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昭和20年8月のこと その3 原爆の生き残りは「すまない」という言葉で表現する。 自分が原爆を落としたわけでもないのに、何故こんな思いを・・・・と 割り切れぬ憤慨を抱きながら、やはり「すまない」という。 学校を休んで助かった、という負い目が、この手記を書かせたと著者 関千枝子はいう。 引率教師3名とクラスメート39名一人ひとりの、被爆してから死亡するまでの状況を、 丹念に丁寧に記録している。 しかし、不思議なことも、世の中には有るものだ。 一列に並び、さえぎる影も無かったところで、級友達は皆ドロドロに焼けただれた中で、 ただ一人右頬と左手の火傷を負い、原爆症で髪が全部抜け落ちたにもかかわらず、 生き残った者がいたという事実。 運命のめぐり合わせで、語り部として必要との「神の思し召し」 後々までも、「ただ一人の生き残り」と慰霊祭の度に、代表として挨拶をさせられ、 何かと手記を求められる、「普通の生徒」にはなれなかった坂本節子は、 大変であったろうと想像する。 その後、引率教師・波多先生の「母鳥のように生徒を抱いて」死んだ影を慕って、 教師になり、二児の母となり、毎年慰霊祭に家族全員で出席していたが、 38歳、長男小学3年、次男3歳のとき、胃がんで死去との事。 原爆の悲惨さを、この手記は如実に伝え、涙なくしては読めない。
改めて、核廃絶を、世界に訴えたい!!! |

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