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江戸東京・山手 50 家康の北の守り・毘沙門天がある日蓮宗・平等山本性寺 日蓮宗・平等山本性寺は下総国小金宿平賀(千葉県松戸市)の本土寺の末寺で、 家康が江戸入府に従い三河の郷士・三田佐兵衛尉守綱が麹町の隠居所を、 寛永18年(1641)観智院日泳上人に譲渡し、三田氏の没後の寛文10年(1670)に その菩提を弔うため本性寺が建てられた。 この山門と正面の昆沙門堂は戦災に焼け残った四谷では数少ない貴重な建築物で、 総ケヤキ釘一本使わない、切組造り手斧削りの元禄時代頃の建造とされる。 毘沙門堂に安置されている毘沙門天像は、もと江戸城本丸にあったもので、 大田道灌時代から伝わるものとされ、五代将軍綱吉の側室・春麗院の発願により、 堂ともども本性寺に寄進された。 この像は別名「北向き毘沙門天」といわれ、 徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神毘沙門天を北向きに安置して 祈願したという伝説がある。 以後は江戸庶民の崇敬を集め、福運財運のご利益が顕著な開運毘沙門天として、 厚く信仰をされている。 本性寺の山門 本性寺の毘沙門堂 本性寺の本堂 萩原宗固の墓 新宿区登録史跡に指定 江戸時代中期の国学者・歌人の萩原宗固(1703−84)の墓地。 平成16年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられた。 宗固は市ヶ谷本村町の鈴木家に生まれ萩原家の養子となった。 幕府の御先手与力を勤めたが、病により辞職した。 享保から天明年代(1716−80)に国学者・歌人として活躍し、 門人に国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や、 老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。 特に塙保己一は「群書類従」の編纂に宗固の蔵書類を参考にするなど、 大きな影響を与えたという。 宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど新宿とのつながりの深い学者であった。 82歳で没し、著書に「一葉集」「蜻名遺伝」「蜻鈴日記注釈」などがある。 和歌は冷泉為村に学び、次のような名吟がある。 「夢中郭公」(ほととぎす) 「夢なれや 枕ならべて ねし人も きかぬ初音の ほととぎす」 関連記事 江戸東京・山手46 前総検校・塙保己一先生之墓のある愛染院 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/24675995.html 本性寺にある萩原宗固一族の墓 萩原宗固の養父母の墓 萩原宗固一族の墓 (右側に宗固の戒名) 真言宗豊山派・金剛山 蓮華院 顕性寺 奈良桜井の長谷寺の末寺 本尊・大日如来 宗祖・弘法大師空海 顕性寺は本性寺の右隣に位置する。 正妙山 法恩寺 法恩寺は本性寺の左隣に位置する。
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2009年03月22日
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