なお爺のひとり言

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歴史・歴史の特別日

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   歴史の特別日 016
     建国記念の日

   2月11日は「建国記念の日」で祝日です。 
   その昔、「日本書紀」が伝える「神武天皇の即位日」として定めた祝日で、
   明治6年(1873)に「2月11日」と定められ、「紀元節」と命名された。 

   8世紀はじめに編まれた「日本書紀」によれば、
   神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮(日本書紀巻第三、神宮紀)」
   と正月朔日、すなわち1月1日。

   明治5年11月、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め、
   旧暦1月1日すなわち新暦1月29日を祝日と定めた。 
   このとき丁度、旧暦の明治5年12月3日をもって、新暦太陽暦の明治6年1月1日とする、
   新暦が施行されることになっていた。

   明治6年1月29日、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定め、
   同年1月には、「神武天皇即位日」と「天長節(天皇誕生日)」を祝日とする布告を出した。

   これより前、明治5年11月9日に太陽暦を施行する旨の太政官布告では、
   旧暦の月日を新暦の月日として施行するものと定めていた。 
   これは旧暦・新暦の月日の換算を容易にするためであった。

   ところが「紀元節」は旧暦1月1日すなわち旧正月を祝う祝日との誤解をもたれたため、
   国民の反応を見た政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であることの理解を広めるため、
   政府は明治6年10月新たに神武天皇即位日を定め直し、「2月11日を紀元節」とし、
   太政官布告をした。

   紀元節には宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遥拝式がおこなわれた。

   明治22年(1889)2月11日を期して大日本帝国憲法が発布。 
   これ以降憲法発布を記念する日にもなった。

   明治24年(1891)6月17日には文部省令第4号で、「小学校祝日大祭儀式規定」が定められ、
   「天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼」と「万歳奉祝」、
   校長による「教育勅語の奉読」などからなる儀式を小学校で行うことになった。

   大正3年(1914)から、全国の神社で「紀元節祭」が行われ、
   大正15年(1926)には在郷軍人会、青年団、を中心に建国祭行事が各地で行われた。 

   太平洋戦争終結後の昭和22年(1947)、片山内閣により
   日本国憲法にふさわしい祝日法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれたが、
   連合国軍総司令部GHQより削除されて昭和23年(1948)7月に施行。

   日本独立の昭和27年(1952)から復活運動がおき、
   昭和33年(1958)に国会への議案提出があり、
   昭和41年(1966)祝日法改正に基づき、佐藤栄作内閣により
   「建国記念の日」として再制定され、
   昭和42年(1967)2月に、「2月11日を建国記念の日」とすることを政令交付し、復活した。

   小学唱歌 紀元節    伊澤修二作曲 高崎正風作詞  1888年発表
     
     1、雲にそびゆる高千穂の 高根おろしに草も木も
          なびき伏しけん大御代を 仰ぐ今日こそ楽しけれ
     2、海原なせる埴安の 池の面よりなお広き
          恵みの波に浴みし世を 仰ぐ今日こそ楽しけれ 
     3、天津日嗣の高みくら 千代万代に動きなき
          もとい定めしそのかみを 仰ぐ今日こそ楽しけれ
     4、空に輝く日の本の よろずの国にたぐいなき
          国のみはしらたてし世を 仰ぐ今日こそ楽しけれ

   戦前戦中の昭和時代、小学校では次の「四大節」には式典があり、
   必ず出席することになっていました。
    1月1日「四方節」、2月11日「紀元節」、4月29日「天長節」、11月3日「明治節」
     関連記事に  歴史:歴史の特別日「昭和の日」があります。
       記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/7626588.html

   明治神宮外苑の聖徳記念絵画館と神宮第二野球場の中間に、建国記念文庫があります。 
   「建国記念の日」の制定に関する国民からの希望・意見書を保管した文庫。
     関連記事に 地域:江戸東京・山手15 建国記念文庫 があります。
       記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/22087057.html
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元号の制定

   歴史の特別日 015
   元号の制定

   元号の歴史は、645年『大化』から1989年『平成』まで、
   日本には247の元号が用いられている。

   中大兄皇子らが蘇我入鹿を誅し、蘇我蝦夷が自害して、専横をふるった蘇我本宗家が滅亡した
   「乙巳の変(いつしのへん)」で、孝徳天皇が即位して、中大兄が太子、阿倍内麻呂が左大臣、
   蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となり、わが国始めての元号『大化』を制定した。 
   これが「大化の改新」。

   『大化』の以前、例えば「推古12年」(604年)聖徳太子が「17条の憲法」を制定した、
   などの記録が「日本書紀」にあるが、在位する天皇の何年と言うことで、
   元号としては定かではないが、天皇を中心とした数え方をしていた。

