なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・昭和20年10月

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   昭和20年10月のこと  その5  
   海外引揚げ第一陣・学童疎開者帰宅

   連合国軍が進駐するとともに、次々と新しい事実にぶつかった。 
   陸海軍部の解体、東條大将以下の戦時中の指導者の相次ぐ逮捕、マッカーサーと天皇の会見、
   政治犯の釈放、三井・三菱・住友などの財閥解体、五大改革指令、・・・・・などなどと、
   一つの国家の体制が見事に崩壊してゆく過程を、驚きの目で見るばかりであった。
   ほとんどの政策が、どれほどの意味を持つのかは、到底理解できるわけもなかったが、
   ただ明日には何が起きるか判らないと言うことだけは、感じ取ることは出来た。

   10月18日、南方諸島から復員兵の第一陣が、米軍船で故郷に帰還してきた。 
   戦時中海外に残された日本人は約660万人で、本格的に復員・引揚げが軌道に乗ったのは、
   21年後半ごろからであった。 
   10月10日ごろから学童も疎開先からようやく、親元のところに帰れるようになった。 
   然し帰って来てみれば、家は焼かれ、家族を失った者も多く、
   路頭に迷う者も多かったのである。

   南方諸島から復員兵第一陣が、満員の米軍LST船で博多港に到着した。 (毎日新聞社)
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     疎開中の荷物を携えて上野駅に到着した学童たち。  
     江東区は空襲被害が大きく家族を失った児童も多かった。   (毎日新聞社)  
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          国電ホームにただひとり、裸足で立つ戦災孤児  (毎日新聞社)
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          焼け跡で営業する青空理髪店   (毎日新聞社)
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   昭和20年10月のこと  その4   
   三井、三菱、住友などの財閥解体

   GHQは、「軍部の解体」という最大の難問のめどがつき、
   次に着手したのが「財閥の解体」であった。 
   日本を今後生かさず、殺さずにアメリカの属国として再生させるには、
   日本経済の要ともいうべき「財閥」がやはりアメリカ経済にとって、
   将来の憂慮・脅威の対象として、この時点で解体しておかなければならなかった。

   財閥の対象として、三井、三菱、住友、安田の4財閥をひとまず解体の対象にした。 
   このとき、GHQは占領政策上、国民の反感に配慮して、指令という形式ではなく、
   あくまで4財閥の「自主的解散」の方向で完了するべく強行交渉が進められた。 
   表面は政府主導で進行するが、GHQの強行交渉は難攻を極めたのである。
   三井財閥は三井本社のもと、直系10社、準直系12社、系列を含め合わせ150社を超え、
   公称資本金28億円であった。
   三井についで安田は一族が総退陣し解散した。
   三菱本社社長・岩崎小弥太はGHQの意向に対して
   「三菱は国家社会に対する不信行為はいまだかってなした覚えはなく・・・・
   顧みて恥ずべき何物もない・・・」と自発的解散に抵抗する。 
   然し、所管の大蔵大臣は渋沢敬三で、渋沢栄一の孫であり、
   渋沢敬三は大蔵大臣の役職から「自身、国家存亡のとき、人を説得する立場にある身は、
   自身の財閥を解体せねば説得することが出来ない」と渋沢財閥を解散して望んだ。 
   GHQは「渋沢家は財閥に非らず。 解散を留めよ」と言われたが、解散して対処した。
   又、幣原総理は、義父・岩崎弥太郎の作り上げた三菱を解体する役目を担う。 
   本社社長・岩崎小弥太は幣原首相の妻雅子の従弟。 
   渋沢敬三の妻登喜子は岩崎弥太郎の孫という関係で、皮肉にも、幣原首相も渋沢大蔵大臣も
   三菱一族の家族・親戚として岩崎ファミリ−であった。  

   然しGHQの意向はいかんともし難かったのである。    

   詳しい資料・三菱グループ=http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man18.html 

   財閥解体=10月22日・GHQ指令「主要金融機関または企業の解体または生産に関する
        総司令部覚書」を発し財閥資産の恣意的処分を防止し、解体、清算の制限を行うため
        三井、三菱等15財閥に事業内容、資本構成等の報告の提出を指令した。 
        侵略戦争遂行の経済基盤となり戦争のたびに莫大な利益を獲得した財閥(皇室も一つ
        の財閥を構成した)を解体させることは、とりもなおさず日本の軍国主義の壊滅に
        直結するがゆえに、重要な占領政策の一つである。
   昭和20年10月のこと  その3  
   「女性の解放」をトップに指示した「五大改革」指令

