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ひとり言 035
風邪をひいた
今月月初めに、しばらく振りに風邪をひいた。
咳が出る。 咽喉の奥が痛む。 時々気管支も痛む。
町医者の言うには、
「インフルエンザでは無さそうだが、ただ、老人は直ぐに肺炎を起こす。
薬を飲んで、2・3日温かく安静にして、寝ていれば治る」
今までは余程の風邪でなければ、寝なくても治った。
ひどい風邪でも、1・2日布団にくるまり、後は行動すれば、元気になった。
しかし、今回は違う。
3日して起きたら、フラフラする。
気管支も痛む。 咳もなかなか収まらぬ。
幸い肺炎は、起こしていないようだ。
友人からの食事の誘いも断る。
気分が良いので、近所の散歩にと出かけた。
また、駅近くの銀行に行く用事も出来た。
歩き出してビックリ!!
何時もの調子で歩くと、ハアハア息切れがする。
気管支も痛む! ゆっくりと歩む。
たった片道1km足らず、往復2km足らずの道のりが、大変だった!!
家に帰り、考えた。
老人は直ぐに足腰が弱くなると、多くの人から聞かされた。
たった2・3日風邪でダウンしただけで、もう足腰が萎えたのか!!
行動も何かにつけ、メンドクサイということが先に起つ。
サボりの行動が、エスカレートする。
いろいろの事実として突きつけられショック!!
マーこの様にだんだんと衰えて往くのだなと、妙に納得したりして!!
大腸がん手術後、「医学統計上、5年後の生存率40%以下」と告知されたが、その後がん転移もなく、もう11年近く生き続けた!!!
人は必ず、死を迎える!!
老いることが納得できれば、
これからの人生も、更に楽しいものと成ると悟った!!!
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無題・ひとり言
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ひとり言 34 土筆(つくし)
今日散歩中に、やっと土筆(つくし)を見つけました。
土から生えた筆、真さに漢字の通り。
「つくし誰の子、スギナの子」と、子ども達に囃され、摘まれ、
遊ばれた「つくしん坊」
これを見ると、子ども時代の郷愁が漂う。
何処にでも在りそうで、最近はなかなか見つからない。
やっと芽を出した「つくしん坊」
本当にまだ此れだけ、ほんに十本くらい。
今年は異常気象に振り回された。
3月中旬には、五月並の気温が続き、
桜の開花が例年より10日以上も早く開花し、
新記録の3月20日ごろ開花し、満開となり、
4月を待たずに散ってしまいそうな、予報であった。
ところが、3月下旬から一転し、気候が不順になり、寒暖を繰り返し、
気温の変化とともに、日照不足となった。
当時春4月の気温の翌日には、
一転曇り日の1月の気温が二・三日続き、
また4月下旬の気候になり、また曇りで2月上旬の気候と、
めまぐるしく変化した。
お陰で、桜の開花が大幅に遅れ、
4月上旬まで開花・満開が伸びたことは、
桜の花見には非常に好都合であったが、
野菜の日照不足で、生育を妨げ、
野菜価格の大幅な高騰を招いてしまった。
4月10日過ぎてから、曇りの日が続き、気温が低下気味。
桜は満開を過ぎたが、散り際の気温低下で、中途半端な散り方で、
日本人の好む、豪快な散り際とは異なる、
何とも情けない風情を今晒しているようだ。
桜はやはり惜しまれて、豪快に散るを良しとし、
哀れを誘う散り惜しみは桜に似合わない。
何時もなら、桜の散った後には、葉が直ぐに生い茂り、
散った後の風情を添えるものだが、今年はその葉さえも
成長をストップさせている。
4月15日、16日の寒さといったら、本当に異常!!!
この3日は完全に1月上旬に逆戻り。
昨日今日の夜間・日中の気温が5度7度前後。
雨が降り、山間部は雪、夜間は平地でも雪とのこと。
各地に遅霜注意報!!
果物の新芽・花芽が霜でやられ、生産に支障をきたしていると言う。
テレビの都心の通勤風景は、真冬に逆戻り。
折角整理した冬の衣類を、引っ張り出し、マフラーで身を固め、
手袋をして傘をさす、真冬の風景であった。
まだ明日も続くと言う。
明後日ごろやっと4月中旬の気候に戻るが、
半月・1ヶ月は気候不順という。
地球はどうなってしまったのか!!!!!
