なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・昭和20年8月

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   昭和20年8月のこと  その20   終戦

   集団疎開、女子学童の昭和20年8月15日の日記
   昭和11年生まれ 当時9歳 東京・国民学校3年生  
   昭和19年8月栃木県川治温泉・柏屋旅館に集団疎開。
   20年3月兄が卒業して東京に帰り、代わりに4月弟を含む1年生が来る。
   兄弟姉妹も、学年・男女別の部屋割り生活で、自由時間のみ遊びに行く程度。 
   一年間の疎開中、親との面会は、一回だけ、不公平にならぬようにとの取り決めによる。 
   小学校低学年で、先生・保母さんの云うことを、一生懸命に守って行動する日々。
   朝起きて掃除、食事当番、勉強、自由時間に遊び、夜日記を付けて先生に提出し、・・・・
   その繰り返しで一年間が過ぎていった。
    
    8月15日 水曜 晴 
       アサ・二十一度、ヒル・二十六度
       アサ・ オハノオミオツケ、ムギノゴハン
       ヒル・ ジャガイモトオハトカンピョウノオゾウスイ
       ヨル・ お豆、キュウリノオシンコ、ムギノゴハン
     今日おひるすぎ あたまのかみのけも きちんとした みなりで かしわやのまえで
     てんのうへいかの ちょくごほうどくを つつしんでお聞きした。 
     かえってきて おへやで ひるねしているとき、大ひろまで お話があるので 
     大ひろまへしゅうごうした。  そして先生から、日本がむじょうけんこうふくを 
     したことをおききした。  ほんとうに くやしかった。
     そのときはかならず ふたたび日本をりっぱに立ちあがらせると 
     心にかたくかたく心にちかった。  夜すこしあそんで すぐねた。
       はんせい   おひるねのとき なかなかねないで 本をよんでいた。 
       あさ、たけはらさんと けんかをしました。 おそうじのとき、とよださんが 
       なにもしないでいたので ちゅういしても しないので おこってしまった。

   集団疎開、女子学童の昭和20年8月15日の日記
   昭和9年生まれ 当時11歳  東京・国民学校5年生  
   昭和19年8月長野県北佐久に集団疎開
   日記は手製、使用後のザラ紙をとじたもの。
   8月15日は慌ただしい一日で、家に帰れる嬉しさと、焼け野原を見る恐ろしさに、
   如何して良いか判らない、妙にはしゃいだ記憶だけがあったと振り返る。
 
    1月1日 晴 六度
     今日は昭和二十年新しい年を迎えた。 私たちは朝五時半ごろに はつまいりをしに、
     たてしな神社へ、先生といった。 行き合う村の方方に私たちは「おめでとうございます」
     と新年のあいさつをする。  寮へ帰って寮母さんたちにお芽出とうとあいさつをする。
     朝飯前にまず神様へ新年のあいさつ、ちかいをし、宮城よう拝、家の人達にあいさつ、
     皆のあいさつ、それからおいしい、肉入りのおうどんをいただいた。 
     いそがしいので 晩が おぞうにだそうです。  お八つにはかしぐるみをいただいた。
     いよいよ晩のおぞうにを いただきました。  
     こんな真白なおもちを 家の人達に上げたいと思った。
     おはしでひっぱると 長くのびます。  私は本当に弟達が かわいそうに思った。
     おもちのくろいのも、ろくにはいきゅうに ならないので 寒い夜でも防空ごうに 
     入っていると思うと 涙が出てくる。  ほんとうに 私はしあわせだ。
    8月15日 水 晴 二十七度
     朝から又、空しゅうが かいじょになって、防空の まどの紙はりを していると、
     おそれおおくも 正午に、天皇陛下御自ら 勅語を奉どくなさるそうだ。
      昼食は、きゅうり と とろろこぶ。
     午後には皆ラジオの前へ つつしんですわった。  そのこともおわり、ラジオで、
     米英支那ロシアが とてもすごいことを いったことを言っている。
     くやしい、あくまでも日本を 守りぬこうと思った。
      お八つに、おまんじゅう四つ。 夕食後、叉お風呂に入った。 
      夕食 えんどう豆のにたの と きゃべつ  朝食 きゅうりに おにつけ。
    8月16日 木 晴 二十七度
     朝食芋御飯、 お葉の塩ずけ、芋のおみそ汁。
     昼前、士校の兵隊さんも いよいよ兵隊さんを やめるので、今日 帰るのだそうだ。
     でも午後になったので 昼食をたべに来た。
     昼食 芋御飯、わかめのおみそ汁、お葉の塩つけ。 昼食後 送りに行く。 
     皆、本やいろいろ、やいている。 せっかく今まで苦心してやった物を、
     皆すぐ一時間ぐらいで もえるのにと思った。
     いよいよ送る時間だ。トラックの上で兵隊さんは、「皆しっかりやれよ」とおっしゃった。
     私達は答礼した。 さぞ皆ざんねんであったろうと思った。
     夕食 芋三つ半、とろろこぶ、大根のつけ物。
     今日は こちらへ来て一年目だ。いろいろのことが 思い出される。 なつかしい日。

