なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・昭和20年8月

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   昭和20年8月のこと  その10   終戦

   私の終戦、 昭和20年8月15日

   「総員 閲兵場に 直ちに 集合」
   学徒勤労動員先の陸軍○○航空部隊。
   昭和20年8月15日、朝から敵・空母艦載戦闘機「グラマン」の猛攻は、
   数度にわたる波状攻撃に、木造の兵舎はバリバリと機銃掃射を受け、防空壕から出られない。
   10時半過ぎその攻撃はパタッと鳴りをひそめた。 
   それからしばらくしての総員集合。

   前夜、我等の担当下士官「おやじ殿」である「軍曹殿」から、
   「明正午、重大発表があるらしい!?」と言われていたが、
   その事での総員の集合である。(注)

   閲兵台に、白布で覆われた小机が置かれ、そこにラジオが載せられていた。
   「かしこくも、天皇陛下の玉音の放送にあらせられる。」 
   直立不動の姿勢で、謹んで拝聴する。 

   「・・・・・耐エ難キヲ耐エ、忍ビ難キヲ忍ビ、モッテ・・・・・」
   ピーー、ガガー、ザーザー、雑音でほとんど聞き取りにくい。

   「部隊長の訓示 頭中!」の号令。 
   登壇した部隊長は、一言「何も言うこと無し。終わり」と降壇した。

   どうも日本は降伏したらしい??  さっぱり分らん!?  日本は負けたのか!? 
   本当に負けたのか?? 残念! 無念! 涙がこぼれた。 
   整列する友の顔、整列・不動の姿勢の兵士の顔を、恐る恐る見れば、皆涙がこぼれている。

   兵舎に帰って論議百出。
   「鬼畜米英のことだ、男性全員去勢され、奴隷として一生働かされるぞ!?」
   「そこまでしないだろう」
   「いやいや解からん」
   「とにかく全員捕虜だ」
   「捕虜として恥をさらすか」
   「国民全員が捕虜だからな」
   「・・・・」「・・・・」 
   夕方になれば、そこは15歳の少年達「成るように成るさ」とモー屈託がない。 
   いつもの敵の空襲も無い。 電灯も点けっぱなしだ。

   夜、軍曹殿より
   「降伏受諾派と徹底抗戦派とに分かれて、殺気だって激しく対立している。
    その中に貴様達を巻き込むわけにいかないので、
    明朝、朝食後、部隊より貴様たち全員の退去を命ずる」 
   引率教師より
   「情勢が判断出来ないので、とりあえず9月1日学校に集合、それまで自宅待機。」

   3月の空襲で家を焼かれ、帰る家がないのが、とりあえず叔父の家に帰るか。
   翌日、駅では電車が混乱していて運転本数が少ない。 
   やっと夕方、叔父の家に帰ると、父の会社が罹災社員を収容する社宅を、
   東京小石川に購入したので、父は10日前から其処に移り住んでいるとのことで、
   小石川に行く。 8畳一間が与えられていた。 
    (そこはその後、父と2人で2年暮らし、母と弟妹とが疎開先から帰って、
     更に2年近く親子7人がひしめき合って生活した所である。)

   父の話では、15日夜、我々の社宅があった同じ町内の、
   鈴木貫太郎首相の私邸が焼き討ちされ、全焼する騒ぎがあったとのこと。 
     (鈴木貫太郎内閣は15日に総辞職、 17日皇族・東久邇宮内閣誕生)

   それにしても何故、陸軍の航空部隊に学徒勤労動員で派遣されたのだろうか??
   昭和19年3月、中学2年の終わりに、官庁の某試験所(当時最先端の官庁の技術研究所)に、
   学業を放棄して学徒勤労動員された。 
   研究室の技師及び技手・主要助手は兵役が免除されていたが、その他補助メンバーは兵役出征。
   国家の重要研究所も、人員不足で機能が充分発揮出来ず、停滞していた。 
   更に昭和20年5月27日の大空襲で試験所は焼失し、
   やむなく学校に戻り次の動員命令を待っていた。 
   
