なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

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記事06 東京大空襲 その4 
      昭和20年(1945)3月10日


翌朝目覚め、目がよく見えない。  
父も私も、このまま失明するのではないかと不安に思う。

実は、母は弟妹を連れて、父の郷里、千葉館山の在に疎開し、
祖父母と暮らし、慣れない田畑仕事をしていた。

東京には、父の仕事上と、俺の、2人暮らし。

中学3年の俺を心配して、半年振りに、俺の様子を見に、
往復切符で7日に来て、10日に帰る筈だった。

当時列車の切符を、買い求める事は、
非常に困難であったが、伝手を求めて購入した貴重な切符。
貴重な切符を手に、東京に来て、最悪な事態と成ってしまった。
恐らく、僻地とは云え、東京の最悪の事態の情報は、
噂として流れているであろう。

当時は、電話は無い、電報も不通の事態。 
こちらの様子を報せる術はないので、安否を心配しているであろう。

3日ばかりで眼が回復したので、早く母と妹弟を、
疎開先の館山に送らねば、祖父母とすぐ下の妹弟が、
安否を気使っているだろう。 

5日後、上野駅まで電車が開通。

3歳児の妹を、俺がオンブして連れて行く。 
上野駅から小岩駅まで電車は不通なので、その間は徒歩。

軍隊・警官隊・消防団・勤労動員された者が、
あちらこちらで、散乱する遺体を収容していた。

3歳児とは言え、上野・小岩間のオンブで徒歩は、結構キツカッタ。
小岩駅から千葉駅まで電車は開通。 
千葉駅から一日数本の内房線に乗車。  

「なかなか帰って来なかったので、モー駄目だと思っていた。
良かった。良かった」
祖母が涙をこぼした。

翌日、川口に帰る。 
その翌日、勤労動員先に職場復帰し、学校に無事を報告。  
その後川口から毎日、
勤労動員先の五反田・逓信省電気試験所に通勤した。

職場の帰りには、毎日友の安否、幼友達の安否を求めて、
歩き回ったが手掛かりはない。 
避難所の川南国民学校は、焼夷弾の直撃を受けたのであろう、
3日3晩燃え続け、助かった者はいなかったという。
(推定2000名犠牲)    

数年後の調査では、同級生の半数以上が,この夜犠牲になり、
恩師一家、母の姉一家、隣人・友人にも、
一家全滅と言うものが多かった。

隣組の人達に避難を命じた父は、
避難所の国民学校焼失に衝撃を受け、
そこに避難したであろう隣組員の、その後の安否が知れず、
若しや一家全滅と、生涯、気を掛け続けたのであった。


 

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