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川口市安行と新郷、その周辺 14 安行原の密蔵院と九重神社 関東の英雄・平将門は上洛の折、守り本尊である地蔵菩薩像をこの地に奉安した。 これが密蔵院の開基であり、寺紋を平将門の家紋、北斗七星を象った「九曜星」の紋章とした。 延命地蔵菩薩像は、平安時代藤原期に造られ、慈覚大師円仁の作と伝えられる。 文明元年(1469)に永海法印によって中興され、明治まで京都醍醐寺無量寿院の末として、 本寺の寺格と御朱印十一石、38ヶ寺の末寺をもつ川口、浦和、草加、越谷、大宮などの 各寺院に影響をもたらした古刹である。 平将門の供養塔は本堂裏手に祀られている。 密蔵院の参道の入り口は、「県道103吉場安行東京線」の 川口市安行支所、安行小学校裏手にあり、鬱蒼と茂る自然の森の中にある。 真言宗智山派・海寿山密蔵院入り口 真言宗智山派・海寿山密蔵院山門 明治13年に30代住職三池照鳳大僧正によって、 「薩摩藩島津家江戸中屋敷」の「中門」を移築したものである。 「島津家江戸屋敷」は、「上屋敷」を芝三田(港区芝5丁目NEC敷地内)に、 「中屋敷」を外桜田(千代田区内幸町帝国ホテル付近)に、 「下屋敷」を芝高輪南町(港区高輪3丁目ホテルパシフィック敷地内)に、 「蔵屋敷」を芝田町海岸脇(港区芝4丁目)に有していた。 当時「中屋敷」の門はどれも「黒門」であったという。 中屋敷は薩摩藩主が江戸に下向した時必ず使用した所である。 中屋敷正面の「大門」は黒門の代表的構築物として、国宝指定されていたが、 昭和20年の空襲で焼失したので、「中屋敷」の遺構中、現在確認できるのは、 この山門のみであり、貴重な文化財である。 真言宗智山派・海寿山密蔵院本堂 真言宗祖・弘法大師立像 真言宗中興の祖・興教大師立像 真言宗智山派・海寿山密蔵院本堂前庭と鐘楼 真言宗智山派・海寿山密蔵院不動堂 真言宗智山派・海寿山密蔵院、不動堂、大黒天堂、鐘楼の各伽藍。 安行原の村社・九重神社 村社・九重神社は密蔵院の脇にある。 密蔵院の墓地を歩いていたら、九重神社の境内に来てしまった。 村社・九重神社は石段を25段ばかり登ったところに境内があり、正面に拝殿がある。 境内には御神木、スダジィの巨木があり、市指定の保存樹木になっている。 拝殿裏手は、安行で一番高い場所で、御嶽山、八海山、三笠山を御祭りして、 村の聖地としている。 拝殿の賽銭箱の脇に色々のおみくじ、風水ダルマおみくじ、招き猫おみくじ、 天然石おみくじなどが並べられており、参拝者が多いとみえて、 沢山の絵馬やおみくじが結び付けられていた。 |
散策・埼玉 川口
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川口市安行と新郷、その周辺 13 安行吉岡の金剛寺 金剛寺は曹洞宗の寺で、室町時代明応5年(1496)にこの地を支配していた 豪族・中田安斉入道安行が金剛経を信奉し、開基し寺名の由来と伝えられる。 戦乱の世に多くの人を殺傷し、その罪業に苦しみ、禅僧に出会い草庵を結び供養して、 救われたという。 この寺はかっては僧侶修行道場の格式を持ち、三代将軍家光より御朱印十石を賜り、 門派は十数ヶ寺に及んだが、現在では「お灸の寺」として知られる。 この墓地には、「安行植木開発の祖」と知られている、吉田権之丞の墓がある。 吉田権之丞の人なりについては文献資料がないのではっきりしないが、言い伝えによれば、 草花、盆栽の趣味を持ち、珍しい草木を集めて栽培すると、土質・風土が適合し 生育が良かったので、苗木の育成に当たったという。 子孫は現在も安行で植木業を営んでいる。 参道の途中に経塚がある。 川口の地にとって、中世の文化を今に伝える、数少ない文化遺産で、川口市指定文化財に登録。 仏教には正・像・末の三時(法)の教法変遷の考え方があり、 正法は仏の教法によって修行し証果を得るものがある期間を言い、 証のない期間を像法、教法のみがあって戒学行証のない期間を末法という。 そこで末法に生きる者は後世に弥勒菩薩の再現を願って、経文を書写し、供養して 地中に埋納したものを、経塚といっている。 経塚を作ることは末法到来による弥勒信仰であるが、極楽往生のために造ることも多くあった。 