   GHQは10月4日に、いわゆる人権指令なる、治安維持法などの弾圧立法の廃止、
   政治犯の釈放、特高警察職員・内務大臣などの罷免、天皇制批判の自由などが指令され、
   東久邇宮内閣は5日に実行不可能と総辞職した。
   皇族首相としては、受け入れがたい指令であった。 
   と同時に、就任時に「一億国民総懺悔」を唱えて、敗戦の責任を国民自身に問おうとし、
   国民に敗戦の責任を転嫁する発言と批判を受けたのである。 
   皇族内閣は、停戦の指令を履行するに、皇族以外の人物に軍部を説得できる者はいないと
   判断しての措置であり、それが何とか達成しつつあり、その役割も終りの情勢でもあったのである。  
   今までと違い、「天皇制批判の自由化」は、皇族も容赦なく批判される対象であり、
   まして政権を担当すれば、尚攻撃の対象となってきた。 
   その上に、GHQの指令は容赦なく実行されたので、政権放棄の口実ともなったのである。 
   然し短期政権ではあったが、「軍部の解体」という非常に困難な問題を、
   皇族首相ということで所定の解決が出来たことは、一定の評価ができるものと思う。 
   事実、当初GHQは日本側の抵抗がかなり強いのではないかと考えて、
   軍政を敷くことも構想していたが、比較的スムーズに戦争終結したので、
   媒介間接統治方式がとられたことは、後の日本にとって幸いであった。 

   10月9日、親米派の幣原喜重郎内閣が発足する。
   10月11日、新政権に「五大改革」指令。
   首相就任の挨拶のためGHQを訪ねた幣原新首相にマッカーサー司令官は、
   実施を要求した5項目からなる指令を指示した。
   この日、マッカーサーは、ポツダム宣言に基づき、
   日本国民は今後思想の自由、言論の自由、宗教の自由を抑制せんとするあらゆる形態の統制から
   解放されねばならぬという見解を表明し、五大改革を指示した。
   しかも連合国の政策は、アメリカ単独主導権政策であり、
   GHQの政策は、日本の「非軍事化」の徹底、そのための「民主化」の推進、
   再びアメリカの脅威にならないようにというねらいがあった。
   「五大改革」の内容は、女性の解放、労働組合結成の促進、自由主義教育も実施、
   圧政的諸制度の撤廃、経済の民主化である。
   改革トップに「女性の解放」を挙げてあり、
   その後の日本の民主化に大きな役割を果たしたのである。


   幣原喜重郎談話= 一、選挙権付与による日本婦人の解放
          政治体の一員たることにより、日本婦人は過程の福祉に直接役立つがごとき
          政府に関する新しき観念をもたらすべし
          二、労働組合の結成奨励
          労働者を搾取と酷使より保護し、その生活水準を向上せしめるために有力なる
          発言を許容するが如き権威を労働組合に賦与せんが為なり。 
          又現行行われおる幼年労働の弊害を矯正するに必要なる措置を講ずべきこと
          三、より自由なる教育をおこなうための諸学校の開設
          国民が事実に基づく知識によりその将来の進歩を形作り、
          政府が国民の主人公たるよりは寧ろ公僕たるが如き制度を理解することにより
          利益を受ける為なり
          四、秘密検察及びその乱用により国民を不断の恐怖に曝し来るが如き
          諸制度の廃止
          五、所得並びに生産及び商工業の諸手段の所有の普遍的分配をもたらすが如き
          方法の発達により、独占的産業支配が改善せられるよう日本の経済機構を
          民主主義化すること

   指 令 = 占領軍東京進駐2日前の9月6日(前日5日には、第88帝国議会臨時会議が招集
         された) 「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての
         貴官に従属する。 貴官は、貴官の使命を実行するため、
         貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。 
         貴官の権限は最高であるから、貴官はその範囲に関しては日本側から如何なる異論
         も受け付けない」 との連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への
         通達が行われたが、これを受けて9月9日マッカーサーは占領下日本の管理方針を
         正式に声明する。
         その結果、形式的にも実質的にも日本の主権は、降伏条項実施のため
         最高司令官マッカーサーに従属することになった。 
         然し占領管理の方式に関しては、原則として間接統治の形式が採られた。 
         すなわち最高司令官の命令の下に直接的には、日本政府が占領管理政策の
         遂行にあたったのである。 
         換言すれば、最高司令官は日本政府に対し手指令を発するのみであり、
         日本政府はこの指令を受けて現実の統治を行うために国民に対して命令を発し、
         又これを執行することが原則であったわけである。
                           (参考 Wikipedia)
   昭和20年10月のこと  その2  
   政治犯釈放

