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江戸東京・山手 41 幕末最後の剣客・榊原鍵吉が眠る西応寺 西応寺は、須賀町11番にある。 宗福寺の隣にある。 西応寺には、幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客・榊原鍵吉の墓がある。 天保元年(1830)麻布広尾に生まれ、12歳のとき麻布狸穴(まみあな)の 直心影流・男谷精一郎(おたにせいいちろう)の門下生となり、 嘉永2年(1849)には19歳で免許をうける。 安政2年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1862)には同師範に昇進、 元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。 慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、 明治元年(1868)徳川家達に従い静岡に移住した。 その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治3年帰京し再び下谷車坂に道場を開く。 明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後に衰退した剣術の再興と普及に努め、 明治19年には天覧の席で兜割りを成功させるなど剣術の隆盛をはかった。 明治27年(1894)死去したが、死ぬまで髷を切らなかったという。 新宿区指定史跡に登録されている。 西応寺本堂 幕末最後の剣客・榊原鍵吉の墓 西応寺本堂の脇は、墓地の参道になっていた。 十数段の急な石段を降りた処が墓地である。 とにかく四谷という地名の如く、本堂の裏は谷にむかう崖に成っていて、墓地は中段にあった。 お寺の大黒さんに、声をかけられた。 「榊原さんの墓地ですね。 時々訪ねて参詣される方があります。 墓地の前に、以前は案内がありましたが、今はないので分りにくいでしょう」 と 案内していただいた。 「榊原代々墓」 「この辺は、戦争の空襲で、残らず焼けてしまった。 私は昭和一桁生まれ。 嫁に来たときは、この辺りは何もなかった」 「そうですね。 私は4年生まれ」話しながら石段を登る。 石段の両側にも一列に、小さな墓地がある。 「これは本堂が焼けたとき、火をかぶった墓で、石がもろくなっていて修理してあります」 墓地のところどころに小さな札。 「この墓地に参詣する方は寺に立ち寄ってください」と記された札。 「このように、もう何年も何十年も無縁墓地の状態になったところが在ります。 檀家は廃墓にしたらと言いますが、なかなか想もいかないし」 いろいろと世間話。 「四谷は坂が多いですね」 「若い時は何とも感じなかったが、この頃は何処に出るにも、 帰りに坂を登らなければ成らないので、年寄りには億劫ですよ」 とにかく急坂が多い。 狂歌に優れた小餘綾磯女(こよつぎいそめ)の墓のある曹洞宗・永心寺 曹洞宗・永心寺は西応寺のすぐ隣の須賀町11番にある。 永心寺には、狂歌に優れた人で、ひまの内子と称し、 知恵の内子、世話の内子とともに三内子と呼ばれた小餘綾磯女(こよつぎいそめ)の墓がある。 曹洞宗・永心寺の山門 曹洞宗・永心寺の本堂と本堂脇の地蔵尊 曹洞宗・永心寺の墓地は西応寺と垣根で隣接し、やはり谷の中段にある。 小さなお寺、浄土宗・一灯寺 近代的な洋風建築の小さなお寺は、宗福寺のすぐ隣に在った。
夕方で、庭木に住職憩いの水遣り。 |
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