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疎開児童の終戦
新潟県に集団疎開していた東京・江東区の
国民学校の児童が、疎開の荷物を携えて
上野駅に10月10日に到着した。
江東区は昭和20年3月10日東京大空襲
の被害が大きく家族を失った児童も多かった。
やっと帰れたと思ったら、両親も兄弟たちも
戦災で亡くなっていた。 
その上、懐かしい家までもが無くなっていた。 
心に大きな空洞を残して、
この子供たちの終戦は、生涯を通じて絶対に
こないのである。
         (毎日新聞社提供)
   昭和20年8月のこと  その19   終戦

   戦争中、国民の生活から言論や表現の自由は次第に奪われていった。
   昭和15年に内閣情報局なる言論統制機関が出来、
   あらゆる出版・新聞・放送がその統制下に置かれた。
   事実の報道が抑制され、大本営発表に象徴される戦意高揚に役立つ報道のみになり、
   国家権力の力が生活の隅々にまで及び、国民は「知る自由」「語る自由」を失う
   息苦しい社会となった。

   元村長・某の昭和20年8月15日の日記
   明治14年生まれ 当時64歳
   師範学校卒業後30余年教師を務め、昭和10年大分県内の村長2期勤め、
   17年軍人援護会より「軍人援護・殊勲甲」に表彰された。
   この表彰に東京日日新聞昭和17年10月5日付記事は
    『村長自ら陣頭に立ち、村民が両翼となって挙村一致(中略)
    入営・出征にはその都度祝儀を贈り、毎月一日早朝全村民が氏神で出征将兵の武運長久、
    傷痍軍人の平癒を祈願(中略) 戦没勇士の墓碑建設には奉公会がすべて斡旋、
    碑文は村長が進んで書いて贈るという熱心ぶり。
    表彰を受けた村長は、
    「表彰されるとは望外の光栄。長期戦になれば軍人援護の使命は大きく、
    一日もゆるがせに出来ないので、この栄誉を契機に万全を期したい」と語る。』
   18年三期目に病気し、村長辞任。 病床で終戦を迎え、23年死亡。 
   死亡の前日、四男元徳さんに、
   「村中の戦死者は四十人を越したな。墓碑と碑文は長く残るだろうな」と語ったと言う。
   四男元徳さんは、国策と軍に協力してきた父親が、終戦の日に書いた軍部への批判の意味は、
   何だったのかを考え続けていたという。

