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記事08 東京大空襲 その6
今年、東京大空襲より丁度70年の、
平成27年(2015)3月10日。
東京都慰霊堂に眠っているであろう、
小学校の恩師の一家、母の姉・叔父叔母従兄姉の一家、
同級生である親友の一家、隣家の叔父さん叔母さん一家、
幼友達たちの一家、数えれば限りない方々の冥福を祈り、
参拝する。
東京大空襲で犠牲になった人々の、
「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が、
平成11年(1999)3月の東京都議会第1回定例会で
初めて取り上げられ、同年10月、碑建設の趣旨に賛同した
都民・団体が、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する会」を
設立し、平成11年11月から設立趣旨に賛同し、
都民の願いをこめた碑にするため、都民・団体からの募金による、
設立の募金活動が行われた。
会は、平成12年12月、この募金9千余万円を東京都に寄付し、
都は、これを建設経費の一部に充て、関東大震災慰霊堂の庭に、
ようやく「碑・犠牲者名簿を納める場所」の建設に着工、
平成13年(2001)3月、竣工した。
戦時中、度重なる空襲の犠牲者は、
水死・溺死者の場合、公園や空き地に、ただ並べられ、
戦時下、各自胸に住所・氏名が書かれた「名札」を付けることが、
義務つけられていた為、この名札を頼りに、家族・親類・縁者に、
引き取られるが、棺桶も、荼毘する場も無い。
遺体引取が無い者は、荼毘する場所無く、近くの公園・空地に、
そのまま埋められた。
焼死者は尚悲惨で、本人確認が不可能なので、員数確認の上、
これもそのまま埋められた。
混乱の中とは云え、戦争は惨いことで、
都内の公園、神社・寺の境内、空き地に、埋葬され、
中には数千体単位で埋葬された。
江東区猿江恩賜公園、隅田川・隅田公園などは、
一か所一万体規模で埋葬された。
戦争とは恐ろしいことである。
昭和26年、各所に仮埋葬された犠牲者を発掘し、火葬して
昭和5年、東京復興事業として建設された、
「関東大震災の遭難者を供養するための慰霊堂(と復興記念館)」
に納骨した。
その数、およそ10万5千体、
関東大震災による遭難者約5万8千体の中に、合祀された。
そして、「東京都慰霊堂」と命名され、
毎年3月10日と、9月1日に、東京都慰霊協会により、
公費による慰霊法要が執り行われている。
戦後の復興工事に、その後諸所の工事現場から、
戦災殉難者が発見され、その都度、納骨・合祀されたのである。
ここに祀られている人々は、
関東大震災の時の、身元不明の一般遭難者と、
東京大空襲の時の、身元不明の一般殉難者、
いわゆる、ごく一般の都市民犠牲者が、納骨されている。
軍人・軍に属する者・軍に従事した者は、
靖国神社、千鳥が淵の戦没者慰霊碑に、招魂され、
厳格に区別されているという。
かつて、慰霊法要のとき、追悼の辞を読みあげる来賓の式辞に、
関東大震災の天災による遭難者と、
無謀な戦争による人災による犠牲者の、
区別も判らない者の挨拶に、無性に腹が立ったことがあった。
戦災の記憶が風化しないように、
無謀な戦争の犠牲になった、ごく一般的な戦災犠牲者の、
慰霊を追悼する施設、後世に戦争の愚かさを伝える資料館施設、
戦災のメモリアルパークの建設を、
広島長崎、沖縄と共に、一般戦災犠牲者数が圧倒的に多い東京、
ここにも「慰霊の地」の建設をと、計画・推進する運動が、
戦後間もなくから計画陳情、募金活動、不許可、推進頓挫、
計画再起再興、長く運動するも、進展せず今日に至ってしまった。
その背景には、「一般戦災者だから、なにも慰霊堂が無い訳ではない」
「首都圏に、戦争を思い出させるような施設は必要ない」
都議会でも長年議論されてきたようだが、今もって
「戦災復興慰霊堂」「戦災復興記念館」「戦災復興公園」
の建設は頓挫したまま、多くの人々から集めた、
貴重な資料などを、倉庫に眠らせ、散逸させているという。
平成11年度から、「東京空襲犠牲者名簿」が作成され、
登録受付が始まったという。
広報が行き届かず、一般には深く判らなかった。
70年を経た今年、
「東京空襲犠牲者を追悼する平和を祈念する碑」前の受付で、
コンピュータ管理された「名簿記載者」を、検索してもらい、
小学校恩師と親友の名が名簿に、記載登録されていることが、
判った。申請者が小学校親友と知って、感激!
然し、先生の奥様、家族名の記載なし。
一家全滅の親友も、家族名の記載なし。
恩師・親友とはいえ、申請者の友人は、
家族名まで記憶していなかった。
母の姉の一家は登録されていなかった。
知らなかったので、当然。
登録用紙を貰い、東京都に申請を出すようにとの事だが、
母が亡くなって久しい今、叔母一家の
「姓名、年齢、死亡年月日、死亡場所、申請者との関係」
の記載が出来るだろうか?
父、母が生きていたならば、隣近所の人たちまで、
姓名、年齢など判り、たちまち数人十数人は申請を出せたと思う。
タケちゃん、新ちゃん、ブンちゃんではダメだ。
「ただ名簿に名前が書かれていて、飾られているだけ。
中を見ることも出来ない。 名簿を眺めるだけだよ」
入り口で、誰かが話していた。 まったくその通りだった。
戦後10年、20年位までは、人々に記憶されていたであろうが、
70年過ぎた現在、その記憶は完全に失われ、
永遠に忘れ去られてしまうのである。
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2015年03月18日
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