なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・昭和20年8月

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   昭和20年8月のこと  その25
   占領軍進駐による敗戦国日本の戸惑い

   日本人は、マッカーサーを頂点とする占領軍に対して、どのように受けとめたか?
   「進駐後の心構え」という朝日新聞の昭和20年8月23日付けの新聞記事に、
   「婦女子は外国軍人に隙を見せるようなことをしてはいけない」「淫らな服装はせぬこと」と、
   極端に言えば暴行されないように注意しろ、といっているのだ。 
   このような怯えは、「性の防波堤」と称して、
   東京・大森に占領軍向けの特殊慰安設備第一号「小町園」が、内務省の司令によって、
   手回し良く8月27日に設置された。
   然し慰安施設は非民主的ということで、間もなく閉鎖された。

   日本の非軍事化と民主化という大きな目標を掲げて進駐してきた連合国総司令部GHQに対し、
   慰安施設の提供という反応は、時の政府・役人が占領軍の本質を認識していなかった証明である。 
   いかに当時のお役人も接待漬けに染まっていたか、
   そして占領軍に対しても、その様に接待したら喜ばれるであろうと目論んだことが、
   あっさり拒否されたのであった。

   これに便乗して、いち早く立ち上がったのが、風俗営業者である。 
   ダンスホールならば文句はあるまいというわけで。


イメージ 1
特殊慰安設備協会(RAA)事務所を設立
占領軍の「性の防波堤」となる「国営の売春施設」を作り、運営する機関。
写真は銀座にある特殊慰安設備協会事務所前で張り紙を見る占領軍兵士たち。  8月26日撮影
                    (毎日新聞社)         
イメージ 2
ダンスホールで従業員を大募集。
連合軍兵士を相手に、各地でダンスホールがオープン。
大阪でも写真のようにダンサー・芸者・叔女(淑女)接客係・通訳・楽士などを募集した。                              (朝日新聞社)
   昭和20年8月のこと  その24
   マッカーサー連合国軍総司令官、厚木飛行場に降り立つ

   日本がポツダム宣言を受諾してから、わずか2週間、
   マッカーサー連合国軍総司令官は、昭和20年8月30日午後2時5分、
   神奈川県の厚木飛行場に降り立った。 
   マッカーサー元帥は、愛機「バターン号」を降り立つときに示した悠然たる姿は、
   「日本人は降伏を受け入れる」という確信に満ちた信念を、
   彼一流のポーズで身をもって示した瞬間である。
   アメリカは原爆投下がなければ、日本本土で決戦になり、100万人のアメリカ兵が
   犠牲になるであろうと想定されていた、その日本本土への無血乗り込みであった。
   (原爆を正当化するための過大な数字と言われている)
   
   そしてアメリカ陸軍第8軍の将兵1200名を率いて厚木から横浜に向かった。

   ここで日本は終わり、ここで日本は始まったのである。
   占領軍を迎え、敗戦国・日本は戸惑い、怯え、誤解と色々としたのであった。

   関連記事をご参照ください
   むかーし、むかしのお話 第2話
      この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/7714619.html
   むかーし、むかしのお話 第3話
      この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/7829512.html

     マッカーサー連合国軍総司令官、愛機「バターン号」から厚木飛行場に降り立つ
       昭和20年8月30日 午後2時5分      (毎日新聞社提供写真)
イメージ 1

     東京に向かう連合軍艦船 8月27日
     約430隻の大型船団が富士を横目に、続々と相模湾に姿を現した。 
     写真は戦艦サウス・ダコタからの撮影。     (毎日新聞社提供写真)
イメージ 2

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   昭和20年8月のこと  その23   終戦

   日本の敗戦は、日本中の各地方で様々な受け止められ方をした。 
   敗戦を知った場所も、学校・工場・疎開先・路上・列車内など様々であった。
   八月十五日の太陽が沈み、晴れた夜空を仰いだ人達は、美しい月を見ている。 
   地方によっては灯火管制は解除になり、町に明かりが灯ったが、
   正式の決定は20日のことであった。

