なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

歴史・歴史の特別日

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  遂に人類が月の表面に立った!!!
     1969年7月20日午後10時56分 (アメリカ東部夏時間) 
     日本時間 昭和44年7月21日午前11時56分

   アメリカ宇宙船『アポロ11号』の月面着陸船「イーグル」から船長アームストロングが
      月面に降り立ち、月への第一歩を踏み出した。
   人類が始めて地球以外の天体に足跡を印した、決定的瞬間。


   1969年7月16日午前9時32分   
     『アポロ11号』 フロリダ州ケープ・カナベラルのケネディ宇宙センターから打ち上げ。
     『アポロ11号』の3宇宙飛行士
        アポロ宇宙船々長  ニール・アームストロング(38)  
        月着陸船「イーグル」乗員  エドウィン・オルドリン(39)
        月軌道上で待機する司令船「コロンビア」乗員  マイケル・コリンズ(39)
     アポロ宇宙船を乗せた全長110mのサターン5型ロケットが、
     オレンジ色の炎を吐きながら、抜けるようなフロリダの青空の中に吸い込まれてゆく。
     全米から集まった100万人の群集が、この旅立ちを見送った。

   1969年7月20日          『アポロ11号』 月の周回軌道に入る。 
     午後4時5分
       月着陸船「イーグル」 下降のためのエンジン噴射 月面高度 14km。
       ケネディ宇宙センターに衝撃と緊張はしる。
          高度2000m付近でコンピュータ処理速度が事態進行処理に追従不能となり、
          着陸続行か中止かの判断をせまられたが、若手コンピュータ技師が「ゴー」サイン
     午後4時16分
       ケネディ宇宙センターに、またも衝撃と緊張はしる
         月面の地形が予想外に複雑で、燃料切れ60秒前でも
         高度10mで着陸地点探索飛行し、時間が掛かりすぎて着陸時に16秒分の残燃料
     午後4時17分42秒  「静かの海」西端に着陸。

   世界中が目撃した人類史上初の壮挙

   1969年7月20日午後10時51分
     6時間あまり後、「イーグル」のハッチがついに開けられた。
     アームストロングが「イーグル」の出入り口に立ち、
     オルドリンのテレビカメラが回り始める。  
     アームストロングが注意深く梯子を降り、着地も慎重だった。 
     先ず左足を下ろし、もぐらないことを確認してから右足を下ろし、
     更に両手を梯子から離して一歩を踏み出した。

   1969年7月20日午後10時56分
     「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」
という言葉が、世界中に伝えられたのはこの時である。  
       日本時間では7月21日午前11時56分。

       計画では、アームストロングとオルドリンは月面到着後、
       4時間の睡眠と2回の食事を取った後に、
       船外活動の準備をはじめることになっていたが、
       予定は約5時間繰り上げられた。
       この模様をオルドリンは、著書で次のように述べている。
       「我々はたったいま月面に着陸したばかりで、体内にはまだ沢山のアドレナリンが流れ
       興奮していた。 船外活動の前に睡眠をとれと言うことは、
       子供にクリスマスの朝に正午までベットに入っていろと言うのに等しかった。」
         (「地球から来た男」鈴木健次・古賀林幸訳)

     アームストロング、オルドリンの両宇宙飛行士は、重力が地球の六分の一という月の表面を
     カンガルーのように飛び跳ねながら動きまわった。 
     活動時間は約2時間半、地震計、太陽風観測装置などを据付け、
     岩石の採集や写真撮影を行って「イーグル」に戻った。

        この、『アポロ11号』の月面着陸と、それに続く月面活動は、
        世界中にテレビで同時放映された。
        そしてアポロ管制室とアポロ宇宙船の宇宙飛行士たちとのやり取りが、
        同時通訳によって伝えられた。
        この世紀の場面を同時通訳した村松増美氏は、その時のことを、
        「とにかく、歴史的な一瞬に立ち会ったということで、非常に高揚しましたね」と
        語っている。
        通訳に失敗はなかったが、時々通訳不能なやり取りが、
        ヒューストンと飛行士との間で交わされ事もあったという。 
        「何か暗号のようなもので、通訳にしようがなく、沈黙するしかありませんでした」と、
        氏は当時を振り返る。

