがない。 私はたじろいだ。 シャツもない丸裸だ。・・・・・
                         (「ヒロシマ日記」法政大学出版部) 

   爆心地より1.5kmほどの地で原爆被爆。

   8月15日
     重大放送のある日だ。 一夜考えて、敵が本土へ上陸したものと思った。 
     国民総奮起の重大放送が大本営からあるものと信じた。 
     私は心細くなって山の中へ逃げ込む順路を考えた。 山陽線沿線は危ない。 
     広浜線か、芸備線を伝えば中国山脈にはいれる。 私は知人の家を考えた。 
     三次、庄原、西城、東城、宇治、芳井――
     山の中ばかり通って倅の疎開先の宇治と母の疎開先の芳井とを心に描いて
     逃げる順路を考えた。 
     山西作戦から帰った友人が、兵隊が山の中に入ったら戦は負けだといっていた。
     四月ごろから敗戦様相をそなえていた、鉄砲を持たぬ兵隊、柄の悪い兵隊もありだし、
     老人子供以外は市外への疎開は厳にとめられていた。 
     四十歳以下の者は都市防衛隊に編入されていた。 
     万一の事があったら我々市民は弾丸運びや軍夫に徴用されることになっている。 
     弾圧による弾圧、憲兵の監視が厳しい。 うっかりしたこともいえない。 
     碌な事はないと思っていた。 とうとう敵の本土上陸か。 
     ピカで全滅、我々でも焼け跡で頑張っているのに兵営の跡は何もない。 
     師団司令部の跡に臨時司令部ぐらいは設営してもよいわけだ。 一足先に逃げたのか。 
     私は逃げ足の早かった軍隊を思い起した。 
     空襲警報の出る度に馬匹疎開と称して病院裏を兵隊が逃げていた。 
     焼けてから見れば兵営も、弾薬庫も空っぽだった。 軍隊は用意周到だ。 
     四月までに将校家族はほとんど郊外に疎開。 心当たりがある。 四月から疎開禁止。 
     私はあの時疎開したかったが、許されなかった。 
     もはや、山の中に司令部や兵営が出来ているに違いない。 
     我々は置き去りか、無防備だ―――
     私は思うことさえ許されないことを心ひそかに思っていた。

     局長室に集まれといってきた。 重大放送だ。 ラジオがあるという。 
     私は早速局長室にいった。 大勢の従業員が部屋の中に詰め込んでいる。 
     局長閣下がラジオの傍に立っておられる。 私は入り口の柱にもたれて暫く待った。 
     雑音の多いラジオがなりだした。 
     そのうち、何か言う声が聞こえたり聞こえなかったりする。 
     タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビということだけははっきり分ったが、
     あと先はさっぱりわからぬうちに放送は終わった。 
     ラジオのそばにいた岡本総局長が直立して、ただ今の放送は、天皇陛下の玉音放送である。
     仰せの通り、戦に敗けたのだ。 残念であろうが何分の指示があるまで、
     諸君は職責を守っていてくれ、との主旨の簡単な挨拶があった。

     私は雑音が多くてさっぱりわけの分らぬラジオ放送を、
     国民総決起の激励演説と思い込んで、ぼんやりして聞いていた。 
     それが計らずも、天皇陛下の玉音放送であった。 然し降伏の詔勅だったのだ。 
     私は事の意外に頭がぼうとした。 心理装置が一瞬停止した。 涙が出なかった。 
     涙腺の機能が停止していたのだ。 
     局長閣下の訓示で玉音放送と知り、粛然として直立不動の姿勢をとった。 
     訓示が終わってからも暫く直立不動の佇みを続けていたようだ。 
     脳貧血が起きかけたか一時、眼の前が暗くなった。 
     冷たいものが背中を伝い、歯ががちがちして歯の根が合わなかった。

     私はこっそり病院へ戻った。 そして「敗戦だ」と一口いってベットに腰をかけた。 
     病室は俄然静まり返った。 寂として声なくしばらく沈黙がつづいた。 
     敗戦を知り一同唖然としていたのだ。 間もなくすすり泣きが聞こえ出した。 
     爆撃されたとき敢然立って我武者羅に活躍した者の面影は全くない。 
     意気消沈全く見る影もない態だ。 ひそひそ話がきこえだした。 
     突然誰か発狂したのではないかと思えるほど大きな声で、
     「このまま敗けられるものか」と怒鳴った。 
     それにつづいて矢つぎばやに「人をだますにもほどがある」
     「何のために今まで辛抱したか」「これでは死んだものが成仏できるか」
     いろいろの表現で鬱憤が炸裂する。 
     病院の上も下も喧々囂々まったく処置なき興奮状態に陥った。 
     日ごろ平和論者であった者も、戦争に飽ききっていた者も、
     すべて被爆この方俄然豹変して、徹底的抗戦論者になっている。 
     そこへ降伏ときたからのだから、収まるはずがない。 全てを失い裸一貫。 
     これ以上無くなることはない。 破れかぶれだ。 
     私も彼等の言うように徹底的に戦って、しかる後に一死を以って君恩に殉ずるのが、
     私の本分であると思った。 私はさらに思った。 
     傷だらけの見苦しい姿で生き永らえるよりは、殉国の華と散るほうがましだ。 
     有終の美をなすことを忘れてはならぬと、心ひそかに自分にいいきかせた。

     降伏の一語は全市壊滅の大爆撃より遥かに大きなショックであった。
     考えれば考えるほど情けない。降伏は天皇陛下の御命令である。 
     異議をとなえることはできない。 残念至極である。 
     堪え難きを堪え、忍び難きを忍びを黙唱した。いくら黙唱してもよい知恵はでなかった。
     私の考えは知らぬまに見当はずれの方向に移った。

     思えば三年前大東亜戦争が始まった時、私は終日戦果の発表に酔って、
     取るものも手につかず有頂天になっていた。 
     あのときの感激、あの時には今日あるを思わなかった。 
     あの感激の一日、一億一心歓喜の頂点にあった。
     なぜ、あの時、陛下に玉音放送をお願いしなかったのか。 
     あの時は一切がっさい東条さんの一人舞台であった。
     あの時の甲高い東条さん得意の放送は、未だ耳朶に残っている。
     「貴様らは陛下を何と思っているか。 勝手に戦争をおっぱじめて、
     調子のよい時にはのさばりかえって、いざ敗け戦さとなると、隠せるだけかくして、
     どうもこうもならなくなったら上御一人におすがりする、それで軍人といえるか。 
     腹を切って死ね」と腹立ちまぎれに思わず軍を恨み軍を罵倒していた。  
     私ばかりではない。
     「東条大将の馬鹿野郎、貴様らは皆腹を切って死ね」と怒鳴り散している者もあった。

     私は興奮のあまり立っても座ってもおれなくなった。 
     ベットから飛び起きて病院を抜け出した。 
     そして何処をどうさまよったか分らぬが、逓信局の裏口へ立っていた。 
     「先生、どうなさった」と声を掛けられ我に戻った。 
     よほど興奮していたに違いない。 思い直して患者を見舞うことにした。 
     患者も興奮していた。
     「大変なことになったなあ。 天皇陛下の御命令だから・・・」を連発して歩いた。 
     患者の容態を診たり聞いたりする心の余裕は持たなかった。 
     看護婦さんが無心に患者を治療している。 
     その姿を見て私は教えられるところがあったのか、
     努めて心を落ち着けるような気持ちになった。
     (略)                   (「ヒロシマ日記」法政大学出版部)

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