   茨城県佐原村村長・国谷潤一郎の昭和20年8月15日の日記
   前夜14日は、恒例の七夕祭りであったが、ほとんどの家で七夕を祭らなかった。 
   たくさんの男達が出征して行き、相次ぐ供出と食糧増産で村は疲弊し、
   七夕も祭れないことが、寂しかったという。 
   十五日この夜、村中の明りをともすことにした。

   8月14日 (火)
     七夕祭りなれども七夕様をたつるもの、りょうりょうたり。 
     十時より役場、殺虫剤撒布。
   8月15日 (水)
     晴、正午 天皇陛下御自らの放送あり。 
     ポツダム共同宣言を受諾する旨の詔書を渙発せらる。 
     敵のいう無条件降伏なり。 言うべき言葉を知らず。 感無量なり。 
     今後の困難な前途が思いやられる。
     夜、久しぶりで電灯の明るさに浴す。      


   経済学者・河上肇の昭和20年8月15日の日記
   昭和8年、経済学者・河上肇は共産主義運動に参加したことで、
   治安維持法違反により投獄され、獄中生活を送った。 
   出獄後は文筆を絶ち、京都の自宅で隠棲していたが、
   昭和20年には栄養失調で病床にあった。
   八月十五日の感激をこう記した。

   八月十五日
     (略)
     正午 天皇陛下ラジオを通じて平和克服の詔勅を朗読し給ふ。 
     午後塚本氏重ねて来遊。 昂奮せしためにや、発熱八度六分。 
     夜に入りて二喜男君来遊。 夜中めざめがちにて睡不十分。 
     この日午後川端警察署よりお役人見ゆ。 会はず。

          あなうれしとにもかくにも
             生きのびて 戦やめるけふの日にあふ
       いざわれも 病の床をはひいでて
          晴れゆく空に 光仰がむ
                     (「河上肇・昭和20年日記」河上肇全集・岩波書店)

   河上肇はこの日から五ヵ月後、昭和21年1月30日に病死。


   佐賀県の炭鉱夫・某の昭和20年8月15日の日記
   戦場の兵士は、過酷な状態で耐え忍んでいたが、
   内地での職場の労働もそれに劣らぬ過酷なものであった。 
   この頃になると、実に沢山の人が半病人のような健康状態になっていた。 
   しかし、必勝の信念と、強制の中でかろうじて自分を支えていたのである。

   佐賀県の炭鉱で働いていた27歳の壮年は、8月11日過労で倒れた。 
   石炭は血の一滴といわれて、無理な増産が続いていた。 
   栄養不良、過労、睡眠不足が重なり下痢、発熱で起きられなくなった。
   
   8月11日
     朝、下痢をした。 どうも身体が熱く、熱があるように思った。 
     帰宅して計ったら38度8分。 赤い便で赤痢かと疑う。 
     先生に診て貰ったら腸炎と診断。 便所からの帰途、貧血してぶっ倒れる。
   8月12日
     公休、 終日絶食 仲々の苦痛。
   8月13日、14日
     病臥、十三日重湯  十四日おかゆ

   8月15日のラジオも病床で聞いた。 敗けたと思ったが、自分の出来ることをして、
   祖国のために全力を尽くしたという満足感もあり、涙は出なかった。  
   しかし、身体も精神も虚脱状態となってしまった。
   昭和20年8月のこと  その22   終戦

   昭和20年8月6日 8時15分、広島の上空でウラニウム爆弾が破裂した。
   爆心地を中心に半径6km周辺の家屋が6〜7万戸壊滅、政府9月の発表は、
   死者7万、負傷者13万、然し実際は死者20万、負傷者15万以上といわれる。  
   大本営はこれを「新型爆弾」と発表した。 
   原子爆弾と正式に発表したのは、無条件降伏が決定した14日の報道からである。
   アメリカは7月16日に原爆実験に成功し、終戦後自国の優位を確保するために、
   8月8日のソ連参戦の前に使用した。  

   広島逓信病院院長・蜂谷道彦の昭和20年8月15日の日記
   明治36年生まれ 当時42歳
   岡山県立矢掛中学、第六高等学校、岡山医科大学を昭和4年卒業。
   昭和17年広島逓信病院院長就任。  爆心地より1.5kmほどの地で原爆被爆。