   敗戦、連合国軍の日本進駐と共に、日本人は次々と新しい事実に直面する。 
   陸海軍の解体は、破れた以上当然であると誰もが思っていたが、
   東條大将以下戦時中の指導者たちが相次いで逮捕、天皇制批判など
   タプロイド版の新聞に現れる事態は、日本人の既成概念を根底から揺さぶり続けた。

   GHQは10月4日、政治犯の即時釈放、治安維持法廃止などの日本政府に覚書を通達、
   これにより東久邇宮内閣は打撃を受け、翌5日覚書は実行不可能と総辞職した。  
   6日全国の特別高等警察が廃止され、
   8日幣原内閣が発足する。

   10日、このような事態のなか、最も強烈な印象を与えたのは、
   予防拘禁の名目で拘置されていた日本共産党幹部の徳田球一、志賀義雄の2人が、
   約3千人の政治犯に混じって、18年ぶりに釈放されたことである。  
   あの厳しい思想統制や反国家的・反天皇制的行為が徹底的に弾圧されたなかで、
   なお天皇制に逆らい、軍国主義と戦い続けた人々がいたという事実は、
   まさに驚異的なショックであった。
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       写真は  10月10日
             政治犯の日本共産党幹部
             徳田球一(左)、志賀義雄(右)が、
             約3千人の政治犯に混じって釈放され、
             18年ぶりに出所した。

   特別高等警察=大日本帝国憲法下の日本で、共産主義、無政府主義、女性解放運動などの
          すべての反体制・反政府的言論・思想・宗教・社会運動などを
          弾圧した秘密警察。  通称「特高警察」「特高」。
          大逆事件を機に内務省に設置。  
          国体と私有財産制に反対する者への弾圧を目的にする治安維持法の
          実行部隊として拡充され、各庁都道府県警察にも設置された。  
          主として共産主義者を対象にしていたが、戦時下では自由主義等一切の
          反政府運動、さらにそれらの思想も弾圧し、憲兵と共に国民から恐れられた。
          「特別」と追加されたのは、国体の護持は特別に重要であったからとされる。
   大逆事件 = 無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)
   幸徳事件 = 1910年、明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚、
          この事件を口実に社会主義者を根絶やし弾圧、政府主導でしたとされる事件。
          戦後、処刑者の再審請求などの復権の運動が起っている。
   憲 兵 =  旧日本軍において陸軍大臣の管轄に属し、
          軍事警察、行政警察、司法警察を掌る兵科区分の一種。
          軍事警察であるが、戦時中は一般市民に対しても、取り締まりに介在した。
                      (参考 Wikipedia)
   昭和20年10月のこと  その1  
   歌手・並木路子の「リンゴの歌」

     作詞 サトーハチロー  作曲 万城目正

       赤いリンゴに唇よせて  
       だまってみている青い空
       リンゴはなんにもいわないけれど  
       リンゴの気持ちはよくわかる
       リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

          あの娘よい子だ気立てのよい子  
          リンゴに良く似た可愛い娘
          どなたがいったかうれしいうわさ  
          かるいクシャミもとんで出る
          リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

       朝のあいさつ夕べの別れ  
       いとしいリンゴにささやけば
       言葉に出さずに小くびをまげて  
       あすも又ねと夢見顔
       リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

          歌いましょうかリンゴの歌を  
          二人で歌えばなおたのし
          皆で歌えばなおうれし  
          リンゴの気持ちを伝えよか
          リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

   焼け跡の虚脱状態のなか、その日その日を生き抜く人々に、
   笑顔を取り戻させたいという願いが込められ、その願いはリンゴ畑で歌われる、
   この「リンゴの歌」に集約され、大ヒットした。
   映画の内容は、楽屋番の母親の手伝いをしていた少女が楽団人に助けられながら、
   歌手になっていくというスター誕生物語。 
   昭和20年(1945)10月10日、封切られた戦後映画の第1作目「そよかぜ」の主題歌であった。  
   映画は佐々木康監督の作品・松竹、作詞はサトー・ハチロー、作曲は万城目正である。
     (映画「そよかぜ」は、松竹・佐々木康監督の作品で、戦後映画の第1作目、
        GHQ検閲映画第1作でもある)。
     (主題歌「リンゴの歌」はサトー・ハチローが終戦2ヶ月前に、
        灯火管制の暗幕の下で、作詞した。
     (主題歌「リンゴの歌」のレコードは昭和21年1月発売)

