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江戸東京・山手 46 内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓のある愛染院 愛染院は真言宗豊山派・擉鈷山光明寺という。 墓地には内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓と国学者・総検校・塙保己一の墓がある。 どちらも新宿区指定史跡である。 内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓 東海道の品川宿、中仙道の板橋宿、日光街道の千住宿と並んで「江戸四宿」といわれ、 内藤新宿は三宿に比べ100年後の元禄11年(1698)に開かれた新しい宿場であった。 甲州街道の最初の宿場は高井戸で日本橋から4里(約16km)で、 人・馬・物資流通が増え不便となったので、 浅草阿倍川町の名主・高松喜兵衛(後に喜六と改名)が宿場設置許可を願い出た。 大名の内藤氏の拝領の地だったので「内藤新宿」と名が付けられた。 新宿を開発し旅籠、遊興場所をつくり、利益を得ようとした。世は元禄時代、町人の力も高まり、 勘定奉行萩原重秀の金銀貨幣の改鋳でインフレ、ワイロ横行の時代で、 幕府に権利金5600両を納入したという。 高松は本陣を経営し、新宿の名主となり、盛り場として発展、今日の基礎をなした。 塙保己一 「前総検校塙先生之墓」 江戸時代中期の盲目の国学者で、和学講談所を設立「群書類従」の編纂で名高い。 埼玉県児玉郡保木野村に生まれ、5歳で病にかかり7歳で失明し、 13歳のとき江戸・雨富検校須賀一の門下となり、本姓塙をもらった。 優れた記憶力を認められ学問を許され、国学、漢学、和歌、医学などを学んだ。 特に国学は加茂真淵に学び造詣を深めた。天明3年(1783)検校になり、 水戸藩の「大日本史」の校正などたずさわり、文政2年(1819)「群書類従」を完成、 文政4年総検校となり、その後「続群書類従」の編纂半ばで没した。 業績は、宇多天皇以来の史料450巻を編集、「群書類従」は1270種、530巻。 「続群書類従」2103種、1150巻を編集している。 これらは歴史、日本文学研究にはなくてはならない貴重な書物で、 塙保己一の功績は不朽のものであり、この版木は現在渋谷の温故学会に残されているという。 はじめ安楽寺に葬られたが明治に廃寺となり、愛染院に改葬された。 豆腐地蔵の東福院 豆腐地蔵の東福院は新義真言宗・宝珠山・東福院と号する。 愛染院の真向かいにある。 右手の先が欠けた地蔵は、 伝説に「裏であくどいことをしている嫌われ者の豆腐屋に、地蔵が懲らしめのため 豆腐を買った代金をシキミの葉に変えてしまった。 男は怒り、坊主に化けた地蔵の手を切ってしまった。 血の跡を追いかけ東福院の門の中で、地蔵が笑いながら立っていた。 男は驚き罪を悔い、地蔵堂を建て信仰した」という。 |
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2009年03月18日
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