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江戸東京・山手 57 新宿歌舞伎町の昼の風景 新宿歌舞伎町は昼と夜とでは風景が一変する。 昼は、夜の歓楽の準備に忙しい。 配達のトラック、補修工事の車、夜の準備に忙しい従業員。 静まり返るバー・クラブ・飲食店、ドギツイ看板も、今は昼の光に色あせ、雑然としている。 新宿歌舞伎町といえば新宿コマ劇場 その新宿コマ劇場は平成20年12月末で閉館。 新宿歌舞伎町を代表する建物であったが、本格的な歌舞伎の公演はなく、 「演歌の殿堂」という名で知られた劇場で、数多くの大物演歌歌手の特別公演が開催され、 またミュージカル公演でも日本初演の作品が数多く上演され、またそれらの公演は テレビ中継されて、ますます人気を集め新宿コマ劇場・新宿歌舞伎町の名を全国に轟かせた。 美空ひばり登場後は、前半が舞台、後半が歌の2部構成セットのイベントが定番化し、 ひばりの死去以来ひばりを扱った舞台も数多く公演された。 多くのスターが誕生し、また若手志望者にとっては芸能界入りし、 いつかこの観客席を満員にするという夢・憧れの舞台であり、 観客も公演される舞台に、充分それを楽しんで興奮したものであった。 昨08年12月31日「第41回年忘れ日本の歌」の生放送で52年間親しんできた 「新宿コマ劇場」は閉館されたのである。 正面の「新宿歌舞伎町セントラルロード」も、昼は配達の車、補修の車が行きかい、 店はまだ深い眠りから覚めていない。 新宿コマ劇場、52年の華やかな幕を閉じる看板。 新宿コマ劇場前の通りの風景。 新宿東急ミラノ、シネマスクエアとうきゅう、新宿ミラノボウルの建物。 新宿アカデミー、新宿オデオン座、新宿オスカーの建物。 新宿歌舞伎町一番街の通りで、新宿コマ劇場前からの通りある。 靖国通りに架かる入り口アーチ。 新宿靖国通り・大ガード前の風景 新宿の始まりは、甲州街道に元禄11年(1698)に新たな宿場を内藤に作り、 「内藤新宿」とした。 新宿駅は明治18年(1885)3月1日に品川から赤羽まで、東海道線と東北線との 連絡線・日本鉄道品川線が開業し、追分に新宿駅が開業、 当時の一日の乗降客はタッタ50人といわれているが、 今は何と一日の利用客はJR150万人 小田急50万 京王70万 東京メトロ30万 都営30万ともいわれている。 東京都電の終点は新宿駅の東口前(現在の新宿2丁目、伊勢丹前、三越前の新宿通りを通り抜け 終点が新宿ステーションスクエアー広場)にあったが、 昭和24年に靖国通り・歌舞伎町を控えた、角筈(つのはず)及びその先の新宿駅前に移し、 「新宿角筈」とし、終点の東京繁華街新宿靖国通りに3車線の停留所に電車が止まっていた。 東京都区内を隈なく走り巡らされ、運行されていた電車路線(今の都バス路線に匹敵する)は、 昭和45年(1970)ごろから自動車の通行に押され、都電は次々と廃止され、 変わって自動車が我が物顔で走り回った。 1972年以降で生き延びた都電は、早稲田―大塚―王子―三ノ輪を走る荒川線のみと なってしまった。 写真の都電運行系統を記せば、 11系統:新宿駅―四谷見附―半蔵門―桜田門―銀座―築地―月島通り 12系統:新宿駅―四谷見附―市ヶ谷見付―九段下―神保町ー岩本町―浅草橋―両国駅 13系統:新宿駅―四谷見附―市ヶ谷見付―九段下―神保町ー岩本町―人形町―水天宮 現在この路線があれば、東京の名所を通過する、都内観光・路線ルートとして、 大人気間違いなしと思う。 伊勢丹の隣に新宿車庫があったが、空襲で焼失し「抜け弁天」近くの大久保車庫に統合された。 花園神社近く、新宿区役所通りから入る、今の緑道公園は新宿角筈から、大久保車庫に入る 専用線路であったと記憶する。 昭和42年当時の都電終点・新宿駅前・停留所(写真2枚)と 大久保車庫行き・角筈専用線路入口の写真(現在・緑道公園(写真1枚)) (出典・林順信著・都電が走った街今昔) 昭和42年の写真と比較して高層ビルが立ち並んでいる。 (写真11枚目は写真8枚目と大体同じところからの撮影と思う) (写真12枚目は市役所通り交差点(緑道公園入り口)で撮影。 (10枚目写真の専用線路入り口に入る電車は、現在の緑道公園に入って行く写真) (13枚目の写真は、9枚目の写真の電車が停留している位置あたりが、横断歩道の位置) 昭和42年頃と比較すると、靖国通りのビル街の変貌は著しく、
新宿西口の景観は、昔の淀橋浄水所跡地に、林立する超高層ビル群には圧倒される。 |
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2009年05月24日
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