   この歌にふさわしい、澄んだ歌声のヒロインを探していたスタッフの眼にとまったのが、
   当時25歳で松竹歌劇団出身の並木路子であった。  
   この映画のヒロインに最も要求されるのは、見るものが誘われる自然の笑顔であった。
   然し並木が作る笑顔は、ぎこちなかった。 
   多くの日本人同様、彼女も戦争による心の傷を負っていた。

   この年3月の東京大空襲で、並木と母親は炎の中を逃げまどい、隅田川に飛び込んだが、
   彼女は救われ、母親は亡くなり、心の傷は癒えていなかった。
   万城目先生が「新橋や有楽町をごらん。  親を失った子供たちが元気に働いている。  
   大人の君がいつまでも泣いていては駄目なんだよ」と、
   出来上がったばかりの譜面を手に励まして下さいました。  
   そして、レッスンするうち、この歌にこめられた先生の思いが伝わってきて、
   笑顔が自然と出せるようになりましたと、並木の心を変えてくれた、先生の言葉をかみしめて、
   当時を振り返るという。

   映画のヒットと共に話題を呼んだ「リンゴの歌」を全国に届けたのはラジオであった。
   ラジオ初放送は12月10日芝・田村町・飛行館スタジオでのNHK公開番組「希望音楽会」で、
   並木は小脇にリンゴの入った籠を抱えて客席に降り、リンゴを配りながら歌った。 
   リンゴは当時貴重品で、奪い合いで会場が大騒ぎになったのは有名な話という。
      (当時リンゴ1個の値段は闇市で5円で、サラリーマンの月給200円時代。  
       替え歌に「リンゴ高いや、高いやリンゴ」まで出来たくらいである。
                 大島幸夫「人間記録―戦後民衆史」記述)
   大晦日の「紅白音楽試合」では、高峰秀子、霧島昇、ディック・ミネら当時の大スターと
   歌声を競った。
   さらに、戦後第1号として発売されたレコードが、30万枚の売り上げを記録、
   この一曲で、並木は国民的歌手となったのである。
   暗い辛い戦争時代を潜り抜けて、生きることさえ困難な状況から脱出したいという願望を、
   この歌に託して来た人々の、安堵開放感にマッチしたので、大流行したというのが
   定説になっているという。

   並木は「この歌がなければ、私はいつまでも戦争被害者のままだったが、
   「リンゴの歌」は日本人の心の応援歌で、
   私は歌うことで皆さんを応援し、聞かれることで応援されていました」
   時代がどう変わろうと「リンゴの歌」の価値は変わらないと、語る並木の思いが、
   終戦50年後の平成7年(1995)に、新バージョン「リンゴの歌」のCD発売。
   そして、「リンゴの歌」を阪神大震災復興の応援歌として歌ったという。

   並木路子=本名南郷庸子(つねこ)  
        心筋梗塞のため平成13年(2001)4月8日死去(79歳)
        松竹歌劇団出身 昭和18年(1943)「御代の春」で歌手デビュー。  
        青森県リンゴ対策協議会から感謝状(87年)、
        長野県市民団体から「リンゴ女王賞」(88年)
        並木さんの兄は戦死、東京大空襲で母親を、終戦後の引揚げ途中で父親を亡くし、
        戦争は痛ましい記憶であった。
        終戦直後を振り返り「毎日、稗(ひえ)や芋を混ぜた飯を食べるだけで、
        リンゴってどんな味がしたのだろうと,思い出しながら歌った」と語っていたという。                    (2001年4月9日「東京新聞」夕刊)
        93年日本歌手協会副会長に就任した。
      稗(ひえ)=イネ科の1年草で、稲に似ていて、実は黄色く細かい粒。 
            現在は鳥の飼料用に栽培されている。


   「りんごの歌」は、故 霧島昇とのデュエットでレコーディングされ、昭和21年1月発売。 
    その後、「森の水車」「バナナ娘」などのヒット曲を出している。   
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   「そよかぜ」に主演。  
    9月1日に出演交渉され、封切りが10月11日のスピード撮影だった。(松竹)
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        NHKラジオ番組で「リンゴの歌」を歌う。  
        芝・田村町・飛行会館で収録。(日本コロンビア) 
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