やっと見つけた「つくしん坊」
山吹も咲き始めた。
次は藤の季節。 間もなく紫の花が垂れ下がることであろう。
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ひとり言 33 桜にまつわる良い話
古い新聞記事に、こんな話があった。
福岡市内の檜原桜が道路拡張のため、伐採されることになった。
これを知ったある人が、
「花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花をゆるし給え」
と色紙に書き桜の枝に結んだ。
このとき
「桜花惜しむ 大和ごころの うるわしや とわに匂わん 花の心は」
と短冊に書いて返歌した人がいた。
やがて、花の命は守られることとなった。
前の歌は、地元の銀行員土井善胤氏が詠んだものと分かり、
後の返歌は当時の進藤一馬市長のものと分かった。
桜の枝には、命乞いの短冊や色紙が次々に掛けられたという。
多くの花を守る人達の願いで桜は命拾いした、
極めて日本人的な逸話である。
昔から、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われてきたが、
交通の邪魔になるからとか、人に当るとか言って、
下枝を切ってしまう馬鹿も絶えない。
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ひとり言 32 親友の死
3月25日、60余年にわたり親交のあった友人の死が知らされた。
別の友人から
「病気療養中、24日夜亡くなった。
通夜は26日午後7時から、告別式は27日午後0時半」と
連絡があった。
年賀状に、体調を崩し入院しているが、順調に回復していると
書かれていた。
暖かくなったら、見舞いに行くつもりでいた所であった。
エ・・・と思ったが、やはり老人は何時どうなるか判らない。
会いたいと思ったとき、直ちに行動をとるべきであった。
通夜に行った。
友の多くは高齢で、自身体調管理中で、
この夜の「寒の戻りの小雨と寒風」にさらされる、
遠路とも成ればなおの事、夜の行動が制限される。
80歳を過ぎると通夜の参列者もめっきり少ない。
義理で参列する人は、ほとんど皆無。
それだけに、祭壇に飾られた遺影が、皆に微笑み、語りかけてくる、
しっとりとした葬儀であった。
告別式、友人と見送った。
しかし最後の別れに、菊の花を手向けたが、
不思議と悲しみも、むなしさも感じず、
ただ淡々と友の顔を、瞼に焼き付けた。
代表で火葬場まで行く。
控え室で、親戚一同に紹介された。
故人の中学の後輩が紹介された時、その後輩は、
故人との関係や思い出を、懐かしく親戚一同に話し出した。
故人は20年ほど前、奥さんに先経たれ、一人娘夫婦と同居し孫一人、
近所に一坪菜園を借りて、悠々自適の生活をしていた。
最近は何時も畑自慢と孫自慢、その上、婿さん自慢で円満家庭。
故人とは大学の同期。
彼はわれわれより2才年上の兄貴であった。
彼は戦争末期の昭和20年3月中学校を卒業、
すぐ請われて、小学校の代用教員として6年生の担任となり、
終戦後の昭和21年3月まで奉職。
それから戦争中に、学徒勤労動員での勉学不足を、
1年の受験勉強に励み、大学に入学した。
戦争末期には教職員まで徴兵され、先生が不足していたので、
特別措置で旧制中学を卒業した者に代用教員の資格を与えていた。
中学卒業生は、丁度20歳兵役前の年令であり、
学徒動員からも外れた人達であったからだ。
5・6年前に会ったときに
「この間、小学校の担任であった時の、同窓会に招待されたが、
どっちが教え子か先生か判らなかった」
「あの時、何を教えたのかサッパリ思い出せない」と
言っていた。
それもそのはずで、先生と生徒の年令差がタッタの5歳、
しかも担任の先生と言っても今の高校3年生、
ただの兄貴の年齢差でしかなかったわけだから。
終戦直後の昭和22年に入学し、
夏休みに、八ヶ岳縦走、白馬岳縦走、燕岳・槍ヶ岳縦走、
冬には野沢温泉スキー場などアウトドアーの魅力を教えてくれたのも
彼であった。
終戦後の大学の、われわれのクラスは、年令の差が6・7歳あった。
陸軍士官学校、海軍兵学校卒業間じかで終戦を迎えて勉強し直す者、
代用教員を務めたもの、兵役を経験したもの、軍需工場で働いたもの、
ストレートに入学したものなどが、
ゴチャゴチャに一クラスになっていた。
当時は、年令の差は、今のように単に浪人していたわけではなく、
あらゆる社会的経験を過ごした者の集まりでした。
「あなた方が、一番下の年令だったのですね?」と 言う質問。
「イヤ、一年下の者がいました。 当時は飛び級制度があり、
中学4年卒業見込み以上というのがあり、
1年下の年令の者が2人いました」
大学を卒業する時は、就職難で大変だった。
今年は就職氷河期などと言われているが、我々のときは
こんなものではなかった。
彼も私も就職には失敗しています。
ただあの時代以降、社会の情勢が激変し、
仕方なく就職した中小企業が、世界的な大企業に成長し、
取締役などになった幸福者もいれば、
大企業と思っていたら、いつの間にかリストラ企業になったりして
思わぬ災難を蒙った者もおる。
東京の街が「焼け野原」だったことを知る人が少なくなった。
今の日本を建設したのは、我々であったと思っている。
高度成長時代を経験したが、どうしてドウシテ、
我々は働いて働いて来た。
今では考えられないと思うが、当時の休日は「正月3日、盆2日」と
言われて、これしか休日が無かった。 土・日も働いた。
地方から出てきていたので、東京には当時「賄い付きの下宿」から
通学していた。
親と同居者には、憧れの的。
年中下宿を襲って、よく安酒をあおったものだ。
その度に、介抱されるのは、何時も若手。 良き兄貴であった。
問われるままに、あるいは進んで思い出を話す。
やはり遺族にとって、親戚にとって、
故人の人柄の全てを知りたいと思うのが当然である。
色々と知らない事柄に触れ、故人の人柄を、
また違う形で知ることが出来ましたと、遺族から礼を言われた。
いや、故人と対話が出来、こちらこそ嬉しい時間であった。
ごく普通の体であったが、以外に骨太で、骨壷に収まりきらず、
ギシギシと骨を砕いて収めた。
地方の中学時代の柔道が骨太にしたのだろう。
不思議なことに、悲しみも、むなしさも、涙の出る感情も沸かず、
淡々と遺影と心の会話を楽しんだ。
「おーい、先に行っててくれ。 ちょっと此方の用事を、
早いとこ片付けて、後から追っかけるからナー」
何か、ちょっとそこまで、一緒に行く様な、そんな感じのことでした。
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ひとり言 31 春、春、春 見沼代用水路東縁、西縁とも、堤の古木の桜並木は、 今年は例年より一週間から10日くらい早く開花し、 今週末の連休には、満開を迎える勢いである。 花芽は膨らみ、暖かければ明日にでも、咲き始めそうである。 見沼代用水路西縁の梅並木は、丁度咲き始めて五分咲きである。 今年は梅と桜の満開が同じになる勢いである。 こんな年も珍しい。 今、見沼代用水の縁は、春が一度に来たような華やかさである。 今朝の散歩から!!! |