   『大化』以後は、『天智』、『和銅』、『養老』、『天平』、『勝宝』・・・と続くが、
   やはり天皇を中心とした「元号」としては、かわりがないが、天皇の在位期間とは関係なく、
   転変地変・環境変化・飢饉・疫病などの様々の要素で改元されていたようである。

   明治になり、天皇の在位期間中はひとつの元号を使用し、
   皇位継承まで改元しない「一世一元の制」が決められた。 
   天皇中心の近代国家を目指した、明治新政府のイデオロギーを体現するのが目的であった。

   明治
   儒学者が出した案の中から、岩倉具視らが23に絞り、先代天皇の崩御から1年9ヶ月後の
   慶應4年(1868)9月7日、明治天皇が宮中で、籤引きで決めたと言う。
   出典は『周易』の「聖人南面して天下を聴き、明に向かいて治む」

   大正
   明治天皇が崩御した明治45年7月30日、西園寺公望首相が学者数人に提出させた
   「大正」、「天興(てんこう)」、「興化(こうか)」から、枢密院会議が『大正』に決定。
   出典は『易経』にある「大いに亨りてもって正しきは、天の道なり」

   昭和
   大正天皇が崩御した大正15年12月25日、枢密院会議に提出された諸案の中から、
   『昭和』に決定した。
   出典は『書経』にある 「百姓昭明 万邦協和」 から取ったもので、
   国民の幸福と平和を願う意味があると言う。

   平成
   昭和54年に成立した元号法により、改元の権限が皇室から内閣に移行した。 
   閣議決定による政令で公布された、初めての元号となった。 
   有識者による「元号に関する懇談会」なども行われたが、
   実質は保守派政治家の理論的支柱と言われた思想家・安岡正篤氏の判断が
   反映されたとされている。
   出典は『史記』の「内平らかに外成る」と、『書経』の「地平らかに天成る」
   歴史の特別日 014
   大正天皇崩御  大正から昭和に  
   大正15年(1926)12月25日  

   宮内省の杉琢磨・内蔵頭(くらのかみ)が、
   「天皇陛下には、今25日午前1時25分、葉山御用邸において崩御あらせられる」と、
   大正15年12月25日午前2時40分に発表。 
   大正天皇は、10月頃から気管支炎にかかり、体調を崩されていた。 御歳47歳。

   宮内省が、神奈川県葉山の御用邸にこもられていた天皇の「御不例(ごふれい=ご病気)」を
   発表したのは12月15日であった。

   崩御から2時間後、皇太子裕仁親王(25歳)が、
   葉山御用邸の御座所で「剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)」が行われた。 
   大正10年から摂政を務め、病弱な天皇に代わって公務を果たしてきた
   裕仁親王が「践祚(せんそ)」して、第124代の天皇につかれた。

   昭和2年2月7日、「御大喪」、 
   昭和3年11月10日、裕仁新天皇の「即位大礼式」 が行われた。

   崩御のニュースが伝わると、町は哀悼に包まれ、
   高島屋呉服展は「奉悼の意を表し、25日に謹んで休業仕候」と社告を新聞に掲載。  
   多くの市民が宮城前に詰めかけた。

   ところがその前、ご病状をめぐり葉山御用邸を舞台にした新聞社の激しい取材合戦は、
   特ダネを掴もうと、しのぎを削っていたが、崩御の報に一斉に配られた新聞号外の中で、
   ひときわ異彩を放つ新聞があった。 
   他社を圧倒する『特ダネ』を掲載した東京日日新聞であった 
   「元号制定に関しては、枢密院に御精詢あり同院において慎重審議の結果
   『光文』、『大治』、『弘文』等の諸案中左の如く決定するであろう『光文』」。