時代と共に、冥福祈願、追善供養のためにも築かれることも行われていた。 平安時代に始まり、鎌倉・室町時代に盛行し、江戸時代まで続いた。 金剛寺全望 金剛寺山門は400年位前に構築されたもので、桃山様式を取り入れた四足門で、 川口市内最古の棟門である。 金剛寺本堂 金剛寺本堂 金剛寺本堂より山門、鐘楼を望む 金剛寺脇の道より、庫裡生垣、通用門、黒板塀、山門、鐘楼を望む。 見事なキャラボクの巨木、川口指定の保存樹木 安行原の蛇造りと地蔵さん 毎年5月24日に五穀豊穣・天下泰平・無病息災などを祈願するため、 長さ10mの大蛇を造る祭りが行われる。 午後3時ごろ銅鑼の合図に、安行原の清水、半縄、向原、中郷の部落民が藁を持ち集まる。 一年間ケヤキの大木に付けられていた大蛇をおろし、全員協力して同じ大蛇を造り上げてゆく。 大蛇の頭部は木の枝で形作り、藁を編み合わせて大蛇の口と頭をしっかり着け、 口の中には舌を着け、密蔵院の住職によって書かれた祈祷文をしっかり結びつけ、 耳、鼻、ひげ等を順次編みこみ、大蛇の頭が出来上がる。 次に、胴は藁をねじりながら三つ編に10mばかりの長さにつくり、 頭と組み合わせて大蛇造りは終わる。 出来上がった大蛇は、大ケヤキの又に頭を載せ、胴を幹に撒きつけ安置し、 「百万遍の行事」を行って、祭りは終わる。 この地蔵さんはこの行事と村人達を、ズーっと温かく見守ってきたと言う。 |
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川口市安行と新郷、その周辺 12 周光山勝林院源長寺 周光山勝林院源長寺は赤山陣屋址から首都高速道路川口線を挟んで、その向かい側にある。 県道越谷鳩ヶ谷線を走る国際興業バスの新井宿入口バス停から北に一直線に入った所に在る。 源長寺縁起によると、 「関東郡代・伊奈半左衛門忠次公の居城に近い赤山に在った古寺を再興して、 伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、 両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の円誉上人を特請して開山した。元和4年(1618)であった。 その後寄進を受けた五十石の広大な寺領と、寺域を整え、諸堂を建てて江戸初期から 中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とした。 しかし大檀那 伊奈氏の十代忠尊のとき改易され、代々の所領は没収され 赤山の館は解体を強いられ、経済的失調が決定的に成った。 これに伴い源長寺は衰退し、諸堂にも朽廃が目立ち、営繕も伊奈氏の経済不如意から放任され、 大伽藍の維持に困窮し、縮少して難局を越えてきた。 江戸中期以降明治にかけて、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者もあって 窮状が加速、広大な寺領も次第に蚕食され、多くの寺領を失ってしまった。 僅かに残った農地も、終戦後の農地改革政令に従い、全て手放し、 境内墓地の寺域が残ったに過ぎなかった。 この難局にも本尊・阿弥陀如来は無事であったことは幸いであった」 と記されている。 本尊・阿弥陀如来は藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、 川口市指定文化財に登録された。 この寺は非常に丁寧な解説案内板が随所に設けられていた。 今まで気付かなかった事、知らなかったことが記されてあり、大変勉強になった。 訪ねる前に、事前に知識を持って行くべきだが、つい智識なしで行くことが多いので、 このような解説案内板は非常に参考になる。 お寺の厚意に謝して、ここに転載する次第です。 白塀に囲まれて、周光山勝林院源長寺の入口はあった。 正面本堂