    八月十五日  晴 暑
      百合子登校、元徳草刈運動第二日目。
      昨夜来状袋三十枚ヲハリアグ。此レシキノ事デモヤッテ見レバ難シイ。
      尚書類等二、三帳簿整理ヲナス。
      (略)
      帝国遂ニ屈服無条件降伏ヲ申出ヅ。
      大詔ハ煥発セラレタ。 正午決定。 三時ニュース入リシモ詳細不明
      光機下リシ三千年歴史モ茲ニ重大汚点ヲ印シタリ。 只長嘆息スルノミ。 
      多事軍部ノ横暴遂ニ国ヲ破リタリ。 阿南陸相昨夜自刃ス。
    八月十六日  晴 暑
      百合子登校。元徳ニ吉孝ノ通帳ヲ送ル。
      ○○○○村葬后三時、○○方ニ香典、○○○○氏ヘ御香、組合当座引キ出シ。
      敗戦国トナッタ銀行、局等ノ支払イ何モカモ不明ニツキ高田局ニテ七七二、
      合銀ニテ一○二九、組合ニテ三九九ヲ引キ出スコトトナス。 
      其他ハ定期ニツキ出サレズ手許金ヲ合ワセテ二千六百六十八円ノ予定ナリ。
      又蔵、貞夫方ニ米買イニヤル。
       貨幣問題・食糧問題デハ国民一層ノ困難トナロウ。
        一、立川君ニ米買ヲ依頼ノタメ速達郵便ヲ出ス。
        一、○○鉱業所運転課○○○○氏ヘ金引出シ方ノ件速達ニテ。
    八月十七日  晴天
      朝、食料品ヲ調査ス。
      墓掃除日、百合子ト元徳行ク。
      昨日カラ米ノ買入レニ又蔵、亀雄方等ニ行キシモ手ニ入ラズ。
      油揚ゲ三十枚ヲ注文ス。 其ノ家用ノモノヲ分与スルコトヲ約ス。
      百合子、空襲時非常持出品衣類等ヲ用イナオス。
      (略)
      九州要地ニ米兵上陸トノ報アリ。 
      北九州地方・大分地方ノ婦女子ハ在所ニ ツテヲ求メテ落チ行ク。
      今日我輩ノ前ヲ通ル丈デモ相当ノ数ニ達ス。
   昭和20年8月のこと  その18   終戦

   戦争が進むと共に、将兵だけではなく、
   国家の総力を挙げて戦争を遂行する総力戦となっていった。
   戦地に赴く男だけでなく、銃後も一つの戦場になって行った。
   昭和12年日中戦争開始と共に国民精神総動員運動では、
   国民一人一人に「銃後の国民」としての自覚を求め、大政翼賛会結成にと、
   私生活全般に戦時体制が強く浸透していった。 
   女たちの日常生活も、急速に細部まで規制され、
   しかも家庭から奪われた夫や子供を待つばかりでなく、
   出征した男の替わりの労働者として、あらゆる場所で働くことになった。 
   昭和18年閣議で女子動員を決定し、学生は勤労動員、女子は女子挺身隊員として
   工場、鉱山、交通機関などに就労させた。
   「撃ちてし止まぬ」「勝利の日まで」等のスローガン。
   物も自由もなく、供出・配給・隣組・灯火管制・千人針・防空頭巾・もんぺ・行列・防空壕・
   女子挺身隊・勤労奉仕・出征・慰問袋・軍事郵便・戦死公報・家庭菜園・防空演習・・・・
   銃後の風景は殺風景で悲しい。

   主婦・某の昭和20年8月15日の日記
   大正7年生まれ 当時27歳
   昭和10年、岐阜市の豆腐屋の夫と17歳で結婚、子供には恵まれなかったが、
   幸せな家庭生活。 戦争が始まると豆腐は切符制、原料の大豆の配給は月に十日ほどに。
   十八年、夫に召集令状、海軍兵士として出征。
   一人で家を守り、豆腐屋を続けた。 20年7月9日岐阜空襲で家屋焼失、実家に疎開し終戦。 
  
     8月15日 水曜 晴
        昭和二十年八月十五日、十二時。
        永久に忘れられぬ日。
        聖断畏し、和平の大詔降る。
        畏くも前古未曾有、玉音拝す。
        大帝国が鉾を投ずるを見よ。