   崩御から約2時間後の午前3時半頃に発行された東京日日新聞の号外には、
   早くも新元号を『光文』と明言していた。 続いて「報知新聞」も『光文』と発表した。  
   ところがこのスクープ・特ダネは「元号誤報」騒動にと、発展したのであった。
   宮内省が「天皇御不例」を発表するや、新聞社は一斉に動きだした。 
   特に元号については、明治天皇崩御のとき、「東京朝日新聞」が「新元号を大正に決定」の
   特ダネを入手した。 「東京日日新聞」は特ダネ決戦で破れ、その積年の恨みを晴らす
   絶好の機会と捉えていた。 
   東京日日新聞は如何に「光文」スクープを入手したのか?? 
   「大正が改元されるとき『光文』か『天文』のどちらかに決定されると言う極秘情報が
   入っていた。  政治部辣腕記者の働きによるもので、その後、政治部長のもとに『光文』に
   決定すると言う情報がはいったのである。 (渡辺一雄「実録号外戦線」)
   東京日日新聞の号外に驚いたのが、厳戒態勢を敷く東京朝日新聞で、真偽を確かめるため
   葉山御用邸での枢密院の精査委員会を徹底的にマーク。 
   意外なことに、安達謙蔵・臨時代理大臣から「昭和だ」との返答を得た政治部記者は、
   「昭和」と書いたメモを握ってデスクに駆けつけ、その場に倒れこんだ。
   翌26日午前11時、政府は「大正15年12月25日以降を、改めて昭和元年となす」 
   との詔書を公布。
   この瞬間、東京日日新聞の社運を賭けた「世紀のスクープ」は、「元号誤報事件・幻の特ダネ」
   に一転した。
   東京日日新聞の本山彦一社長は激憤、翌2年1月15日の重役会でみずから辞表を提出。 
   責任問題で社内は紛糾したと言うことである。
   『昭和』に決った理由について、政府と宮内省が、東京日日新聞スクープの後、
   あわてて決定済みの「光文」を「昭和」に差し替えたと噂されるが、真相は未だ謎である。                          (日録20世紀 講談社)

   大正天皇は明治12年(1879)8月31日生まれ。 明治天皇の第3皇子で、母は柳原愛子。
   明治22年(1889)立太子。 33年(1900)九条節子〈貞明皇后〉と結婚。
   45年(1912)7月30日、明治天皇の崩御により皇位を継承。 
   大正4年(1915)、京都で即位礼
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   大正天皇の大喪儀の中心である「葬場殿の儀」は、昭和2年2月7日、新宿御苑で行われた。
   写真は皇居から御苑に向かう葬列。 沿道は50万の人で埋め尽くされた。  毎日新聞社
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   明治37年、沼津御用邸でのスナップ。 
   右から皇太子嘉仁殿下(大正天皇)、裕仁親王殿下(昭和天皇)、淳宮殿下〈秩父宮〉、侍従
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   天皇のご病気が発表され、葉山御用邸はあわただしさを増した。 
   写真は12月18日、参殿のため、逗子の養神亭を出発する大臣たち。
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   天皇崩御が伝えられた12月25日、街頭での喪章売り。 
   腕章は一本8銭から50銭が標準の値段だった。
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   天皇の崩御を伝える、大正15年12月25日付「東京日日新聞」号外。
   元号は『光文』と、はっきり書かれているが、スクープ合戦での元号誤報事件となった。
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   歴史の特別日 013
   昭和天皇崩御  昭和から平成に

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   87歳の誕生日を迎えられた昭和63年(1988)4月29日、皇居での一般参賀で。
   昭和天皇の在位は、戦前18年8ヶ月、戦後43年5ヶ月。

   昭和64年(1989)1月7日、午前7時55分、藤森宮内庁長官が
   「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において
    崩御あらせられました」と発表。 
   ここに昭和の時代が去り、平成の時代となった。
   天皇陛下は、昭和62年(1987)天皇誕生祝賀会で途中退席されて以後の容体の変化。 
   昭和63年9月19日、大量の吐血と下血をされ、111日もの闘病生活のなかで
   刻々と気力と体力が衰え、崩御あらせられた。 
   高木顕・侍医長は崩御から3時間後に「御容体書」を読みあげ
   「十二指腸乳頭周囲腫瘍」と発表。

   皇位継承の儀式、「剣璽等継承の儀」は、10時1分に始まり、10時5分に終了。
   その後政府は皇位継承にともない、午後2時1分から臨時閣議を開き、
   「平成」「修文」「正化」の三案から新元号を「平成」と決定した。

   1月7日、皇居・宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」 
   剣璽(剣と勾玉)と国璽を新天皇に伝達する儀式。
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   日本各地では天皇崩御に対して、様々な思いが駆けめぐり、昭和の時代を生きた、
   まさに国民の一人一人の表情は、複雑で万感こもごもであった。 
   天皇に忠節を尽くした人、天皇の加護を信じる老人などのショックを隠しきれない人々。
   対照的に天皇崩御に無関心な若者、年寄りと若者の表情は対照的であった。    
   まさに昭和はそこを通過した人々の、それぞれの立場で激動であり、
   過酷でもあった時代でもあった。 
   「天皇の戦争責任はあると思う」と市議会で発言、波紋を広げた本島等・長崎市長は、
   「御冥福をお祈りするだけ」と短いコメントを読みあげた。 
   一人一人の表情は複雑であった。