   8月6日
     まさか大試練の日であろうとは思わなかった私は、夜来の警防勤務でくたびれきって
     座敷の真ん中に寝転んでいた。 からりと晴れた土用の朝だ。 
     雲一つない紫紺の空にくっきりと浮かびあがった庭の樹木、まばゆい光、しかも逆光、
     濃い影が庭に深味を与えて、とても美しい。私はぼんやり庭を眺めていた。
     眺めていたというより美しさにみとれていたのであった。 
     さらに強い光がすうすうと二度つづけさまに光った。 
     黒い日影が全くなくなり、庭の隅々、石灯籠の中まで明るくなった。
     マグネシュウム・フラッシュか、電車のスパークか、果ておかしいナ―――
     薄暗い闇を通して斜めに傾いた柱がぬっと眼の前に現れた。 
     私は思わず飛び起きて逃げ出しつつあったのだ。その柱の下をくぐった。 
     我武者羅の脱出だ。 通りつけた廊下を駆け出していた。 
     パンツがない。 私はたじろいだ。 シャツもない丸裸だ。・・・・・
                         (「ヒロシマ日記」法政大学出版部) 

   爆心地より1.5kmほどの地で原爆被爆。

   8月15日
     重大放送のある日だ。 一夜考えて、敵が本土へ上陸したものと思った。 
     国民総奮起の重大放送が大本営からあるものと信じた。 
     私は心細くなって山の中へ逃げ込む順路を考えた。 山陽線沿線は危ない。 
     広浜線か、芸備線を伝えば中国山脈にはいれる。 私は知人の家を考えた。 
     三次、庄原、西城、東城、宇治、芳井――
     山の中ばかり通って倅の疎開先の宇治と母の疎開先の芳井とを心に描いて
     逃げる順路を考えた。 
     山西作戦から帰った友人が、兵隊が山の中に入ったら戦は負けだといっていた。
     四月ごろから敗戦様相をそなえていた、鉄砲を持たぬ兵隊、柄の悪い兵隊もありだし、
     老人子供以外は市外への疎開は厳にとめられていた。 
     四十歳以下の者は都市防衛隊に編入されていた。 
     万一の事があったら我々市民は弾丸運びや軍夫に徴用されることになっている。 
     弾圧による弾圧、憲兵の監視が厳しい。 うっかりしたこともいえない。 
     碌な事はないと思っていた。 とうとう敵の本土上陸か。 
     ピカで全滅、我々でも焼け跡で頑張っているのに兵営の跡は何もない。 
     師団司令部の跡に臨時司令部ぐらいは設営してもよいわけだ。 一足先に逃げたのか。 
     私は逃げ足の早かった軍隊を思い起した。 
     空襲警報の出る度に馬匹疎開と称して病院裏を兵隊が逃げていた。 
     焼けてから見れば兵営も、弾薬庫も空っぽだった。 軍隊は用意周到だ。 
     四月までに将校家族はほとんど郊外に疎開。 心当たりがある。 四月から疎開禁止。 
     私はあの時疎開したかったが、許されなかった。 
     もはや、山の中に司令部や兵営が出来ているに違いない。 
     我々は置き去りか、無防備だ―――
     私は思うことさえ許されないことを心ひそかに思っていた。

     局長室に集まれといってきた。 重大放送だ。 ラジオがあるという。 
     私は早速局長室にいった。 大勢の従業員が部屋の中に詰め込んでいる。 
     局長閣下がラジオの傍に立っておられる。 私は入り口の柱にもたれて暫く待った。 
     雑音の多いラジオがなりだした。 
     そのうち、何か言う声が聞こえたり聞こえなかったりする。 
     タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビということだけははっきり分ったが、
     あと先はさっぱりわからぬうちに放送は終わった。 
     ラジオのそばにいた岡本総局長が直立して、ただ今の放送は、天皇陛下の玉音放送である。
     仰せの通り、戦に敗けたのだ。 残念であろうが何分の指示があるまで、
     諸君は職責を守っていてくれ、との主旨の簡単な挨拶があった。

