なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

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   ひとり言005
     広島 長崎

   昭和27年から3年、福岡県に勤務した私は、休日を利用してよく列車に飛び乗り
   九州各地を旅行した。 
   長崎を訪れたのは昭和27年10月、朝方長崎駅の手前、浦上駅を通過。 
   浦上は長崎原爆の爆心地である。浦上駅より長崎駅の手前までの沿線右側は
   三菱重工の工場群である。 
   当時戦後7年近くが過ぎていたが、被災の状態のままで、熱線と爆風とで
   工場鉄骨はアメのようにひしがれ、機械は赤錆で放置された様子に、
   原爆の破壊力を目のあたりに見て、大変な衝撃を受けました。 
   長崎駅はバラック建て、市街地はまだ復興できず、多くの被災都市同様に、
   見渡す限りの被災の傷跡を残しておりました。 
   爆心地に近い浦上の天主堂は、崩れ落ちたレンガの山、
   今は有名になった「ケロイドのマリア像」も、頭と胴がバラバラに散乱し,
   見るも無惨な光景でした。 
   自分の体験、そして多くの被災都市を見て来たが、熱線と爆風にさらされた長崎の被害は、
   7年も経っていたにも関わらず、異色で、原爆の破壊力を改めて認識し、
   衝撃を受けた記憶があります。 

   ただ長崎は、山陰になって辛うじて被災を免れた名所旧跡が多く散在しております。 
   国宝大浦天主堂、国宝支那寺、歌劇「蝶々婦人」の題材になったグラバー邸、など等が
   被災地と対照的にあります。 
   原爆の悲惨さを目の当たりにした心に、大浦天主堂は心の癒しに成なり、
   敬虔な気持ちを更に引き立てる心地でした。 
   長崎南京町で食べた「長崎チャンポン」は,食糧難で単調な寮での食事でしたので、
   生涯忘れ得ぬ味覚のNO、1として記憶されています。

   広島を訪れたのは、昭和37年でした。 
   福岡勤務時代何度も東京・福岡間を往復したが、広島に下車しょうとは思っていたが、
   ついに広島は通過駅でした。
   今では新幹線「のぞみ」で、東京・博多間は5時間、東京・広島間は4時間ですが、
   当時は東京・博多間は最短25時間通常26・7時間かかっていて、
   しかも列車に乗るに前日から並んで、やっと座れる状態で、何時も満員列車に立ち通し、
   間がよければ大阪で座れると言う、幸運に恵まれることもあった。 
   広島で降りたら、列車に乗れる可能性が困難な時代でした。 
   昭和37年の広島は大分復興し、被爆の面影は薄れていたが、
   原爆資料館の展示に,大変ショックを受けた記憶があります。


   広島市の復興は昭和24年(1949)8月6日に公布された
   広島平和記念都市建設法(法律第219号)
   法律の目的「恒久のへいわを誠実に実現しようとする理想の象徴として、
   広島市を平和記念都市として建設すること」  
   他の戦災都市と同じく復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設する。
   広島市の都市計画は以後この名称が付けられ、停滞していた復興事業は
   国の特別な支援(補助金と軍用地などの国有地の無償提供)の下大きく前進した。
   平和記念都市建設法の制定は、広島を世界のピースセンターたらしめる
   崇高な平和都市の理念を持つ。
   
   平和公園は簡単に出来上がったものではなかった。  
   1945年9・10月に早くも記念公園成立のさきがけになる提案がなされた。
   被爆死者の霊を慰めると共に史上初めての被曝都市を平和へのモニュメントとして残す
   発想であったが、国からの特別援助は、戦災都市が広島だけではないとの理由から、
   補助金・国有地払い下げも拒絶された。
   本格的な復興費は、広島市復興局の試算では、土木事業費が街路費9億3000万円はじめ
   計20億4300万円、各種文化施設を加えると22億7700万円、
   昭和21年度当初予算の実に237倍という膨大な費用であった。
   ちなみに当初予算昭和21年度961万円、22年度4725万円という時代であったという。
   GHQへの意見書、国への陳情、外国への支援が提案され、
   努力が続けられ、「広島平和記念都市建設法」特別立法制定となる。
   しかし、復興計画の中で、公園緑地より住宅建設を望む声も強く、
   挫折するかに見えてときもあった。
   計画実現で重要な役割であったのが設計コンペティションで、
   そのため1949年4月、記念公園施設全体のデザイン公募、
   8月6日東大助教授丹下健三グループが応募145点から一等入選。

  写真の説明
  昭和37年(1962)12月の広島原爆公園は現在のように、まだ整備されていなかった。
  爆心地「原爆ドーム」と元安川  「原爆ドーム」の周りはまだ瓦礫あり。 
  元安川に浮かぶ船は何?? 酒の一杯飲み屋の屋台あり!?    
              昭和37年12月29日昼ごろ撮影
イメージ 1

  昭和37年12月31日午前10時ごろ撮影 
  2代目駅舎の三角屋根。 大晦日でもあまり人出がなかったようだ!?
  長崎駅舎は現在3代目。 
  初代駅舎は大正時代建設されたドイツ風建築、1945年8月9日原爆で焼失。  
  建設された2代目駅舎は、三角屋根で長崎らしい教会イメージのステンドグラスが印象的。
  ステンドグラスは現在、形が異なるが改札機上にある。
イメージ 2

  昭和37年12月31日撮影   大晦日の長崎駅前風景 と 長崎駅前のザボン売り
イメージ 3

  昭和37年12月31日撮影   長崎十六番館からの長崎港眺め
  造船大国の象徴・三菱造船所の超大型ドックもここから始まったのだが、まだ先の話
イメージ 4

  昭和37年12月31日撮影   爆心地 浦上天主堂跡
イメージ 5

  昭和37年12月31日撮影   長崎原爆資料館屋上から見た復興途上の長崎市街  
  大晦日にも操業中の工場から多量の煤煙!?  まだビルの建設は無かったようだ。  
  巨大な超大型ドックを持つ造船大国になるには、まだ程遠い!! 
イメージ 6


   このとき、広島、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、別府などの旅行のときのメモによると、
      東京 12月28日 20時10分発(急行第2宮島)
      広島    29日 10時55分着    所用時間 14時間45分
      宮島口   29日 17時12分発(急行さつま)
      門司    29日 21時08分着    所用時間  3時間56分
      博多    31日  6時50分発(急行第一長崎)
      長崎    31日  9時37分着    所用時間  2時間47分
      熊本     1日 18時07分発(急行フェニックス)
      西鹿児島   1日 21時26分着    所用時間  3時間19分
      指宿     2日 15時30分発(準急錦江)
      宮崎     2日 19時16分着    所用時間  3時間46分
      別府     5日 23時00分発(むらさき丸)
      神戸     6日 10時00分着    所用時間 11時間00分
      大阪     6日 14時00分発(急行淀)  
      東京     6日 21時30分着    所用時間  7時間30分
   ちなみに現在の新幹線と比較すると
      東京・大阪間 約7時間30分が 新幹線「のぞみ」約2時間30分
      東京・大阪間 特別急行「つばめ」は 6時間
      東京・広島間 約15時間が 新幹線「のぞみ」約4時間
      東京・博多間 約21時間が 新幹線「のぞみ」約5時間

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