   1月7日、天皇崩御の報に接し、弔問記帳のため、皇居・坂下門に訪れた人々。  朝日新聞社
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   昭和天皇の「大喪の礼」は、平成元年(1989)2月24日に行われた。 
   朝から氷雨が降り続く寒い日であった。 
   警視庁は警官3万2千人を動員する厳戒態勢、学校は休校、商店も休業状態。 
   悪天候にもかかわらず、皇居から武蔵陵墓地まで沿道で葬列を見送った人々は
   57万人にものぼった。 
   東京・三宅坂にはブラジルから戻ったもと陸軍少尉・小野田寛郎さん(日本の敗戦・戦争終結を
   知らずに、フィリピンの山奥に、残留兵士として留まり、30年ぶりに発見され、「任務解除」
   命令で生還。 時代の隔絶による、価値観の相違に呆然とし、戦友を亡くし、自分だけ一人生還
   したことに、自らを攻め苦しみ、ブラジルに新天地を求めて牧場を経営。「小野田自然塾」を
   福島に設立、子供に自然に接する素晴らしさを教える。)の姿もあったとの事。

   大喪は神道の皇室儀式と国の儀式に分けて東京・新宿御苑で行われた。
   国の儀式であった「大喪の礼」には、163カ国、28国際機関代表ら、
   内外から1万人が参列。 
   1963年ケネディ大統領のときの75カ国、80年ユーゴスラビア・チトー大統領のときの
   121カ国を超す葬儀となった。 天皇のご遺体は夕刻、東京・八王子の武蔵陵に埋葬された。

   2月24日、「大喪の礼」の日、昭和天皇の柩を葱華輦(そうかれん)とよばれる
   輿に乗せてお運びする徒歩の列      朝日新聞社
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   「大喪の礼」にご参列の新天皇・皇后  朝日新聞社
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   昭和天皇の新陵「武蔵野陵」 東京都八王子市長房町にある。 
   武蔵野陵は大正天皇も葬られている。   共同通信社
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   「昭和天皇一周年祭」の平成2年(1990)1月7日、「武蔵野陵」墓前での皇后。 朝日新聞社
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   天皇崩御に関する各国の報道は、第2次世界大戦当事国の指導者として、
   また世界に誇る経済大国日本の天皇として、各国の反応は様々であった。
   アメリカ・ニューヨーク・タイムス誌は、「裕仁の病気が明らかにされたときの、
   あの感情の高まりを見ていると、皇室を取り巻く神秘のベールは相変わらず存在し、
   日本のデモクラシーはアメリカとは別種のルールによって動かされていることが判る」と
   天皇に対する日本人の特別な感情を紹介。
   イギリス・エコノミスト誌は、「日本が世界大戦に参戦したことは、日本人の愛国心を鼓舞した
   ばかりか、アジア人全体からも、にっくきヨーロッパ帝国主義への服従に、やっと終止符を
   打ったものとして、大いに歓迎されたし、実際そのとおりにアジアを隷属から解き放った」と
   昭和天皇への賛辞を表した。
   中国・人民日報は、「裕仁天皇は戦前、日本を統治する『現人神』で在位期間中に、
   日本は対中侵略戦争と太平洋戦争を起こした」と報道。
   韓国・中央日報は、社説で「韓民族に対するおびただしい罪科に究極的な責任を負わなければ
   ならない象徴的な人物。  真心から哀悼の意を表せないのを移管に思う」としながらも、
   「90年代以降の新時代を開く明仁・新天皇の承継を歓迎する」と
   日韓新時代への期待をも表明した。

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   東海道新幹線開業 (昭和39年10月1日)

   平成20年11月30日、この日をもって新幹線0系車両(新幹線開業当時の車両)が引退し、
   多くの人たちに見送られ、沢山の人たちに夢を与えた新幹線0系車両が、
   静かにホームから姿を消した。

   高度経済成長の真っただ中、日本の力を世界に示す絶好の機会となる東京オリンピック開催まで
   あと9日に迫った昭和39年10月1日。  国鉄が3800億円の工費を投じ、
   最新技術を結集して作り上げた、世界最速の「夢の超特急・東海道新幹線」が営業を開始した。

   開業当日、東京駅と新大阪駅で出発式が行われ、定刻午前6時、「ひかり1号」が東京駅を、
   「ひかり2号」が新大阪駅をすべるように出発した。

   当時、営業速度の世界最速は、フランス「ミストラル号」と西ドイツ「ラインゴルド号」が
   記録した自足160km。  
   「ひかり1号」は小田原付近で時速170kmをマークし、東京―新大阪間515kmを
   4時間で突っ走り、大量・高速輸送時代が到来。 
   翌昭和40年11月1日からは3時間10分に短縮された。 
   更に現在の「のぞみ」では、2時間30分である。