   6月23日沖縄が玉砕陥落、次は本土決戦あるのみ。 
   7月中旬頃、「本土決戦に備え、食糧生産に直ちに従事せよ」と言う名目で、
   飛行場の空地に「さつま芋作り」するための動員と言われたのである。 
   しかし日本本土の制空権は米軍に完全に奪われ、マリアナ基地から爆撃機B29、 
   硫黄島基地からP51戦闘機「ムスタング」、 
   空母艦載戦闘機「グラマン」の連日の空襲である。 
   当時の飛行場には、攻撃機、迎撃機の味方の飛行機は1機もなく、
   毎日の空襲で農耕作業をやっていられる状況ではなかった。 
   しかも飛行場、敵から見ればそこに居る者は皆兵士。 
   特に艦載戦闘機の攻撃は毎日過酷であった。 

   我々は中学1・2年で軍事教練を受けていた。
   いよいよ本土決戦ともなれば、祖国の御盾となる決心はすでに出来ていた。 
   教育勅語に「一旦緩急アレハ義勇公ニ報シ」 もとより我々は望むところであった。 
   気力と使命感に燃えるよう教育された少年達であったのだ。 
   沖縄戦の学徒隊、健児隊、ひめゆり隊になぞらえての、
   本土決戦の戦力増強に組み込まれて行ったのであろう。

  写真  皇族・東久邇宮内閣誕生  8月17日  (共同通信社)
  無条件降伏に反対する軍部の抵抗をおさえ、連合国との終戦交渉を円滑に運ぶため、
  皇族の東久邇宮内閣を誕生させた。 「聖戦」の勝利を信じて疑わなかった多くの国民は、
  玉音放送によって打ちのめされ、発足した皇族内閣は、「国民総懺悔」を唱えて、
  敗戦の責任を国民に問うて、不評を買った。
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   注の解説
   軍曹は上級兵士の階級呼称。 
   徴兵召集され、軍人を職業にしていない兵士、20歳徴兵時で二等兵。 
   ここまで昇進するには、大変な年月を要する古参の兵士。 農民が多かった。 
   おやじ殿は我々の親父の年齢位の兵士だったので、その様に我々仲間内で認識していたアダナ。
   職業軍人は陸・海軍の軍人育成教育を施す学校
    (陸軍幼年学校・陸軍士官学校・海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校などの卒業生は
     将校幹部候補生・任官は少尉、 更に士官経験中に推薦入学する陸・海軍大学校の卒業者は
     職業軍人のエリート中のエリートで、将来の将官級軍人。
     特攻隊の養成所で知られる、予科練習生などは下士官教育だが、
     終戦間際は軍学校以外混迷)

   陸軍階級呼称                    海軍階級呼称
    大元帥=天皇                    大元帥=天皇
     元帥   元帥陸軍大将               元帥海軍大将
     将官   陸軍大将 陸軍中将 陸軍少将       海軍大将 海軍中将 海軍少将
     佐官   陸軍大佐 陸軍中佐 陸軍少佐       海軍大佐 海軍中佐 海軍少佐
     尉官   陸軍大尉 陸軍中尉 陸軍少尉       海軍大尉 海軍中尉 海軍少尉
     准士官  陸軍准尉                 海軍特務曹長
     下士官  陸軍曹長 陸軍軍曹 陸軍伍長
                          海軍上等兵曹 海軍一等兵曹 海軍二等兵曹
      兵   陸軍兵長 陸軍上等兵 陸軍一等兵 陸軍二等兵
                    海軍水兵長 海軍上等水兵 海軍一等水兵 海軍二等水兵
     
     昭和18年10月学徒出陣した学生は、陸海軍の士官候補生として、
     各部門に配属、訓練を受け、そして特攻隊として散っていったのである。
     一方で、軍関係の学校の卒業間近の者、あるいは昇級間近のものが、
     終戦を迎えて除隊されるとき、昇級除隊されたものも居た。
     人よんで、ポツダム中尉、ポツダム少尉という。
   昭和20年8月のこと  その9

   無条件降伏 そして 終戦 昭和20年8月15日

   8月14日、天皇は御前会議で、無条件降伏を迫る「ポツダム宣言を受諾する」の意思を表明、
   ここに「聖断」が下された。
   8月15日、日本は終戦の日を迎えるのであるが、しかし、
   降伏を阻止しようとする勢力との暗闘で幕を開けた。
   あくまで「国体の護持」の確証を取り付けるまで、外交交渉を継続すべしと主張する近衛師団は、
   クーデターを計画した。 
   そのときの記録から、