       何時もの様に留守して掃除、炊事、蚕です。
       父古井へ糸のことで米二升持ってゆかれ、母草引き、私妹と蚕の上族にかかり、
       大体終わる。 もう降伏されては仕事もやる気ないと金作さんも話しに来てねころんで
       居られました。 もうリヤカーに積んだ荷物の武装解除といって降ろして
       元の位置に納めようと部屋一杯にひろげた。
       母は夕方まで荷物納め、妹は裏の穴に入れてあった茶碗類を掘り出した。
       書く事沢山あるが、なんだか落ち着かず字が書けません。 しっかりね。

   夫は20年4月、沖縄特攻作戦参加の戦艦「大和」の護衛駆逐艦「浜風」に乗船、
   「大和」「浜風」共に空襲被爆沈没。
   戦死の公報は終戦後の9月、終戦時は知らされていなかった。
   夫は少しの砂が入った「白木の箱」となって帰ってきたという。 

     9月10日 月曜 晴
       お父様今日も一日ねて居られた。
       母は鍬を取って開墾に、妹達は弁当持ちにて一日出ていた。
       昼に、精米所へ小麦を持って、粉にかえてもらう。(略)
       夕食を頂こうとしたら、突然「今晩は」と入って来られた。
       岐阜のお母様「キャッ」といった。 主人戦死の公報
       四月七日 西南太平洋で戦死
       南無阿弥陀仏
       
       ああ長い二ヵ年の間、しっかり頑張り立派に留守し、家計簿をしっかり付けて、
       主人凱旋されたとき見て頂こうと楽しんで待っていた。
       話したいことばかり、褒めて頂こうと待っていたのです。
       それが、何で? 戦死されても日本は負けた。敗れたのです。
       残念です。可愛そうです。
       
       十二月、面会に行き旅館で三泊して早朝、砂糖を沢山土産に、
       呉駅まで荷物背に送って下さり、新聞を二部買って、私に一部、一部は自分に持って
       別れたが、長の別れ、永久の別れになろうとは、夢にも思はなかった。
       また主人は南の方へ行ったら土産を買ってくるから、お金をくれないかと云われ、
       百円差し上げましたら満足そうな様子でした。
       七月九日の焼夷爆撃で全焼して細かな書類も家計簿も、箪笥一棹、布団二組、蚊帳、
       本箱、鏡台、針箱、下駄箱、米ニ斗、大豆五表余り、其の他諸道具、嗚呼・・・・
       どうしましょう。

       岐阜のお母様のお話では、駆逐艦「浜風」は、日本で最優秀なる戦艦大和、護衛して
       四月九日、沖縄海上で爆弾と魚雷二発命中して、大和と運命を共にしたそうです。
       主人は機関銃の役目ですから、海の入って泳ぐことなく、
       パンと飛んで散って行かれた様子です。
       決して女々しいような、見苦しい様な、死に方ではないとの事。 
       まず大体の様子がわかって安心しました。

   女の運命は翻弄される。
   その後、親の勧めで再婚、その日から三児の母になったという。

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防空演習                 
  「空襲警報発令!!」
  「敵機来襲!!」
  「火災発生。消火!!」
  焼夷弾爆撃による火災の消火は
  主婦の活動にかかっていた。
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本土決戦に備えての、
  米軍迎撃体制の構築。
  上陸地点とみなされた鹿児島志布志町
  の婦人部隊。
  竹槍による戦闘訓練
  本土決戦、米軍迎撃体制も
  主婦・婦人の肩にかかっていた。
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   昭和20年8月のこと  その17   終戦