   1969年7月21日午後1時55分
      「イーグル」は司令船「コロンビア」とドッキング、乗員が移乗。

   1969年7月24日午後0時50分
      中部太平洋に無事着水し、地球に帰還。
      地球を飛び立ってから  8日3時間余り 後の帰還だった。

イメージ 1

     月面を歩くオルドリン飛行士。 
     撮影者のアームストロング船長と月着陸船が、ヘルメットのバイザーに映っている。
        NASA/SCIENCE PHOT LIBRARY/PPS   日録20世紀 講談社

イメージ 2

     月面活動を終えて上昇、ドッキングのため司令船「コロンビア」に接近する
     月着陸船「イーグル」。  地平線に半分に欠けた地球が見える。
        NASA/SCIENCE PHOT LIBRARY/PPS   日録20世紀 講談社

イメージ 3

     月面活動中のオルドリン飛行士。 右上に月着陸船「イーグル」、中央に地震計が見える。
     地震計の後方にアメリカ国旗、
     その左に小さく見えるのが月面活動を記録したテレビカメラ。
        NASA/SCIENCE PHOT LIBRARY/PPS    日録20世紀 講談社

イメージ 4

     地球への帰還後、隔離室でニクソン大統領と会見する3宇宙飛行士。
        日録20世紀 講談社

イメージ 5

     8月13日、ブロードウェイで盛大な歓迎を受ける、
     左からコリンズ、オルドリン、アームストロングの3飛行士。   
        WWP    日録20世紀 講談社

イメージ 6

     1961年5月、「アメリカは1960年代末までに人類を月へ送る」と
     演説するケネディ大統領。         WWP    日録20世紀 講談社

イメージ 7

     「アポロ11号」が持ち帰った「月の石」
     東京・上野の 国立科学博物館が特別展で公開。 
     昭和44(1969)年11月26日
     ゴルフボール大で、初めて月に立ったアメリカ宇宙飛行士が「静かの海」で採取。
         日録20世紀 講談社

  '''太平洋戦争の中の「沖縄戦」'''

  1945年、昭和20年6月23日は、「沖縄戦終結の日」とされています。
  物量に物を言わせた、米軍の艦砲爆撃の激しさは、「鉄の暴風」といわれるほどに、
  熾烈をきわめた 沖縄地上戦 は、米軍戦史でさえ、
  「ありったけの地獄を、一箇所にまとめたような戦闘」と記したほどの 
  壮絶悲惨な攻防戦 でした。 
  沖縄戦の次に来るのは、日本本土での決戦で、帝国陸軍は沖縄作戦の最中にも、
  本土決戦の準備を進め、 「軍民一体の戦闘」 を想定し 「国民義勇兵役法」 を、
  この日6月23日に公布したのである。

  昭和20年3月、西太平洋を制圧した米軍は、大小空母40隻、戦艦18隻、船舶1450隻を
  沖縄周辺 に展開、 沖縄全島 は3月23日より猛烈な空襲と艦砲射撃にさらされ、
  26日 慶良間諸島 に上陸占領し、米攻略軍の補給基地が確保され、
  4月1日から 沖縄本島 に上陸作戦を開始した。 
  米軍地上戦闘部隊18万3千、補給部隊を併せると延べ54万人の大部隊であった。 
  迎える 沖縄守備軍10万、しかし3分の1は 防衛隊、学徒隊、現地召集の補助兵力に
  すぎなかったので、首里の主力陣地に留まり、息をひそめ無血上陸を許した。 
  8日頃からの首里攻防戦は熾烈を極めた。
  米軍は海と陸から砲弾の雨を注ぎ、戦車を先頭に歩兵部隊が突撃、火焔戦車と爆雷とガス弾で、
  日本軍が立てこもる地下壕を一つ一つ潰していった。 
  これに対する守備軍は、夜間の斬り込みと爆雷を抱いての肉弾戦法で、
  一進一退の攻防戦は40日以上に及んだが、5月下旬日本の主力部隊は壊滅したのである。 
  首里陥落が目前に迫った5月22日、軍司令部は喜屋武半島への退却作戦を決定したが、
  既に弾薬も兵器も食糧もなく、本格的な戦闘を続ける力は残されていなかった。 
  喜屋武・摩文仁の自然洞窟に立てこもり、最後の一兵になるまで抵抗する出血作戦に出て、
  ここに沖縄戦で最も悲惨な、一般住民を巻き込む地獄絵が繰り広げられることとなった。 
  6月6日小禄地区の海軍飛行場が占領され、大田海軍司令官は、海軍次官当てに、
  訣別電報で、 戦況報告し、
  最後に「沖縄県民斯ク戦ヘリ。 島民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ワランコトヲ」と
  打電し自決した。   
  洞窟にたてこもる兵隊と避難民は、米軍の攻撃にさらされ、火焔放射器や爆雷ガス弾により、
  穴の中で焼き殺され、修羅場の殺戮戦は一ヶ月におよんだ。
  6月23日牛島陸軍司令官の自決したことで、日本軍の組織的戦闘は終結した。 
  しかし、その後掃討戦は続き、米軍の沖縄戦終結宣言は7月2日であった。 