   午前0時から1時
     前日午後11時20分頃から宮内省内廷庁舎で、
     終戦を告げる玉音放送を録音していた天皇は、録音を終え御文庫の居室に戻った。 
     録音盤二組は、日本放送協会の担当者によって二個の缶に納められ、
     皇后官職事務官室の軽金庫に収納された。 これが後に幸いする。
   午前1時から2時
     クーデターを計画する畑中健二少佐らは、決起を拒否した近衛師団長・森赳中将を殺害。 
     宮城は占拠され、外部から遮断された。 
   午前2時から3時
     反乱軍は宮城内整備司令所に中枢部を置き、占拠態勢が整う。
   午前3時から4時
     近衛兵たちが宮内省内へ入り、録音盤を探すが発見できなかった。 
     収納した皇后官職事務官室が女官室だったからである。
   午前4時から5時
     内幸町の放送会館が反乱軍の将兵によって包囲された。
     彼らは、自分たちの真意を放送するよう強要するが、局員らが拒否。
   午前5時から6時
     東部軍司令官・田中静壱らが、近衛師団司令部へ暴動鎮圧に乗り出す。 
     反乱事件が陸軍省に伝わり騒然となる。
     5時30分、陸軍大臣・阿南惟幾大将が自刃。
   午前6時から7時
     天皇が事態を知り、蓮沼侍従武官長を呼ぶように命ずる。 
     放送会館を包囲していた将兵が引き上げる。
   午前7時から8時
     田中軍司令官らが宮中に入る。
     7時21分、NHKは定刻より2時間21分遅れて放送を開始し、
     正午に迫った玉音放送を予告する。
   午前8時から9時
     宮中を占拠していた反乱軍が退出。 8時30分、無事だった録音盤が運び出された。
   午前9時から10時
     米内光政・海軍大臣が陸軍大臣官邸で阿南陸軍大臣の遺骸と対面。
   午前10時から11時
     二組の録音盤が届いた放送会館では、玉音放送の準備があわただしく進められ、
     前日まで10kwだった放送電力を60kwに増力。 
     昼間送電を止められていた地方にも、送電の指示が出された。
   午前11時から12時
     放送直前、憲兵中尉がスタジオに乱入しようとするが、取り押さえられる。
   午前12時
     正午の時報に続いて、和田信賢アナウンサーの第一声、
     「ただ今より重大なる放送があります」
     そして、「君が代」のレコードの後、玉音放送が始まる。
     「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ・・・・・・」
     と初めて天皇の肉声が流れた。
                       参考資料 講談社 日録20世紀 より

   終戦の詔勅 と 玉音録音盤       (国立公文書館所蔵  NHK放送博物館所蔵)
     詔書として本来あり得ない書き込みがある。 
     迫水久常書記官長の原稿を、原爆投下について閣議で議論があり、
     軍部の主張から挿入となったもの。 
     切り貼りや挿入のあとが残り、綴じ紐に菊の紋章と紙の「封印」が付いていない。 
     混乱を物語る詔勅である。 (クリックで拡大します) 
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   宮城前で 終戦 を迎える人々 8月15日     (共同通信社提供写真)
     玉音放送を聴いた人々が、二重橋前に続々集まり、宮城前の玉砂利にひれ伏し
     正座して慟哭し、時折「海ゆかば」や「君が代」の歌声が流れた。 
     軍人や右翼に自害するもの多くいた。
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   廃墟の町に、人々が初めて耳にする天皇の声が流れた。  (共同通信社提供写真)
     「蝉がしきりと鳴いている。 音はそれだけだ。 静かだ」 (高見順「敗戦日記」)
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   玉音放送を聞く、日本人捕虜たち 8月15日   (アメリカ国防総省提供写真)
     フィリピン収容所に連れてこられ、米軍の放送した終戦の詔勅を金網の中で聞いた。
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   昭和20年8月のこと  その8

   広島 長崎 原爆投下

   今日、8月9日は、63回目の長崎原爆の日です。
   福田総理が出席しての「平和記念式典」でしたが、
   田上富久長崎市長は、平和宣言で、医師として被爆しながら救護活動に尽力した、
   故永井隆博士の「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」との言葉を引用して、
   世界の核兵器廃絶を訴えた。 