     私は雑音が多くてさっぱりわけの分らぬラジオ放送を、
     国民総決起の激励演説と思い込んで、ぼんやりして聞いていた。 
     それが計らずも、天皇陛下の玉音放送であった。 然し降伏の詔勅だったのだ。 
     私は事の意外に頭がぼうとした。 心理装置が一瞬停止した。 涙が出なかった。 
     涙腺の機能が停止していたのだ。 
     局長閣下の訓示で玉音放送と知り、粛然として直立不動の姿勢をとった。 
     訓示が終わってからも暫く直立不動の佇みを続けていたようだ。 
     脳貧血が起きかけたか一時、眼の前が暗くなった。 
     冷たいものが背中を伝い、歯ががちがちして歯の根が合わなかった。

     私はこっそり病院へ戻った。 そして「敗戦だ」と一口いってベットに腰をかけた。 
     病室は俄然静まり返った。 寂として声なくしばらく沈黙がつづいた。 
     敗戦を知り一同唖然としていたのだ。 間もなくすすり泣きが聞こえ出した。 
     爆撃されたとき敢然立って我武者羅に活躍した者の面影は全くない。 
     意気消沈全く見る影もない態だ。 ひそひそ話がきこえだした。 
     突然誰か発狂したのではないかと思えるほど大きな声で、
     「このまま敗けられるものか」と怒鳴った。 
     それにつづいて矢つぎばやに「人をだますにもほどがある」
     「何のために今まで辛抱したか」「これでは死んだものが成仏できるか」
     いろいろの表現で鬱憤が炸裂する。 
     病院の上も下も喧々囂々まったく処置なき興奮状態に陥った。 
     日ごろ平和論者であった者も、戦争に飽ききっていた者も、
     すべて被爆この方俄然豹変して、徹底的抗戦論者になっている。 
     そこへ降伏ときたからのだから、収まるはずがない。 全てを失い裸一貫。 
     これ以上無くなることはない。 破れかぶれだ。 
     私も彼等の言うように徹底的に戦って、しかる後に一死を以って君恩に殉ずるのが、
     私の本分であると思った。 私はさらに思った。 
     傷だらけの見苦しい姿で生き永らえるよりは、殉国の華と散るほうがましだ。 
     有終の美をなすことを忘れてはならぬと、心ひそかに自分にいいきかせた。

     降伏の一語は全市壊滅の大爆撃より遥かに大きなショックであった。
     考えれば考えるほど情けない。降伏は天皇陛下の御命令である。 
     異議をとなえることはできない。 残念至極である。 
     堪え難きを堪え、忍び難きを忍びを黙唱した。いくら黙唱してもよい知恵はでなかった。
     私の考えは知らぬまに見当はずれの方向に移った。

     思えば三年前大東亜戦争が始まった時、私は終日戦果の発表に酔って、
     取るものも手につかず有頂天になっていた。 
     あのときの感激、あの時には今日あるを思わなかった。 
     あの感激の一日、一億一心歓喜の頂点にあった。
     なぜ、あの時、陛下に玉音放送をお願いしなかったのか。 
     あの時は一切がっさい東条さんの一人舞台であった。
     あの時の甲高い東条さん得意の放送は、未だ耳朶に残っている。
     「貴様らは陛下を何と思っているか。 勝手に戦争をおっぱじめて、
     調子のよい時にはのさばりかえって、いざ敗け戦さとなると、隠せるだけかくして、
     どうもこうもならなくなったら上御一人におすがりする、それで軍人といえるか。 
     腹を切って死ね」と腹立ちまぎれに思わず軍を恨み軍を罵倒していた。  
     私ばかりではない。
     「東条大将の馬鹿野郎、貴様らは皆腹を切って死ね」と怒鳴り散している者もあった。