  さきの3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸するや、鹿児島県知覧・鹿屋両基地から、
  海軍機500機、陸軍機150機を投入して、 沖縄本島 への菊水作戦「神風」で、
  片道燃料の航空肉弾戦の、特攻出撃を行った。 所謂、「神風特攻隊」である。
  これに呼応すべく戦艦「大和」は、呉軍港を29日出港、三田尻沖に仮泊して最終実戦訓練をし、
  4月5日に出撃命令を受けて、沖縄本島の浅瀬に乗り上げて、不沈の砲台と成るべく、
  これまた片道燃料の「特攻出撃」であった。 
  戦艦「大和」は味方の護衛戦闘機はなく、遂に4月7日、奄美大島西方通過中に、
  米軍攻撃戦闘機 数百機の波状攻撃を受けて、あえなく轟沈。



  その後、米軍に占領された沖縄は、軍政が敷かれ、昭和21年4月24日米軍政の基に、
  沖縄民政府が設立され、そして昭和27年4月1日琉球政府発足した。
  昭和47年5月15日、ようやく日本に復帰したが、嘉手納基地は恒久基地化。


  摩文仁(まぶに)の丘の平和記念公園には、
  沖縄戦で散った軍人・軍属・県民の慰霊碑が建てられている。    
  慰霊碑は各県別に沖縄戦で散った軍人・軍属全員の氏名が刻まれているが、
  中でも沖縄県は、軍人・軍属の他一般県民の氏名が刻まれ、その数はおびただしい。
  沖縄出身の軍人・軍属のなかには、防衛隊、学徒隊、義勇隊など
  一般県民からの義勇兵が含まれている。 
  戦死者その数、正規軍人65908名、沖縄出身軍属28228名、戦闘参加者55246名、
  一般住民38754名、  米軍側12520名 という尊い命が失われたのである。
  摩文仁の丘の、県立平和祈念資料館には、沖縄戦の数々の資料と、歴史的教訓が残されている。
  沖縄戦の最大の犠牲者は住民であり、正規軍人より一般住人の犠牲がはるかに多い。 
  戦争の悲劇は、戦死者の数だけではなく、かろうじて生き残った者も、
  心に生涯癒すことの出来ない、大きな傷を残した。 
  3ヶ月も戦場をさまよい、人間性にも異常をきたし、敵兵よりも砲弾よりも恐ろしい、
  親が子を殺し、集団自決を強いられ、日本兵が住民を虐殺すると言う極限状態の、
  狂気の地獄絵を見てしまったことである。  
  「投降勧告ビラ」が何十万枚もばら撒かれたが、信じる人もなく、
  ビラを持っているだけでスパイの嫌疑がかけられるという、
  極限状態で島の最南端まで追い詰められ、生死の岐路に立たされ、自決する者、
  百に一つの望みをかけ投降する者。

