なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・昭和20年9月

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   昭和20年9月のこと  その6  
   マッカーサーと天皇の会見

   「東京には占領軍を進駐させないでほしい」と日本政府は懇願する形で申し入れたが、
   あっさり拒否され、9月8日には約8千人の将兵が東京都心に進駐してきた。  
   日本政府の認識の甘さが、次々と露呈する。
   
   昭和20年9月27日、マッカーサーと天皇が初めてアメリカ大使館で会見。  
   腰に手を当てた軍服姿のマッカーサーと、横に立つ黒モーニングに身を包んだ昭和天皇との
   会見のときの写真。  
   実は、この写真を発表するに当たり、写真を9月29日の新聞に掲載したところ、
   時の山崎内大臣は、「不敬である」として新聞の発売を禁止した。  
   確かにこの写真を一目見ただけで「日本の真の支配者が、誰であるかを、思い知らされた」、
   当時の日本人にとって屈辱的な写真であった。  
   歌人・斉藤茂吉は日記に、「ウヌ!マッカーサーの野郎」と書き込んでいた。  
   降伏文書に署名したとは言え、旧憲法の時代、時の政府は当然のこととして、
   天皇に対する不敬と認識しての、発売禁止の処置であった。  
   ところが、GHQは直ちにこの決定を、撤回させた。
   当時の日本人は、この写真を見て涙し、歯軋りしたのである。  
   然し、この涙と痛みが日本民主化への第一歩の高いハードルであった。

   占領軍は年末までに43万人が上陸し、全国の県や市の行政組織と接触し、介在した。

   アメリカ政府は、開戦翌年から戦後の対日政策研究機関「東アジア研究班」を設置した。  
   そこでの日本占領についての考え方に、二つのグループがあった。  
   将来の極東アジアを考えるとき、中国を中心に考えるか、日本を中心に考えるかであり、
   中国派は中国の資本主義を強めて、アメリカのよき市場にしようと考え、
   日本派は日本の潜在工業力を評価し、アジアの安定に日本の復興は不可欠であるとした。  
   検討が加えられ、おおむね日本派の意見が採用され、昭和20年4月19日に
   国務・陸軍・海軍三省調整委員会は対日占領政策基本方針を作成した。  
   昭和20年4月1日、連合軍は沖縄に上陸。  
   この時点で、アメリカは日本に対しての勝利を確信していたのである。  
   ポツダム宣言の3ヶ月前のことである。

   内容は、日本の非軍事化、民主化、自由主義化を求め、占領政策は直接軍政を敷かないで、
   日本の既存の行政機関をそのまま利用して行うとされた。  
   日本への食料援助は、近隣諸国の生活水準を上回ってはならないと、
   注意を喚起していたのである。  
   一度抜いた歯が、生え変わることがないようにということであった。 

   マッカーサーは1951年アメリカ国会・上院議会・外交合同委員会聴聞会で、
   「現代文明の基準で計った場合には、日本は、我々が45歳であるのに対して、
   12歳の少年のようなものである」と証言した。   
   12歳の少年に施した占領政策は成功し、
   さらに40年後にはアメリカと深刻な経済摩擦を起こす、経済大国に成長したのである。  
   歴史は皮肉なものである。

   昭和20年9月27日、アメリカ大使館で、天皇とマッカーサー元帥が会見した。  
   そのとき撮影された写真で、29日の新聞に掲載、発表された。 (毎日新聞社)
イメージ 1

   昭和20年9月17日、GHQの本部を横浜から東京・日比谷・第一生命館に移した。  
   宮城・二重橋前の広場は一転して進駐軍の閲兵・訓練の場となり、日本を威圧する。
                      (毎日新聞社)
イメージ 2

   昭和25年4月11日、マッカーサーは最高司令官を罷免された。  
   羽田に向かうマッカーサー元帥を見送るため、20万人が沿道を埋めた。  
   また、GHQから「天皇が羽田に見送りにきてほしい」との要請があったが、
   宮内庁式部長官・松平康昌が拒否し、その日、天皇は羽田へ姿を見せなかった。
                      (アメリカ国防総省)
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   昭和20年9月のこと  その5
   GHQを東京・日比谷・第一生命館に設置

