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江戸東京・山手 06 清水谷公園 清水湧水井 公園の前の通りは、紀尾井町を南北に貫く「紀尾井町通り」で、右に上がった交差点付近は、 江戸時代から「清水谷」と呼ばれ、周囲から清水が湧き出ていて、通行人に喜ばれていたと言う。 清水谷公園の名にちなみ、湧水を復元した。 庭園 清水谷公園は「紀州藩邸・上屋敷」があり、その庭園であった。 紀州藩邸・上屋敷は2万5千坪、邸内には、役所、倉庫、学問所、武道所などがあり、 藩主の住む御殿、家臣の住む長屋、政務を行う表向きと、生活の場の奥向きとがあった。 明治に入り、此処に「北白川宮家」の邸があった。 明治23年に東京市へ下賜され、「東京市立清水谷公園」となった。 昭和40年千代田区に移管され、「千代田区立清水谷公園」となる 北白川宮家=四親王家の一つ。 北朝・崇光天皇の第一皇子・栄仁親王を祖とする、諸宮家中最も重きを成した 宮家である、伏見宮邦家親王の十三王子・智成親王が明治3年創始。 明治以後、梨本、山階、閑院、久邇など多数の宮家が派生したが、 全ての宮家が昭和22年宮号廃止。 武蔵野の面影を残す、雑木林。 此処の抜け道を登って行くと、紀尾井町ビル裏側へ。 贈右大臣大久保公哀悼碑 明治11年5月14日朝、麹町清水谷において、出仕する途中の参議兼内務卿・大久保利通が 暗殺された。 現在の内閣総理大臣にも匹敵する立場にあった大久保の暗殺は、「紀尾井坂の変」と呼ばれ、 人々に衝撃を与えた。 大久保の同僚であった明治政府の官僚たちから、遺徳を偲び、哀悼碑の建設の動きが起り、 この暗殺現場の周辺の地に明治21年完成した。 高さは台座を含め6.27m 大久保公記念碑の裏面碑。 哀悼碑正面碑は超高層ビル、ホテルニューオータニを向く。 偕香苑 千代田区に移管後、先代・秋元馨氏の現建物である「偕香苑」を、昭和59年に建設し、 以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。 平成18年子息の秋元裕氏から、「偕香苑」をより多くの人に茶道、生け花などに 利用されるようにと寄贈されたので、寄贈の御礼と功績に対し顕彰された。 江戸水道の石枡と木樋 昭和45年に麹町通り拡張工事の際、出土した玉川上水幹線本管の一部で、 江戸は慶長・寛永期に人口が増加し、小石川上水や溜池上水だけでは、水不足となり、 新しく玉川上水が開発され、承応2年(1653)に着工され、翌3年に完成した。 当時の都市施設の実態を知る遺物である。 千代田観測井 観測井は公園の隅の木立の中に、隠れるようにあった。
工場やビルなどで沢山な水を汲み上げると、地盤沈下が起るので、監視をしている。 |
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2008年12月05日
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