     私は興奮のあまり立っても座ってもおれなくなった。 
     ベットから飛び起きて病院を抜け出した。 
     そして何処をどうさまよったか分らぬが、逓信局の裏口へ立っていた。 
     「先生、どうなさった」と声を掛けられ我に戻った。 
     よほど興奮していたに違いない。 思い直して患者を見舞うことにした。 
     患者も興奮していた。
     「大変なことになったなあ。 天皇陛下の御命令だから・・・」を連発して歩いた。 
     患者の容態を診たり聞いたりする心の余裕は持たなかった。 
     看護婦さんが無心に患者を治療している。 
     その姿を見て私は教えられるところがあったのか、
     努めて心を落ち着けるような気持ちになった。
     (略)                   (「ヒロシマ日記」法政大学出版部)
   昭和20年8月のこと  その21   終戦

   帝都・東京は灰燼帰す
   東京は空襲で焼失した家屋は71万3千戸以上にのぼり、
   広島の焼失家屋は約10万戸であることから比較して、
   いかに東京が焼け野原で灰燼に帰したが想像されよう。
         (「日本列島空襲戦災誌」東京新聞社)
   人口は、開戦当時800万人が住む大都市・東京は
   20年6月15日の人口調査では220万人、1年前の約3割に減少
         (「近代日本総合年表」岩波書店)。
   しかも、異様であったことは、町から子供や女や老人が姿を消して、
   男ばかりが目立った都会になった。
   殆どの家庭では、主婦、老人、子供たちを地方に疎開させ、
   どうしても仕事で東京を離れられない、男たちが残った。
   この男たちが、日本の官僚組織、公的機関、企業、報道関係などを動かしていた。
   この見渡す限りの焼け跡が、日本の原点となった。

 東京大空襲(3月10日)の1週間後の浅草。 浅草松屋デパート屋上からパノラマ撮影した惨状。
  左は隅田川、右に地下鉄浅草駅ビルと焼け落ちた浅草仲見世。 (東京空襲を記録する会)
イメージ 1

イメージ 2
     焼け跡で入浴   
     3月10日の空襲を頂点に
     B29による絶え間ない爆撃で
     東京は焼け野原が増え続ける。
     国電大塚駅付近の
     ドラム缶風呂での入浴の光景。 
     唯一、休息のひと時の笑顔。
          (朝日新聞社提供)
イメージ 3
 国会議事堂前に畑が出現(9月)   
 終戦直後の食糧難を乗り切るため、
 日本中が畑作りに精を出し、
 焼け跡は耕されて麦、いも、
 カボチャなどが植えられた。 
 畑作りは、同時に、泥棒との知恵比べだった。
        (共同通信社提供)

   平岡敏男の昭和20年8月15日の日記
   明治43年生まれ 当時35歳
   終戦当時、毎日新聞社東京本社政経部副部長、デスク仕事。
   家族は青森県に疎開、杉並の自宅で単身生活。
   職務上、和平交渉の進展状況・内容は刻々知らされる。
   広島・長崎の原爆がいつ東京に落とされるかと、恐怖不安を抱いていた。
   編集局長・吉岡文六が秋月外交官から「フランスは何度も戦争に負けたが、必ず立ち直った。
   民族が優秀だからだ」という話を、仲間に披露した。 
   新聞社内では、日本の敗戦を前提にして、戦後をどうするのかという考えが広がりつつあった。
   8月15日の放送を、社内全員が起立して聞いた。 
   戦争責任をどうするかという声も聞かれたが、多くの男たちは黙ったまま立ちすくんだ。 
   内閣情報局に、報道全て規制された新聞で、戦後に向けてわずかに表現できたには、
   8月15日付紙面の社説「過去を肝に銘じ前途を見よ」であった。
   社説は「(略)過去から得る教訓は貴い。われわれは過去を忘れず、
   その教訓を骨身に徹せしめなければならぬ。 しかしながら、断じて過去に捕らわれ、
   過去の囚人となってはならない。 強い日本を建設すべくひたぶるに進んできた。
   勿論ただ日本が強くさえあればよいというのではなかった。 
   道義の上に強い日本を建設することが願望であった。 強大日本への願望が国民に
   内在したものであったか、世界の事情、自然の力に因ったものであるかは、
   容易に断定し得ないと思う。」(15日毎日新聞社説)
   20年12月経済部長就任。 
   論説委員、ロンドン支局長、総務局長、企画調査局長、常務取締役、監査役を歴任、
   51年毎日新聞社社長、55年会長に就任。