   戦争は人と人とを引き裂いてしまう。徴兵で、母は息子と別れ、妻は夫を失い、
   家庭には男たちがいなくなっていった。
   日本中の家庭が老人と女と子供だけになっていき、更に戦況の悪化により、
   子供たちとの悲しい別れが始まった。
   昭和19年3月、閣議により建物疎開に続き人員疎開が実施された。
   都市防空のため老人・子供の縁故疎開、6月30日学童疎開要綱が決定され、
   縁故疎開が出来ない学童の集団疎開が実施され、子供たちは親元を離れて行ったのである。
   東京のみならず、全国13都市にも適用、疎開学童数40万人が予定され、
   疎開先は地方の旅館、寺院、民家等で、
   学童50名に教員1名、寮母は25名に1名と規定された。
   8月4日第一陣が東京駅、上野駅から、肉親の下を離れていった。
   疎開の日々は子供たちの心に何を刻み付けたのだろう。
   多くの体験者は二度と思い出したくない消してしまいたい記憶だと語る。

   集団疎開、女子学童の昭和20年8月15日の日記
   昭和9年生まれ 当時11歳 東京  疎開先

   8月15日 水 晴
     朝、食事を取りに行き、帰りに空襲になり急いでかへって来た。
     食事がすんで少し休み、分数の勉強をした。
     少し早く食事を取りに行った。
     食事が終わってすぐ上文司(宿坊の名)へ、重大発表を聞きにいった。
     日本がむじょうけんこうふくをしたのだ。かしこくも天皇陛下の御声をお聞きした。
     寮へかえり、先生からいろいろとお話をお聞きして、
     あらたに心持をいれかえて、又、日本を起こすことをちかった。
     天皇陛下のおなさけを心からかんしゃして、
     先生はじめ、皆で、くやし泣きに泣いてしまった。この日を永久に忘れまい。
     おやつにイリ豆をたべた。すぐ勉強に取りかかった。
       朝 モロコシダンゴ汁(オハ、ダイコン)
       昼 おぞーすい、おしんこ
       夜 うどん
       おやつ イリ豆

   校門を出る疎開児童、何時帰れるのか、親も子供も誰も判らなかった。
     東京からの学童疎開の第一陣は、昭和19年8月4日。
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   軍人兵士の日記は、その存在自体大変貴重であった。
   その第一の理由は、軍隊での生活は、24時間厳しい規制に縛られ、
   肉親との私信から持ち物まで細かいチェックを受け、
   徹底した階級社会で下位の兵は上位の兵に絶対服従、
   個人としての自由時間も空間もない集団生活であった。 
   個人記録の日記などは付ける余裕はなかったはずである。
   人間性を失うまいと、唯一の行為「日記」を、隠れて読み書きする場は厠で、
   「厠日記」として記録された。
   第二の理由は、敗戦と共に軍人の記録は戦争責任の証拠となるとして、一切の焼却命令。
   此れで殆どが灰になった。
   厠で書き綴った日記を隠し持って、復員することが極めて困難であった。
   野間宏「真空地帯」、五味川純平「人間の条件」など、
   平凡な日本人が徴兵制度で入隊した軍隊で、どのように生き、どう考えていたのかを伝える、
   非人間性を告発した文学作品で生々しく記録されている。

   兵士の「厠日記」 昭和20年8月15日の日記
   大正14年生まれ 当時20歳  仙台鉄道局で機関士勤務 20年2月応召
   ソ連軍上陸に備え、北海道で戦車連隊で猛訓練中で、戦車30台保有のため
   戦争可能と認識していた。 当日、中隊長より正午重大放送を拝聴する命令を受けて、
   陣地構築資材運搬任務につき、途中民家で放送を聞く。