   永井隆博士   

   故永井隆博士は長崎医大放射線医学助教授で長年の放射線研究で被曝、
   白血病となり昭和20年余命3年と宣告される。 
   8月9日の長崎原爆投下された日、爆心地から700mの長崎医大の診察室で被曝、
   重傷を負いながらも、救護班を組織して、被爆者の救護に当たる。
   しかし、9月10日頃昏睡状態に陥った。
   直前の世辞の句に「光りつつ 秋空高く 消えにけり」 と。 
   10月15日「原子爆弾救護報告書」を作成し、長崎医大に提出する。   
   昭和21年1月28日長崎医科大学教授に就任するが、
   7月長崎駅で倒れ、床にふすようになる。
   11月17日長崎医学会で「原子病と原子医学」と題し研究発表。 
   昭和23年荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、
   桜の苗1000本を、浦上天主堂をはじめ各地に寄贈。 「永井千本桜」と呼ばれた。
   結婚したとき、クリスチャンであった夫人の影響で、カトリックの洗礼を受け、
   無料診療奉仕活動を行っていた奉仕の精神が晩年の行動へと結びつき、
   爆心地の浦上天主堂は、心のよりどころとしていた。
   療養のための庵を「己の如く人を愛せよ」の言葉から、
   庵の名「如己堂(にょこどう)」と名付ける。
   昭和23年8月、大学を休職し療養に専念する。
   10月18日来日中のヘレン・ケラーが見舞いに。 
   昭和24年5月27日、昭和天皇に謁見、
   5月30日、ローマ教皇特使ギルロイ枢機卿が見舞いに。
   8月1日長崎市長から表彰、12月3日長崎市名誉市民に。
   昭和25年5月14日ローマ教皇フェステンベルグ大司教が見舞いに。
   昭和26年5月1日逝去。 43歳  5月2日医学献体解剖、 
   5月14日長崎市公葬となり長崎市坂本町の国際外人墓地に埋葬。
   著書「長崎の鐘」は映画となり有名な「長崎の鐘」が主題歌。 
     そのほか「亡びぬものを」「ロザリオの鎖」「この子を残して」「いのちの河」など

   これが戦争の悲惨さです。 目をそらさずに見てください。 平和を祈ってください。

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   爆心地から250mの銀行玄関の階段に残る人影。 
   周りは高熱で白く変化、腰掛けていたと思われる人の形は、そのままに残った。
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   爆心地から4.4kmの軍司令部の板壁に残る、防空監視員の影。(松本栄一氏撮影)
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   昭和20年8月のこと  その7

     ポツダム宣言 その2

   7月26日、米英中三国による対日ポツダム宣言が発せられた。
   しかし、ポツダム宣言には日本国の「国体の護持」については直接言及されていなかった。 
   外務省はポツダム宣言を受諾する方向でまとまり、ソ連を介して和平工作のため、
   近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣するむね、ソ連政府に打診していた。 
   あくまでも、ソ連との不可侵条約を締結していたことが前提になっていたが、
   世界の情勢は大きく変わっていた。 
   ソ連は独ソ戦を控えての、背後からの攻撃をかわす意味があり、
   日本にとって、ソ連は対米戦争の背後であった。 
   しかし、日本とドイツは軍事同盟を締結していたと同時に、
   ソ連と米英とはその日独の軍事同盟国と交戦中であった。 
   日本とソ連とは不可侵条約を締結していたとは言え、
   ソ連と米英とは同盟を締結するかも知れない相手であった。 
   しかも4月27日にドイツは無条件降伏をしているので、更に状況は日本に不利である。 
   その様な相手に和平の仲介を依頼すれば、足元を見られ何らかの理由を付けられ、
   参戦されて益々状況が悪くなる。 
   情勢判断も出来ない無能の集団の政府であった上に、
   本土決戦の準備を進める軍部の説得も出来なかったのである。