   昭和20年8月30日、マッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に到着し、
   とりあえず横浜のGHQへ入った。
   9月5日、東京丸の内に大挙してアメリカ兵が現れ、軒並み建物を物色して回った。 
   第一生命保険相互ビルを、アメリカ第一騎兵師団の司令官が、社内を視察したことを
   第一生命の矢野一郎常務(当時)は、「いやな予感」と著書「第一生命館の履歴書」で
   語っている。  
   敗戦になり建物を接収されることは覚悟していたが、戦闘部隊の荒っぽい連中などに、
   大切なビルを明け渡したくないと考えていたが、現実の建物接収ということになってしまった。  
   このビルは、創業者である矢野常務の父、矢野恒太氏が堅牢と安全を最大の条件に、
   最高の技術と智識を傾注して建造したものであった。  
   昭和10年起工、13年竣工、鉄骨鉄筋コンクリート地上8階、地下4階。  

   矢野常務はGHQの参謀将校に「ここを本部に」と持ちかけた。 
   兵隊より将校のほうが大切に使ってくれるだろうと、期待した。
   9月8日 午後2時、マッカーサー元帥が第一生命館を内見し、
   最初に5階臨時社長室をのぞき、次に6階正社長室を見、さらにもう一度5階を眺めて、
   横浜に帰っていった。  

   この第一生命館に、連合国総司令部GHQ(General Head Quarters)が置かれ、
   マッカーサー元帥の執務室として使われた。
   マッカーサー元帥は3方壁に囲まれた6階より、採光状態の良い5階が気に入ったようだが、
   側近たちは6階を勧め、なかなか承知しなかったが、15日引越しの時、渋々承知したという。
   執務室にはこだわりを見せたが、机と椅子は備え付けのものを使用した。  
   それはビル竣工以来、石坂泰三社長が愛用してきたもので、
   畳三枚分ほどの広さだが、引き出しがなかった。  
   マッカーサー元帥も、執務を滞らせぬためには、引き出しはないほうが良いと言ったと
   伝えられる。  

   マッカーサー元帥はこの机で、
   10月4日 人権指令
     (治安維持法などの弾圧立法の廃止、政治犯の釈放、特高警察職員・内務大臣などの罷免、
      天皇制批判の自由などが指令された)  
   10月11日 5大改革指令
     (1、婦人解放、2、労働組合の助長、3、教育の自由化・民主化、 
      4、秘密的弾圧機構の廃止、5、経済機構の民主化、
      以上を優先的に実施するように指令)
   12月9日 農地解放指令
     (不在地主の土地の小作人への売却、不耕作地主の土地買い上げなどを立案するよう指令。
      地主などの抵抗が強かった。)
   12月17日 衆議院議員選挙法改正公告
     (婦人参政権が憲政史上初めて認められる)  
   21年6月28日 第二次農地解放指令
     (結果、小作地の8割が解放された)
   21年1月4日 公職追放令
     (軍国主義的・超国家主義的政治指導者の立候補制限、政界・官界・財界・
      言論界・労働界・教育界に適用された)  
   21年11月3日 日本国憲法の公布

   この机で日本の民主化に関する重要決定がなされたのである。

   マッカーサー元帥の執務室は当時のままに、歴史資料室として一般公開されているという。

   石坂泰三氏=昭和24年 東京芝浦電気社長に就任、31年から43年まで経団連会長として、
         高度成長期に日本経済の牽引的役割を果たした。

    6階マッカーサー元帥の執務室。 歴史資料室として一般公開されているという。
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    昭和27年7月までGHQに接収されていた第一生命本館(アメリカ国防総省)
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   昭和20年9月のこと  その4  
   米軍の進駐、見せ付けられた勝者の国の豊かな生活

   昭和20年8月30日、マッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立った。  
   以後アメリカ兵約43万人が、日本全国に散らばり、占領政策を進めていった。  

   敵軍が進駐してくるとのニュースは、様々な流言飛語が飛びかい、
   人々の心に不安や恐怖感を植えつけていった。 
   とにかく、戦時中は「鬼畜米英」であったから、捕まったら頭から喰われるか、
   生き血を啜られると信じられていた。 
     (多分、ドラキュラーなどの猟奇小説の発想から、信じ込ませられていた。 
     戦争に駆り立て、勝利しなければ、その様な惨事になると国民を洗脳した。 
     極めて幼稚な考え方だったが、国民には他の情報がなかったので、
     勝つためにはその様な軍部・政府の情報を信じて疑わなかったのである。)

   然し、実際に接してみれば、アメリカ兵は陽気で気前が良かった。 
   米兵と最初に親しくなったのは、子供たちであった。 
   ジープを取り巻いてチョコレートやキャンディを貰い、
   「ハロー」や「サンキュー」など自然に会話したのも、彼等子供たちであった。
   「アメリカ兵の外出着はちゃんとアイロンがかかっていて、折り目がついていた。 
   それよりも、アメリカ兵の服には驚いた。 何しろポケットが一杯ついている。
   ズボンはももと足元、後ろのポケットと6個位、上着は腕の横にあるのを含め、
   10個位もあった」と10台後半で終戦を迎えたグラフィック・デザイナーの木村恒久氏は、
   自分達の当時の衣服のあまりのひどさと比べて語った。

