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東浦和とその周辺 その8 見沼田んぼ 散策案内 見沼田んぼ 東浦和駅から見沼代用水西縁に沿った散策路を北にたどると、見沼代用水路の西側は住宅街で、 近年は代用水路の縁まで開発されている。 しかし、代用水路の東側は、見沼田んぼが広がっている。 とは言え、現在は、開発・建設中の芝川第1調整池と一部残る田畑で、 見渡す限りの田んぼとはほど遠い。 その昔、見沼は自然の沼であったが、寛永6年(1629)に、 関東郡代・伊奈忠治によって灌漑用水用の溜井とされた。 八丁堤が造られ見沼溜井1200ヘクタールで、下流の水田を潤していた。 約100年後の享保12・3年(1727)この溜井は干拓され、見沼新田となった。 この新田と下郷田を潤すために、利根川から水を引いた。 取り入れ口は今の行田市の利根大堰付近で、これが見沼代用水で、途中東西二つに分かれ、 総延長90km、途中元荒川と綾瀬川と立体交差している。 工事は刈入れが終わる秋から、翌春田植え前に完成した。 灌漑の方法は、用水を台地際を流して田に取り入れ、 中央を流れる芝川を排水路(悪水路)として水を落とした。 一連の土木工事は、徳川吉宗の命を受け、幕府勘定方・井沢弥惣兵衛為永があたった。 為永は紀州人で、幕府役人として各地の治水・利水の土木工事を担当した。 溜井方式を関東流・伊奈流と呼び、 用水・悪水分離方式を紀州流・井沢流と呼ぶ、見沼の一連の工事。 国道463号線バイパス北側に広がる見沼田んぼ 中央 女体氷川神社の森 その左側遠方 高層ビル街・埼玉副都心 国道463号バイパス線北側に広がる見沼田んぼ 中央 芝川 右奥側 代用水路東縁台地 国道463号バイパス線北南側に広がる見沼田んぼ 左側 芝川 右より中心までの住宅との境が、散策路 散策路右より1/3 地点東浦和駅付近 国道463号バイパス線南側に広がる見沼田んぼ左側 左側建物 市環境センター 芝川第一調節地 芝川は見沼低地の中央を流れる一級河川で、 埼玉県は、100年に一度起こる洪水に対応できるよう、改修、調節地整備を進めている。 昭和33年に狩野川台風の降雨による、洪水の教訓。 すでに、第7調整池は完成し、大和田公園、大宮第2公園、大宮第3公園であり、 第1調整池は、見沼地域の最南92ヘクタール。 芝川両岸550万平方米に、調整池、周囲堤、越流堤、排水樋管、ポンプ排水路施設などで、 昭和54年から着工。 見沼地域の貴重な自然を、将来にわたり継続するために、植栽実験地などを設け、 遊歩道、自然体験・学習などが出来るよう整備の計画だという。 国道463号線付近の調整池北側より南を望む 調整池東側より 中央 東浦和駅付近 調整池東側より 中央 東浦和駅付近 調整池東側より 武蔵野線を走行する貨物列車 見沼の笛 見沼の伝説 昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのことです。 夕暮れになると、沼のほとりのどこからか、美しい笛の音が流れてきます。 そして、その笛の音に誘われるように、村の若い男たちが、 一人また一人と沼のほとりから消えてゆきました。 村の若者は、段々と少なくなって、お百姓も出来なくなるほどになりました。 困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにか怒っていなさるに違いない。 見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。 それからは、不思議な笛の音は、ぴたりと止んで、行方不明になる者もなくなり、 再び村は平和になったということです。 見沼通船堀近くの、さいたま市観光地解説案内板 より それから、幾百年もたってから、都会から ピーヒャラ ピーヒャラ という美しい笛の音が流れ、
その笛の音に誘われるように、村の若者たちは、一人また一人、そして集団を組んで、 村から消えてゆきました。 村の若者はいなくなり、お百姓も出来なくなりました。 とうとう日本の食糧自給率は30%を割ることになりました。 もう少しで、農家はなくなりますトサ。 日本のおとぎ噺より |
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2008年07月12日
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