   新幹線開業以前は、東海道本線在来線で東京―大阪間は特急「ツバメ」が、
   列車形式の35年頃まで8時間、その後電車形式になって7時間かかっていた。    
   急行で9,10時間、鈍行で12時間であった。

   東海道新幹線建設の構想は、戦時体制中の昭和14年、鉄道大臣の諮問機関「鉄道幹線調査会」が、
   東京―下関間を9時間以内で結ぶ「弾丸列車」構想を答申し、東海道本線に別線で
   国際標準軌間1435mmの高速新線を建設するという構想であった。 
   一部の工事が着工されたが、戦争激化で昭和18年に工事中断。
   戦後、高度経済成長期に入り、輸送需要の拡大に対応するため、
   幻の弾丸列車構想が蘇ったのである。

   昭和32年8月30日「日本国有鉄道幹線調査会」が設立され、
   11月「東海道に新規路線を緊急に建設する必要がある」と運輸大臣に答申、
   5年で東海道新幹線を実現すると言う計画がスタート、
   昭和34年4月20日新丹那トンネル東口で起工式が行われた。 
   弾丸列車構想から4半世紀、着工から僅か5年半で東海道新幹線は開業した。

   当時の技術でも、速く走るだけなら時速500kmを出せるが、安全性に万全を期し、
   輸送力確保するための適正なスピードが必要。 
   そのため安全を確保できる本数と、集中的に制御する運行管理システム構想を導入、
   新幹線運行に当たって、世界に誇るハイレベルな集中管理コンピュータ・システムを開発した。
   また速く走ると振動が大きくなり、この振動の制御が新幹線最大の問題点であったが、
   かつて戦時中世界最優秀戦闘機「零戦」の開発にたずさわった技術者の協力で、克服したのであった。 
   また、線路上の異物排除、振動対策、通気気密性保持、ATC自動列車制御装置、
   CTC列車集中管理制御装置など、技術の粋を集めた新幹線であったが、   
   当初はトラブルが頻発。 軌道に乗ったのは操業開始から1ヵ月後であった。

   新幹線開業当時は、まだ利用客も少なかったという。 
   開業当日の東京駅始発の乗客数は、730人余だったという。

   新幹線の実現は、東京と大阪間のビジネスが日帰り可能となりスピードアップしたが、
   反面ビジネス出張宿泊という楽しみが奪われたのである。

   新幹線開業と同時に、昭和39年9月5日には、名神高速道路が全線開通し、
   その後のモータリゼーションの幕開けとなった。 
   戦前に、これも東京―神戸間に「弾丸道路」構想があり、戦争により立ち消えとなっていた。
   戦後、道路改良の立ち遅れを解消すべく、「弾丸道路」構想が実現した。
   このあと東名高速道路が昭和44年に完成するのである。

   更に、この年の昭和39年には、東京首都高速道路開通、東京地下鉄開通、
   東京都心―羽田空港を結ぶ東京モノレール開通など、オリンピックに向けた交通網の近代化が
   一気に進み、急ピッチで距離と時間が短縮され、人々の暮らしも大きく変わってゆくことになった。

   前回お話したように、東京オリンピックは、日本は開催決定から、準備期間の7年間、
   オリンピック関連投資額は実に一兆円を超え、
   諸外国では30億ドル(為替レート・1ドル=360円)のオリンピックと驚嘆した。 
   だがその8割は新幹線、高速道路、地下鉄などの交通網の整備にあてられ、
   先進国の仲間入りを果たしたことをアピールすると共に首都圏の交通網の過密化を
   この際打開するのが、国家目的とされたこの目的を達成したのである。

   東海道線関連の輸送力も38%アップし、人と物の大量・高速輸送が可能となった。
   その後、高速道路の交通量は飛躍的に増大する。 
   同時に、輸送の主役は、鉄道からトラックへと移り、そして庶民の足としての鉄道も
   マイカーの普及と共に次第に低下していった。 
   全国鉄マンの夢、超特急の実現が開いた新しい時代は、
   皮肉にも国鉄の凋落をも招くこととなってしまった。

   昭和37年6月26日、神奈川県大磯―鴨宮間の「モデル線」で、
   試運転の運転台から手を振る十河信二・国鉄総裁。   (朝日新聞)
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   新幹線と名神高速道路が入り組んで曲線模様を描く、彦根インターチェンジ付近。
   走っているのは、試験走行中の超特急。  新幹線も高速道路も開業前の撮影。 (朝日新聞)
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