   そのポケットには、いろいろなものが詰まっていた。 
   チューインガム、チョコレート、キャンディ、タバコ、ライター、恋人の写真、家族の写真、
   まるで手品のように次から次へと出てくるのであった。 
   ソウ、現代のドラえもんのポケットさながら。

   アメリカ軍の進駐は、大量の生活物資を持ち込んできた。 
   アメリカの豊かさを、国力の圧倒的の差をまざまざと見せ付けられたのである。 
   食料難でいつも腹をすかせていた我々日本人に、
   たまたま在る時、臨時配給された米軍非常食は、国力の圧倒的の差を見せ付けられたのである。

   その後、東京のど真ん中、銀座のど真ん中、銀座交差点の服部時計店が接収され、
   PXというアメリカ兵やその家族が買い物をする施設が出来他。 
   ついで銀座松屋デパートも同じくPXとして接収された。 
   店内には、パッケージの色どりも鮮やかな食料品、衣料品、日用雑貨の数々が、
   うず高く積まれ、ショーウインドーに並べられたアメリカの生活用品は、
   アメリカ文化への羨望と憧れと欲望を掻き立てられたのである。
   このように言葉より、製品やモノを通してアメリカを学んでいったのである。

  アメリカ兵と最初に親しくなったのは、子供たちである。 
  「ハロー」「ギブミー チョコレート」「サンキュー」と自然に会話したのも、子供たちであった。  
            (9月21日軽井沢・毎日新聞社)
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   昭和20年9月のこと  その3
   医療物資15トンを携えて広島入りした中立国スイスの医師マルセル・ジュノー氏

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  「9月1日になって初めて外務省は私に、
  原爆炸裂後の広島の写真数枚を見せた。 
  あれこれと想像していたにもかかわらず、
  荒涼たる灰色の光景には、慄然たるものがあった。 
  灼熱の灰と燃えたぎる溶岩の中で、
  ティムガドやポンペイの人々が
  苦痛の絶叫を上げて 死んでいったのは、
  遠い昔のことである。 
  然しここに同じ光景が再現されたのだ。」  
      (写真提供 丸山幹正氏)
   ポンペイ=イタリア・ナポリ近郊に1世紀まであった
         都市国家で、ローマ人の余暇地として栄えた。
         79年にベスビオス火山が大噴火し、
         火砕流に埋まり壊滅した。 
         18世紀に発掘され、その遺跡は
         世界遺産になっている。

   第二次世界大戦の終結を目前にした、昭和20年8月9日、国際赤十字から、
   おもに連合国軍捕虜の待遇を視察する任務を受けて派遣された、
   中立国スイスの医師、マルセル・ジュノー氏は、羽田に降り立った。 
   この日、長崎に原爆が投下され、6日後に日本は無条件降伏をした。

   ドクター・ジュノーの一行がイランのテヘランを出発したのは7月4日、
   独ソ戦最大の激戦地スターリングラードの上空を通過し、
   ソ連の対日開戦が囁かれる極東シベリアを経て、
   間もなく消滅する「満州国」に入り、
   さらに空襲下の日本へ飛び、8月9日羽田に降り立った。
   その旅は、冒険活劇である。 
   広島に原爆が落ちた8月6日は、彼等一行は「満州国」四平街道近郊の捕虜収容所で、
   パーシバル中将・マレー・イギリス軍司令官らの将星たちが、
   階級が下の日本軍人に最敬礼をさせられる屈辱的光景を目撃している。

   東京で終戦を迎えた、ドクター・ジュノーたちの最大の関心事は、
   人類最初の核攻撃を受けた広島、長崎の被害状況であった。 
   然し、厳重な緘口令を布くアメリカ軍関係者からは、まともな情報は得られず、
   僅かに、日本の庶民たちの「口承による情報」から実情を推測するほかなかったという。
   被爆地の写真を初めて見せられた翌日、広島入りを果たしたスタッフの一人から、
   詳しい報告を受けたドクター・ジュノーは、マッカーサー総司令官たちに
   広島の写真を突きつけて、15トンに及ぶ医療物資の提供を取り付け、
   9月9日、広島にそれらを携えて到着する。  
   医療品の中には、当時の新薬であるペニシリンや各種のスルファミン、便利な乾燥血漿などが
   含まれており、「極限の苦しみ」の中にあった負傷者たちの治療に、
   大きな効果を提供したのである。
    (1947年に刊行された回想録「ドクター。ジュノーの戦い」 丸山幹正氏訳・勁草書房)