  展示会場のむすびに、  
     沖縄戦の実相にふれるたびに  戦争というものは
     これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない と思うのです
     このなまなましい体験の前では  いかなる人でも
     戦争を肯定し美化することは できないはずです
     戦争を起こすのは たしかに 人間です  しかし それ以上に
     戦争を許さない努力のできるのも  私たち 人間 ではないでしょうか
     これが  あまりにも大きすぎた代償を払って得た
     ゆずることのできない  私たちの信条なのです

  風光明媚な南の島にも、このような悲劇があったのです。  
  沖縄のことわざに、
  「意地ぬ出(いじ)ら手ひき、手ぬ出(いじ)ら意地ひき」 争いをいましめた言葉という。 
  争いを好まず、「守禮の邦」と言われ、誇りにする県民である。



    那覇空港周辺の小禄地区は海軍根拠地隊約一万が守備についたが、
    圧倒的な米軍の前についえ去った。  
    司令官太田実少将は、昭和20年(1945)6月13日、豊見城村の司令部壕で自決した。  
    大田少将は6日夜、海軍次官あて、次のような訣別電文を打った。
    (原文のまま。・・・・部分は不詳)

   「左ノ伝ヲ次官ニ御通報方取計得度
    沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既ニ通信力ナク
    第三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 
    本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレトモ現状ヲ看過スルニ忍ヒス 
    之ニ代ッテ緊急御通知申上ク 沖縄島ニ敵攻撃ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ 
    県民ニ関シテハ殆ト顧ミル暇ナカリキ 然レトモ本職ノ知レル範囲ニ於イテハ 
    県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ケ 残ル老幼婦女子ノミカ相ツク砲爆撃ニ家屋ト
    財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 
    尚 砲爆撃下・・・・
    風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンシアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 
    看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 
    所詮敵来タリナハ老人子供ハ殺サレヘク 婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ
    毒牙ニ供セラルヘシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 
    看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
    真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノト思ハレス 
    更ニ軍ニ於イテ作戦ノ大転換アルヤ自給自足 夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ
    指定セラレ 輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 
    之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕 
    物資節約ヲ強要セラレテ御奉公ノ・・・・ ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ・・・・コトナクシテ
    本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形・・・・
    一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂ウ 
    沖縄県民斯ク戦ヘリ
    県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ランコトヲ」

GHQ指令

GHQ指令(General Head Quarters)

無条件降伏した「大日本帝国」の占領を、
マッカーサー総司令官率いる連合国軍隊が、
東京・日比谷に総司令部 General Head Quarters を設置し、
占領政策指令を次々に発した。

これは、丁度先のイラク戦争終結時の情勢と同じであり、
当時のイラク・フセイン大統領の立場が、
昭和天皇の立場であった。 
即ち、第2次世界大戦(太平洋戦争)開戦を布告した戦争責任者であり、
世界から天皇の戦争責任論が問われていた。

このような時
昭和20年(1945年)10月11日に「五大改革指令」という、
「GHQ指令」が発せられた。
  完全な男女同権と婦人の解放
  労働者の団結と組織の助長
  教育の自由主義化
  圧政諸制度の撤廃
  経済の民主化
これ以降、「五大改革指令」に沿った民主化政策が遂行される。

男尊女卑の風習、家父長制の家族制度、
国家主義的軍国主義からの解放 が急務であるとする第一項である。

これにより婦人参政権獲得の運動が展開し、
12月17日衆議院選挙法が改正され、
昭和21年(1946年)4月10日の選挙に、
婦人有権者2055万人が初の選挙権を行使し、
39名の婦人代議士を誕生させた。

裏話   そのとき、婦人の地位向上が一気に高まり、
今まで「おカミさん」「内のヤマのカミが、・・」と云われ、
一定の地位が得られていたのだが、
このときから「内のマッカーサーが、・・・」(流行語)と,
家庭内で地位と権力を一気に獲得したのである。

むかーーし、むかしのお話  第4話  
次回は教育改革についてお話します

降伏文書調印式

降伏文書調印式

昭和20年〈1945年〉9月2日午前 東京湾上 米戦艦ミズーリ号 上で、
「大日本帝国」は、連合国(アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、 オランダ、ニュージーランドの9カ国)に対し、降伏文書に調印した。

