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江戸東京・山手 14 聖徳記念絵画館 この絵画館は明治天皇と昭憲皇太后の威徳を記念するため、その絵画が展示されている。 絵画館の設計は、大正7年(1918)に、一般から懸賞募集し、一等当選のものを基礎にして、 明治神宮造営局が決定案を作成したものである。 鉄筋コンクリート造り、外装は花崗岩、中央円筒屋根の高さ32m、両翼の高さ16m。 外装と外階段表装の花崗岩は、岡山県・万成産。 屋根は一部銅板葺、急斜面はガラス張り、中央大広間の壁面と床、階段、休憩室、腰壁、柱など は大理石装飾張り、一部タイル張りで、大理石は岐阜県美濃と其の他で、全部国産の材で、 その量は実に9556平方m。 壁面には、縦3m、横25mの絵画80点(和洋画それぞれ40点)画展示されている。 絵画は明治天皇、昭憲皇太后の主な業績が史実に基づいて、 当代一流の画家たちによって 描かれ、費用は各絵画にゆかりの深い方々の寄付によるものである。 絵画は、天皇御誕生より御大喪まで、順番に展示してある。 この絵画が最終的に完成したのは、昭和11年〈1936〉である。 明治天皇が明治45年(1912)7月30日崩御あそばされ、全国民の悲しみのうちに、 その御葬儀が9月13日に、この場所・青山錬兵場で行われた。 ここがそのとき御柩車が置かれた葬場殿のあとで、現在、絵画館の裏庭にある。 中央の大木はこのことを記念して植えられた「楠の木」。 絵画館前の国旗掲揚台の一角獣。 日本的というか、東洋風というのか、左右の獣は阿吽の呼吸。 樺太国境画定標石 時 明治39年6月から40年10月 場所 樺太日露境界 明治37,8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となった。 その境界を表示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測機と 17基の小標石を建てて境界を確定した。 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代のひとつの記念物として、 樺太庁がこれを模造して外苑に寄付したもの。 日本側の菊の紋章の背面には、露国の鷹の紋章が刻んである。 絵画館には壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を 史実に基づき描いている絵画が展示されている。 絵画館正面左側端前の茂みにある。 俗名ナンジャモンジャの木。 江戸時代の植物学者・水谷豊文が尾州ニノ宮山中でこの木を発見し、 名付けたと伝えられる珍しい木。 何の木か解からないので、「何じゃもんじゃ」といったと言うが、昔はそうでも、 今はモクセイ科の落葉樹で、愛知、岐阜、対馬に産し、和名ヒトツパタゴ。 大正13年12月天然記念樹に指定され保護される。 5月はじめに、白い清楚な花をつけ、満開時は雪を被ったように見える。 絵画館正面右側端前庭の茂みにある。 お鷹の松。 大正7年〈1918〉明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買い上げた 敷地内に堺妙寺という古寺があった。 徳川3代将軍家光(1603-1651)が鷹狩りの途中、この寺に休息していたところ、 江戸城から飛び去った「遊女」と名付けた愛鷹が飛んできて、庭前の松の枝に止まったので、 家光は喜びその松を、鷹の名にちなんで「遊女の松」と名付けた。 後の世に人々が「お鷹の松」と呼んだ。 昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事で取り去られ、 競技場代々木門内に移設したが、碑石を新たに現在地に移築し、黒松を配した。 碑文は大正15年7月、渋沢栄一氏が85歳の時の書である。 国立霞ヶ丘競技場裏道路と絵画館前道路の交差点にある。 |
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2009年01月13日
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