   ドクター・マルセル・ジュノーは、敬虔なプロテスタントの家庭に育ち、
   コンラッドの冒険小説と、ペットのトカゲを愛したという。  (1904年生れ〜1961年没)
   広島のほかエチオピア、スペインなど、20世紀前半の戦禍の地に、
   医療物資を携えて飛び回った。
   北朝鮮帰還問題のため、1959年にも来日している。

   改めて、中立国の発言力・行動力は、大国をも屈服させる「強力な力」を持っていることを、
   認識した次第である。
   拉致問題も、このような組織、人物にゆだねることが出来れば、成果が上がるのではないか??
   昭和20年9月のこと  その2
   降伏文書調印式

   昭和20年〈1945年〉9月2日午前9時過ぎ 東京湾上 米戦艦ミズーリ号 上で、
   「大日本帝国」は、連合国(アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、
   フランス、オランダ、ニュージーランドの9カ国)に対して、降伏文書に調印した。

   ここに、日本の何かが終わり、日本の何かが始まる。

   降伏文書調印式に先立って行われた、マッカーサー連合国最高司令官の演説は、
   日本国全権団の予想を覆す内容であった。
   「ここに我々主要交戦国代表が参集して、平和克服を目的とする厳粛なる協定を締結しようとする。
   ・・・・我々は相互不信、悪意、または憎悪の念を抱いてここに集まったわけではない。 
   寧ろ戦勝国と敗戦国とを問わず、人類のより高き威厳に到達せんことを記念するもので
   あって、・・・・・我々はここに我等の国民が正式に受諾する諒解を留保なく且つ誠実に
   履行することを誓う。 (中略) この厳粛なる機会に、過去の流血と殺戮のうちから
   信頼と諒解の上に立つ世界が招来せられ、人類の威厳とその最も尊重する念願――すなわち、
   自由、寛容、正義に対する念願――の実現を志す世界が出現することを期待する。
   これが余の熱烈なる希望であって、且つ亦、全人類の希望でもある。 
   ここに提示され受諾さるべき日本軍隊の降伏条項は、諸君の眼前にある降伏文書に
   記載されている。 余は連合国最高司令官として、余の代表する諸国の伝統に従って、
   正義と寛容とを以って、世の責任を果たし、降伏条件が完全、迅速且つ誠実に
   遵守せられるよう、あらゆることを声明するものである。」
                (加藤俊一「ミズリー号への道程」28〜29頁)

      日本国全権団=外務大臣・重光葵、参謀総長・梅津美治郎陸軍大将 ほか9名
      梅津発言=梅津は記者に対して、「若し強いて自分に行けと云うならば、そは御前は自殺
           すべしと云うと同様なり」と述べている。
           「重光葵手記」532頁――梅津は、降伏に際し玉砕を主張したからである。

   降伏文書調印式に先立って、天皇は「降伏文書」への署名及びその履行等を命ずる詔書を、
   同日公布した。
           詔書=天皇の命令を伝える公文書。 
             =現憲法下では、国事行為について天皇が発する公文書

   朕ハ昭和20年7月26日米英支各国政府ノ首班カポツダムニ於テ発シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル
   宣言ノ掲フル諸条項ヲ受諾シ、帝国政府及大本営ニ対シ、聯合国最高司令官カ提示シタル降伏文
   書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ
   命シタリ、朕ハ朕カ臣民ニ対シ、敵対行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ条項並ニ帝
   国政府及大本営ノ発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス 
     御名御璽
     昭和20年9月2日
     内閣総理大臣 稔彦王
     国務大臣 公爵 近衛文麿
     海軍大臣 米内光政
     外務大臣 重光葵
     運輸大臣 小日山直登
     大蔵大臣 津島寿一
     司法大臣 岩田宙造
     農林大臣 千石輿太郎
     国務大臣 緒方竹虎
     内務大臣 山崎巌
     商工大臣 中島知久平
     厚生大臣 村松謙三
     文部大臣 前田多門
     国務大臣 小畑敏四郎
     陸軍大臣 下村定

       関連記事  むかし、むかしのお話 第3話 
             この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/7829512.html

   降伏調印式で演説するマッカーサー連合国軍総司令官
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   日本政府全権団は、外務大臣・重光葵外相  参謀総長・梅津美治郎  ほか9名
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