   この混迷の中、鈴木貫太郎首相は記者会見で、ポツダム宣言について
   「重大なものとは考えていないので黙殺している」という趣旨の答弁をした。
   これがニューアンスを変えて、海外に打電され、
   結果的にソ連の対日宣戦布告の大義名分とされたのである。 
   このときの経緯は、「目撃者が語る昭和史」第3巻(新人物往来社判)に収められた
   元鈴木内閣書記官長・迫水久常氏の「ポツダム宣言受諾の苦悩」の文中に、
   「黙殺するということは、ノーコメントという意味であったが、
   日本からの海外放送には「イグノア(無視する)」という誤訳が使用され、
   外国新聞の見出しには、故意か偶然か「リジェクト(拒否する)」という文字が使用された。 

   後日、ソ連は
   『対日宣戦布告に当たって、日本はポツダム宣言をリジェクトしたので、
   仲裁の基礎が失われた』という趣旨のことを述べ、このポツダム宣言に関するわが国の態度を、
   その理不尽極まりない対日戦の理由に逆用されている」

   どのように弁解しようと、国民は全て、そのときの為政者に踊らされ、何も知らされないまま、
   死地に追いやられ、虐殺されたのである。  恐るべし。

   その時に、こだわった「国体の護持」とは、如何なるものなのか???

   8月14日、天皇は御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。
   これによってアメリカは、ソ連軍の占領地域拡大に楔を打ち、
   日本を単独占領することになった。
   以降、米ソの間の冷戦時代から現代まで、日米は緊密な関係を続けている。

   国際政治論の猪口邦子上智大学教授は
   「現在日本とアメリカは世界経済のNo1、とNo2であり、協力関係を結んでいる。
   しかし歴史は消すことが出来ない。 
   永久的に戦勝国と敗戦国であり、占領者と被占領者であることを忘れることが出来ないのが、
   今日の日米関係である。
   安保、行政協定、日米地位協定など、問題の残る協定が結ばれ、
   その後なかなか改正が難しいのは、このような立場が影響しているのは確かだ。
   この日米関係は、当分は複眼的な形で続いていくことは間違いないでしょう」と、
   ポツダムの呪縛は今も解けていない。
                  参考資料  講談社発行 日録20世紀


   その時こだわった「国体の護持」とは、如何なるものなのか???
   その後終戦して、米軍が進駐して来ても一貫して、こだわり続けた「国体の護持」とは、
   如何なるものなのか???
   当時この国には、「国民が在って国家がある」、あるいは「国民が居て国体がある」という
   発想は、そもそも無かったのである。  
   「天皇があって国家がある」、あるいは「天皇とその側近が居て国家・国体がある」
   極端に言うと「天皇がいれば、国民はどうでもよかった」のである。 
   今でも、その考え方は、「国民の政事」に携さわらなければならぬ人達に見られることで、
   天皇に近づけば近づくほど、その庇護の下に自分を大きく見せたいため、
   出来るだけ天皇を神格化して、雲の上の存在にしようとしている。 
   「天皇の人間宣言」は終戦直後あったが、今は昔の状態に戻そうと、
   側近達が工作しているのが、最近明白になってきている。 
   これで良いのだろうか???

 8月9日深夜の御前会議。 翌10日未明、天皇制、国体護持を条件にポツダム宣言を受諾決定。
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 8月14日午後7時、ホワイトハウスで日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領。 
 このニュースにアメリカ中が熱狂、各地で勝利を祝う紙吹雪が舞った。 (毎日新聞社提供写真)
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 訪れた平和に、ニューヨークのタイムズ・スクエアは喚起の渦に包まれた。 (PPS提供写真)
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    14日に行われた、ポツダム宣言受諾の記者会見。   (共同通信社提供写真)
    それを報じた15日の朝刊は、玉音放送に合わせて、正午まで配達を差し止められた。
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   昭和20年8月のこと  その6

   ソ連対日宣戦布告・参戦 と ポツダム宣言
     昭和20年8月8日 ソ連軍が対日宣戦布告・参戦し満州国境を突破

   8月6日広島に原爆が投下され、甚大な被害を蒙った。 
   その3日後の8月9日に、長崎にも投下されるのであるが、
   その前日の8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告。 
   ここに日ソ不可侵条約はソ連によって破られ、
   ソ連軍は、日本が占領していた満州(中国東北部)国境を越えて、
   破竹の勢いで進撃してきたので、日本の関東軍は北部一帯から退却。 
   ところが満州の在留邦人は南に避難しなければならなくなったが、
   日本の関東軍は在留邦人を見捨てて、退却したので、
   ここでも大きな悲劇が始まったのである。 
   在留邦人は次々に倒れ、余儀なく子供を中国人に預けたりした逃避行は、
   困難を極め、多大の犠牲者が出たのである。 
   後々の残留孤児の問題がそれである。