   8月15日 水 曇 暖
   北山の助手代理として乗る。牛乳や豆を買った。独戦五中隊へ材料運搬したら昼になった。
   三叉路で「大元帥陛下」の玉音を拝聴す。 心なしか敵米英ソ支四カ国の降伏条件に
   受諾の旨の詔を陛下御自ら御放送あらせられているのだ。その御声もふるいを帯びていた。
   ああ遂に利あらずして反枢軸に屈したか。 この仇いかで打たずに居られようか、
   一億国民、否大東亜の諸民族の平和も無惨にも水泡に帰したか。早く死んだ将兵は幸福だった。
   皇国の必勝を信じて殉国した先輩勇士に対して何で申訳があろうか。
   今日の今迄誰が時局の転換を想像したであろうか?
   日本臣民たるもの陛下の至上命令とはいうものの悲涙に咽ばぬものはあったろうか、
   あまりにも想われぬ事実だ。 仕事を途中にして帰る。車両整備中に堀中尉の話あり。
   日本の今後の惨状を語り最後に我々軍人の進むべき道を明示してくれた。
   阿南陸相に続いて殉死するつもりかも知れぬ中尉の態度が何とも言われなかった。
   みんな沈黙のまま今日一日も過ぎて就寝す。
   夜二十三時頃非常呼集発令さる。
   情報に依れば帯広地区に於いて暴徒発生の疑濃厚なりとの事だった。
   中隊から○○分隊の兵員出動して警戒に当った。
   ああ明記すべき昭和二十年八月十四日と十五日
   昭和20年8月のこと  その16   終戦

   小説家・高見順の昭和20年8月15日の日記
   明治40年生まれ 当時38歳
   福井県生まれ 第一高等学校 東京大学英文科卒
   日本プロレタリア作家同盟の一員での非合法活動に治安維持法違反で逮捕留置。  
   此れを転機に「左翼くずれ」の苦悩と頽廃を描き文壇から注目された。
   日華事変後、長編「如何なる星の下で」を雑誌に連載、賞賛された。   
   陸軍報道班員として徴用、中国に派遣さる。
   小説を自由に発表できない鬱憤に、詳細な日記を書き始め、死の直前まで書き続け、
   勝れた日記形式の文学記録となる。
   世界ペン大会に川端康成に尽力、日本近代文学館設立に努力、40年ガンで死去。58歳。