   8月15日 
     一億慟哭の日。
     大東亜戦争終結の日。
     敗戦の幕開かる。
     正午、社で、陛下の御放送を聞く。
     悲哀、痛憤、恐懼の錯雑。
     大御心の有難さに、むせびなく。 わなわなとふるひ泣く。
     何をかいわん。
     鈴木内閣総辞職、阿南陸相自刃。
     この日、米、一粒も食はなかった。
     はるより手紙来る。 すべては終り、すべては始まる。
   8月17日
     昨日朝、あまり省線が混むので都電に乗り換えるため新宿におりたら、
     都電がまた相当の混み方だ。 空襲がなくなったので忽ち猛烈な人出だ。
     後継内閣首班は東久邇宮稔彦王殿下。 赤坂離宮で組閣。
     この日宿直。
     ソ連は既に京城に入った。
     土佐湾では、敵の艦隊に特攻機が出ているとも伝へられる。
     騒然たる不安。
     さかんにビラが撒かれる。 断固抗戦すべしといふのだ。
     新聞九時半で降版。 部員と語り十二時頃ねる。
     朝七時起きる。
     内閣々僚顔ぶれ決定。 親任式。
     陸海軍人に対し証書渙発さる。
     朝かびた乾パン、昼は農商省食堂のうどん。四時頃社を出る。 暑い。
     家に帰ったら、特配の白米二キロ、鰊半匹。 白米をたき、鰊をいれて味噌汁をつくり、
     わが菜園の小さなトマト二個、それと同じくわが菜園の胡瓜で、胡瓜もみをつくる。
     はる、千代子、叔父に手紙だす。
     夜、山下を訪ねる。 十時半まで。
     山下夫人に聞くと、百姓は、容易に売らなくなってきたといふ。
     日一日と、非常の色彩濃くなって行く。
     陛下の仰せられるように、『堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ』日は、
     これから、どれ位続くのであらうか。 敗戦日本、無条件降伏日本。 ああ。

   陸軍曹長・某の昭和20年8月15日の日記
   大正6年生まれ 当時28歳
   戦争が青春の全てだった世代。
   19歳で浜松飛行連隊に入隊、日中戦争で北支・中支・満州を転戦、
   太平洋戦争で航空作戦に伴い、北海道・樺太・千島・九州・沖縄・台湾・フィリピンなどを
   転々とし、20年8月を所沢で迎え、予備役陸軍軍曹で民家に下宿し、兵舎に通い、
   故障した飛行機や特攻機の整備をする。
   8月15日飛行戦隊本隊は秋田県能代に展開、
   合流するに飛行機が無かったので所沢に留まった。 そして
   
   8月15日 水 晴  大詔渙発、無条件降伏。
     正午大元帥陛下の御放送あり。 晴天の霹靂とはこの事なり。
     日本は米英支ソ四国に対し無条件降伏をしたのである。呆然として為す所なし。
     続いて首相の放送あり。阿南陸相は自刃す。何して良いやら判らず。
   8月16日 水 晴  三六号整備、所沢発
     三六号右翼端を修理して午後能代へ向け飛ばす。 俺は山田と共に切符買いに昼出た。 
     記録とか個人のものは全部焼いた。派遣隊は解散。 
     キ四三(一式戦闘機隼のこと)は焼くとかで飛行場に持出してある。  皆口惜しがる。
   8月17日 金  能代着
     我等の前途は暗澹たり。 今にも東京に敵が上陸するとか話しあり。 
     デマの乱れる事甚だしきものあり。  明日より国鉄は一般の輸送を停止し、
     軍人の帰郷のみ扱うとか。本隊は全員兵舎に居れり。
     軍は一戦やるべき事。  戦隊は今夕発ったそうだ。  一切の書類は焼いて何もなし。
     ああ生をうけて以来、斯様に混乱に遭遇したる事は始めてなり。

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