 写真は8月9日、国境を越えたソ連軍は破竹の勢いで満州を前進、13日には朝鮮北部からも侵攻し、
   日本の関東軍を撃破した。 写真は歓呼で迎えられたソ連兵。 (ノーボスチ通信社提供写真)
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   ポツダム宣言
   昭和20年7月17日、アメリカ・トルーマン大統領、イギリス・チャーチル首相、
   ソ連・スターリン首相の3巨頭がベルリン郊外のポツダムで会談。
   ドイツ占領と日本の戦後処理問題について話し合った。
   戦争を決定的な段階に追い込み、敗戦国に対する戦後処理について、大枠で合意すること。
   アメリカはソ連の対日宣戦布告の約束を早く取り付けることであった。

   米ソ間で、ドイツが降伏してから3ヶ月以内に、対日戦線に参加するとの密約が交わされ、
   見返りにソ連にアジア北東部のいくつかの島、満州鉄道の利権、朝鮮の一部を統治する権利
   などが認められた。
   もし、日本本土上陸作戦を取れば米軍から100万人の犠牲者が出ると予想され、
   同盟国ソ連を対日戦線に引き込み、アジアに第二戦線を形成する必要があった。

   4月20日、ヒットラーが自決。その7日後にドイツ軍は無条件降伏し、
   ヨーロッパ戦線は終結した。
   かくして、7月17日ポツダムに3巨頭が集まり、対日宣戦布告をしていないソ連は、
   オブザーバーとして参加した。
   会議中に英国の総選挙で保守党が敗北し、24日からチャーチルに代わりアトリー新首相が
   参加するハプニングもあった。

 写真は米英ソ3巨頭によるポツダム会談が始まる。
   この時点で日本に宣戦布告していなかったソ連は、オブザーバーとして参加。 
   宣言は米英中3国によって発せられた。   (PPS提供写真)
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 写真はポツダム会談の5ヶ月前、ヤルタに集まった3巨頭。
   左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
   この会談で、ソ連の対日参戦が秘密裏に取り決められた。  (PPS提供写真)
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   会議は8月2日まで続けられたが、アメリカの姿勢に変化が生じていた。 
   ヤルタ会談の時点では、一刻も早いソ連の対日戦線参戦を望んでいたが、
   ドイツ降伏後、ドイツ分割を含むヨーロッパの、勢力範囲の策定をめぐり、
   ソ連との対立が表面化し、これをアジアに持ち込めば、日本をソ連と分轄し合う事態になり、
   朝鮮もソ連と分割統治となる。
   アジア進出を目指すアメリカは、アジアにソ連勢力拡大の阻止を計ることであった。 
   ソ連が対日宣戦布告する前に、日本を降伏させるのが、アメリカの国益と判断、
   7月16日に秘密兵器「原爆」の実験に成功したので、
   原爆投下により日本が降伏すれば、ソ連参戦は阻止できる・・・・・

   7月26日、米英中三国による対日ポツダム宣言が発せられた。 
   合意に至るまで、互いに勢力拡大を狙う米ソの対立が表面化し、会談は難航した。

   宣言は軍国主義の除去、国土占領、領土削減、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰などを提示。
   そして、無条件降伏により国際社会の一員に復帰せよというものであった。

   一刻も早い日本の無条件降伏を望むアメリカは、ポツダム会談が終了して僅か4日後の
   8月6日朝午前8時15分、広島に原子爆弾を投下。 
   その3日後の8月9日午前11時2分に長崎にも投下。 
   ソ連は8月8日、日本に対して宣戦布告し、満州の国境を越えて進撃。

   日本は完全に破局したのであった。
                  参考資料  講談社発行 日録20世紀

 私は毎年8月が来ると、広島・長崎の「原爆の日」が来ると、「終戦の日」が来ると、
 無性に怒りがこみ上げ、そしてむなしさが襲ってくる。 
 もう60年以上、国家とは、民族とは、人間とは、政治とは、政治家とは、
 「何であるか」を考えるが、答えが分らない。  どなたか教えてください。

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なおじぃ
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