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江戸東京・山手 10 千駄ヶ谷駅周辺 と 東京都体育館 千駄ヶ谷駅前には、東京都体育館がどっしりと存在する。 体育行事に、各種イベントに、ここには大勢の観客が押し寄せる。 然し今日の周辺は、とても静かである。 銀杏並木は、黄金色の葉を殆ど落とし、残された枝が青い天空を突く。 代々木方面に歩く。 昔、津田スクールオブビジネスは津田塾大学。 千駄ヶ谷駅のこの周辺一帯は、もと紀州徳川家下屋敷の一つで、 明治20年に明治天皇がここに行幸され、流鏑馬行事を天覧されていたと言う。 東京都体育館正面 銀杏並木と東京都体育館正面。 千駄ヶ谷駅前交差点。 銀杏並木と右上は首都高速道路4号線。 代々木方面に。 銀杏並木と津田塾大学及び東京都体育館 津田塾大学。 この線路下をくぐる道路は「新宿御苑」の裏門に抜ける道。 この道路は江戸時代武家屋敷があり、六軒町通りと呼ばれ江戸時代のままで、 下級武士の家が密集していた所と言う。 「新宿御苑」裏門。 この道路の少し先に、「新井白石終焉の地」がある。 新井白石=六代将軍徳川家宣、七代将軍家継に仕えた儒官。 学者としては珍しく政治の中枢に参加したが、八代将軍吉宗が就任すると失脚し、 官邸は没収、千駄ヶ谷のこの地を与えられた。 享保6年(1721)ここに移った白石は、友人室鳩巣に 「周囲は青々とした麦畑で淋しいところだ」と書き送っていた。 かつての栄光の座を思い浮かべながら失意の日々を送ったのであるが、 晩年の大作「史疑」20巻を完成し、翌年「采覧異言」の修訂を終え 享保10年(1725)に没した。 東京都体育館の横。 千駄ヶ谷駅に通じる歩道は、右側に体育館を回りこんで、体育館正面玄関を通り駅に。 写真正面に超高層ビル・NTTドコモ代々木ビルと、その後ろに新宿超高層ビル群 東京都体育館の裏手。 千駄ヶ谷駅に通じる歩道。 東京都体育館裏手のある、運動場。 露地の向こうに突然現れた超高層ビル・NTTドコモ代々木ビル。 千駄ヶ谷駅前を真直ぐに進む道、津田塾大学の裏手の露地。 道路の奥正面は千駄ヶ谷駅、道路右側・東京都体育館、道路左側・津田塾大学及び住宅街。 東京都体育館裏手の道。 体育館裏手の道の次に5差路がある。 この5差路を代々木の方角に曲がると、「萩の屋跡」がある。 明治37年11月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が渋谷村中渋谷(現在の渋谷区道玄坂付近)から、 ここ千駄ヶ谷大通(現在千駄ヶ谷1丁目)に移り住んだ。 明治37年は日露戦争が始まった。 与謝野鉄幹・晶子夫妻は雑誌「明星」を通じて、文芸活動が最も華々しかった頃である。 晶子は長男光くんをおんぶして、弟の出征を見送りに、そのころ山手唯一の出征軍人見送り駅で あった渋谷駅に行った。 そして弟のことを思いやって、長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したのである。 日露戦争で人々が高揚しているときで、この長詩を大町桂月から乱臣賊子とよばれ、 それに雷同する人々の非難、投石などから逃げるように、急いで渋谷を立ち退いて、 千駄ヶ谷のこの地に逃げ延びたのである。 この「君死にたまふこと勿れ」は NHKドラマ「おしん」に出てきた。 おしんが、奉公先から家に帰りたい一心で、抜け出し雪の峠を越えるうちに凍え、 猟師に身をやつした脱走兵に助けられ、そこで読み書きを習う中、おしんがこの詩を暗記する。 やがて脱走兵は発見され射殺されてしまうドラマストーリーがあった。 君死にたまふこと勿れ (旅順の攻囲軍にある弟宗七を嘆きて) ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふこと勿れ。
末に生まれし君なれば 親のなさけは勝りしも、 親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや。 堺の街のあきびとの 老舗を誇るあるじにて、 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふこと勿れ。 旅順の城はほろぶとも、滅びずとても、 何事ぞ、君は知らじな、あきびとの 家の習いに無きことを。 君死にたまふこと勿れ。 すめらみことは戦いに おほみづからは出でまさね 互に人の血を流し、 獣の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉れとは、 おほみこころの深ければ、 もとより如何で思されん。 ああ、弟よ、戦いに 君死にたまふこと勿れ。 過ぎにし秋を父君に おくれたまえる母君は、 嘆きのなかに、いたましく、我子を召され、家を守り、 安しと聞ける大御代も 母の白髪は増さりゆく。 暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや、思えるや。 十月も添はで別れたる 少女ごころを思いみよ。 この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき。 君死にたまふこと勿れ。 |
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2008年12月20日
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