   8月15日
    警報
    情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。
    天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
    かかることは初めてだ。かってなかったことだ。
    「何事だろう」
    明日、戦争終結について発表があると言ったが、
    天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜るのだろうか。
    それとも―――或いはその逆か、敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに・・・
    「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃたら、みんな死ぬわね」
    と妻は言った。私もその気持ちだった。
    ドタン場になってお言葉を賜るくらいなら、
    どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そう思った。
    十二時近くになった。ラジオの前に行った。(略)
    (略)
    十二時、時報。
    君が代奏楽。
    詔書の御朗読。
    やはり戦争終結であった。
    君が代奏楽。 つづいて内閣告諭、経過の発表。
    ――遂に負けたのだ。戦いに敗れたのだ。
    夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
    蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
    「おい」新田が来た。
    「よし。俺も出よう」
    支度した。駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向かって、
    「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、なんだったの」
    と尋ねる。中学生は困ったような顔を下に向けて小声で何か言った。
    「え? え?」
    とおかみさんは大きな声で聞き返している。
    電車の中も平日と変わらなかった。平日よりいくらかあいている。
    大船で席があいた。腰掛けようとすると、前の男が汚いドタ靴を
    こちらの席の上にかけている。
    黙ってその上に尻を向けた。男は靴を引っ込めて、私を睨んだ。(略)
    ドタ靴の男は軍曹だった。
    軍曹は隣の男と、しきりに話している。
    「何かある。きっと何かある」と軍曹は拳を固める。
    「休戦のような声をして、敵を水際までひきつけておいて、
     そしてガンと叩くのかも知れない。きっとそうだ」
    私はひそかに、溜息をついた。
    このまま矛を収め、これで敗けるということは兵隊にとっては、
    気持ちのおさまらないことに違いない。
    このまま武装解除されるということは、たまらないことに違いない。
    その気持ちは分るが、敵をだまして・・・という考え方はなんということだろう。
    さらにここで冷静さを失って事を構えたら、日本はもう本当に滅亡する。(略)
    敵をだまして・・・・こういう考え方は、しかし、思えば日本の作戦に共通のことだった。
    この一人の下士官の無知陋劣という問題ではない。
    こういう無知な下士官まで浸透している一つの考え方、そういうことが考えられる。
    全てだまし合いだ。政府は国民をだまし、国民はまた政府をだます。
    軍は政府をだまし、政府はまた軍をだます、等々。
    (略)
    新田は報道部へ行き私は文報へ行った。文報の事務所では皆が下の部屋に集まっていた。
    今日は常務理事会のある日なので理事長の高島氏が来た。他の人はだれも来ない。
    文報の存否について高島氏は存続論だった。
    情報局から離れ、性格は一変するが、思想統一上やはり必要だろうという。
    ――その席では黙っていたが、私は解散説だった。
    事務所を出る。田村町で新聞を買った。今日は大型である。始めて見る今日の新聞である。
       戦争終結の大詔渙発さる
    新聞売場はどこも延々たる行列だ。
    その行列自体は何か興奮を示していたが、興奮した言動を示す者は一人もいない。
    黙々としている。兵隊や将校も、黙々として新聞を買っている。
    ――気のせいか、軍人はしょげている。
    やはり気の毒だった。
    あんなに反感をそそられた軍人なのに、今日はさすがにいたましく思えた。
    (略)
    家に帰って新聞を見た。今日の新聞は保存しておくことにした。
    嗚呼、八月十五日。
    (略)
    街の噂
     鈴木首相が少壮将校に襲われたという。首相官邸と自宅と、両方襲われたが、
     幸い鈴木首相はどちらにもいなかった。そして自宅は火を放たれ、焼かれたという。
     少壮将校団が放送局を朝、襲って、放送をしようとしたが、
     敵機来襲で電波管制中だったため、不可能だった。
   8月16日
    朝、警報。
    小田の小母さん来たり。その話では世田谷の方には日本の飛行機がビラを撒いた。
    それには、特攻隊は降伏せぬから国民よ安心せよと書かれてあったという。 
    ――勃然と怒りを覚えた。 
    北鎌倉駅を、兵隊が警備している。物々しい空気だ。円覚寺、明月院の前、建長寺にも、
    これは海軍の兵隊が銃を持って立っている。横須賀航空隊の司令官が少壮将校に監禁され、
    航空隊はあくまで戦うと頑張っているという。
    飛行機がビラを撒いた。 東京の話も事実と思われる。
    黒い灰が空を舞っている。紙を焼いているにちがいない。(略)
    鉄道でも書類を焼いている。戦闘隊組織に関する書類らしいという。
    (略)
    家に帰ると新聞が来ていた。阿南陸相自刃。 読売記事中に、
    「支那事変勃発以来八年間に国務大臣として責任を感じて自刃した唯一の人である」と
    書いてある。背後に皮肉が感じられる。(略)
    毎日、読売両紙とも、二重橋前に人々が額ずいている写真を掲げ、
    見出しは「地に伏して粛然聖恩に咽ぶ」読売、「忠義足らざるを侘び奉る」毎日。
    原子爆弾の恐るべき威力に関する記事。 休戦発表前までは曖昧に言葉を濁していたが、
    あまりどうも露骨過ぎる。
    社説は「気力を新たにせよ」読売、「強靭な団結力と整然たる秩序、時艱突破の基礎」毎日。
    (略)
    特攻機温存、本土決戦不敗という政府の宣伝が一般民衆によくきいている。
    原子爆弾の威力についても、民衆は知らない。 あんなもの――といっている。
    (略)
    私は日本の敗北を願ったものではない。 日本の敗北を喜ぶものではない。
    日本に、何といっても勝って欲しかった。 そのため私なりに微力はつくした。
    いま私の胸は痛恨でいっぱいだ。 日本及び日本人への愛情でいっぱいだ。
                               (「高見順日記」勁草書房)
     敗戦を報じる昭和20年8月15日の朝日新聞
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