この日は、中学4年(旧制度)2学期の始まりだったと記憶している。
 東京立川の陸軍飛行部隊(現米軍ジョンソン基地)に「学徒勤労動員」され、
 8月15日の終戦をむかえ、とりあえず、9月1日まで自宅待機休校と言う事で、 
 9月1日を迎え1年9ヶ月振りの、学業復帰であった。

しかし、9月2日の降伏文書の調印式は、国民の今後がどうなるのか、最大の関心事であり、
 我々の未来に 夢と希望 があるのか、不安と心配の一日であったと、記憶している。

お話は前後するが、昭和18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定された。
 9月には大学生の「徴兵猶予撤廃」、ここに国民の20歳以上の全ての青年が、
 戦地に向けて出陣していった。 
 20歳に満たぬ者は、国のためにと、陸海軍の志願兵に、進んで志願したのだ。

では当時の中学生はというと、
 「学徒勤労動員令」により、飛行機・戦車・兵器・弾薬等製造の軍需工場や、
  軍服・落下傘製造の被服工場や、 都市防災地帯建設の強制家屋取り壊し作業、
  その他もろもろの作業に動員され、戦場に動員された人たちの補充として、徴用されたのである。

私も18年12月(中学2年生)から、学業を放棄して、工場に動員され、
 20年5月〈中学4年生〉空襲により職場が消失、それまでそこに動員されていた。
 そして次の動員先が、陸軍飛行部隊であった。
 動員の目的が「本土決戦に備え、食料確保のための開墾」。
 飛行場であったから毎日、アメリカ空母艦載機の空襲で、開墾などとても出来る状況ではない。
 そのような状況を、陸軍上層部は承知であったと思うが、
 我々の「学徒動員」がなぜ「飛行部隊」であったのか、
 本土決戦に備える、他の目的があったのではないか、
 とにかく全ての事は、不明である。

こんなことがあったなんて、想像出来ますか?
むかーーし、むかしのお話  第3話

憲法記念日

憲法記念日

5月3日は憲法記念日です。
昭和21年11月3日公布  昭和22年5月3日施行
ここに「大日本帝国憲法」いわゆる「明治憲法」は、「日本国憲法」として、スタートした。

昭和20年8月15日、大日本帝国は、米・英・仏・露・支那(中国)・蘭などの連合国に対して、
ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。

8月17日、皇族の東久邇宮内閣が成立。
これは、降伏に対して不満を抱く、軍の一部を抑えるためときく。 
その時、まだ存続している、帝国軍隊を平和裏に解体するには、政治家や軍人では難しかったのである。

アメリカの進駐軍第一陣が、厚木飛行場に8月28日、
そして8月30日にマッカーサー総司令官が厚木飛行場に降り立ち、
ここに「アメリカによる日本の統治」が始まった。

東京・日比谷・第一生命ビルに『GHQ』が置かれ、直ちに,矢継ぎ早に、次々と,
「GHQ指令」が発せられた。 

当初、日本の抵抗が激しいと予想し、軍政を敷く構想だったが、スムーズに戦争終結に向かったので、日本政府と行政機構を残して、「間接統治方式」がとられた。

連合国とはいうものの、実質アメリカ単独だったので、GHQ政策はアメリカ主導で進められた。
日本が再びアメリカの脅威にならぬようにするのが、アメリカの狙いであった。

軍政だったら、今のイラクの様に日本が激しく抵抗していたら、
ソ連がもっと強行に干渉していたら「ソ連の北海道統治」は現実のものであったこと、
そして「ソ連の東北地方分割統治」も、
現実に「ソ連の38度線以北の朝鮮分割統治」は今の「北朝鮮」を生み出した、
などなど今考えると、日本のその後の歴史が、
大きく変わっていた可能性があり、非常にラッキーな方向に、流れて来たのだと、今は考えている。 

その後世界では、沢山の戦争や紛争が起こり、平和には程遠い世界となっている。
そしてその度に弱者が犠牲になっている。 
その後の歴史が如実に物語っているのである。

その中で、唯一、日本は戦争をしたことが無く、世界に誇れる国なのである。

むかーーし、むかしのお話  第2話  続きはまた明日

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