市指定の保存樹木である高いヒマラヤスギの奥に本堂はあった。 大檀那 伊奈氏の滅亡で衰退荒廃し、檀家の離散相次ぐ中、ようやく昭和中期に、 雨露をしのぐのみの茅葺本堂の再建を決意し、 昭和63年完成法要を営むことが出来たという周光山勝林院源長寺本堂。 本堂前の法念上人尊像と前庭。 法然上人は長承2年(1133)岡山美作に生まれ、父は土地の豪族だあったが、夜討殺害され 一家離散せるも、父の遺言「汝、敵人を恨むなかれ。 静世の宿業だある。 出家してわが菩提を弔い、自らの悟りを求むよ」と仇討ちを戒めた父の遺言で出家した。 比叡山に入り、皇円・叡空に師事、43歳のとき専修念仏に帰し、 東山吉水で浄土法門を説いた。 貴賎の帰依者の増加に伴い、旧来の仏教の迫害を受け、 建永元年(1206)念仏宗停止が宣下され、四国讃岐に流されたが、 建暦元年(1211)許されて帰洛したとき79歳。 翌年長旅の疲れに病の床に就き80歳の生涯を、大谷の禅坊(現・知恩院)で閉じた。 釈迦涅槃像 本像製作者・関戸三郎氏は新構造社に在って、多くの秀作を創り活躍中。 この涅槃像は、仏縁に帰依仏心、一年有余丹精を傾け製作し、 納入開眼に先だち、東京都立上野美術館にて、第68回新構造展に出品、 文部大臣奨励賞を受賞し、二十日間の一般公開で多くの入場者の鑑賞を受けた。 人間の尊厳が希薄になった現代、ご詠歌の深い心を考えるときだと思います。 板碑・板石塔婆は板佛・青石塔婆と呼ばれる、全国的に分布し、関東に多く見られる。 |
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川口市安行と新郷、その周辺 11 赤山陣屋址と山王神社 赤山陣屋址は東京外郭環状自動車道路と首都高速道路川口線と県道越谷鳩ヶ谷線に挟まれた、
川口・安行の丘陵地にある。 赤山陣屋は、徳川家康が関東入国に伴い、鴻巣、小室領一万石を与えられた伊奈氏が、 居城した所である。 伊奈氏は熊蔵忠次以降12代にわたって関東郡代職に在り、関八州の幕領を管理し、 貢税、水利、新田開発等にあたった。 三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永6年(1629)に小室から この赤山の地に陣屋を移した。 これが赤山陣屋で、以来10代163年間伊奈氏が居城したものであるが、 現在では東側に堀と土塁を一部残すのみである。 赤山陣屋の堀は、周囲の自然の低地を外堀に利用し、内側に人口の内堀を巡らせている。 陣屋に接する自然低地の総延長約3km深さ10m、湿地帯であったため、足場が悪く、 堀の機能を充分備えていたと思われる。 西堀、南堀、南西堀の出会うところで、地形に合わせ南堀は浅め、西堀は深めに掘られ、 土橋の跡があった。 二の丸の南西端。 西堀や南堀との合流点から自然低地の外堀へ、南西堀が下がってきている。 左側が内堀で、低地に下っている。 その低地は畑になっているが、かつての低地湿地帯、 東京外郭環状自動車道路が走っている。 赤山陣屋の本丸と出丸との境にあたり、上を走る東京外郭環状自動車道路の辺りにあった 北堀が本丸と出丸とを分け、堀の上に土橋が掛かっていた。 上を走る東京外郭環状自動車道路下の道路に出る、散策路出入口の一つ、案内説明板がある。 散策路出入口の一つは、東京外郭環状自動車道路路下の道路に。 山王神社(日枝神社)の入り口にある赤鳥居。 正面に山王神社(日枝神社)
山王神社は赤山陣屋址の外れの一角にあり、住宅地が迫っている。
15段ばかりの石段を登って拝殿。 山王神社(日枝神社)の本殿は拝殿より一段と高い所に鎮座おわします。 元禄13年(1700)奉納の野仏。 何とも表情が愛らしい。 |
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川口市安行と新郷、その周辺 10 真言宗豊山派・補陀落山西福寺 真言宗豊山派・補陀落山西福寺は、弘仁年間(810-824)に弘法大師が国家鎮護のため 創建したと伝えられ、三重塔と観音堂がある。 三重塔は三代将軍家光公の長女千代姫が元禄6年(1693)奉建したもので、 埼玉県で一番高い木造の建築物。 観音堂の本尊である如意輪観音の体内には西国、坂東、秩父の百箇所の観音像が 納められており、この一堂に参詣すれば、百箇所の観音霊場を参詣したのと 同じ功徳があるとされている。 毎年8月9日の大護摩には、四万六千日分の縁を求めて、参詣者が訪れる。 一箇所で百個所分の四万六千日分の功徳が得られるこの日は、 観音信仰が盛んであった江戸時代には大いに賑わった。 明和2年(1765)の三重塔修理の際は、百観音信仰の人気を裏付けるように、 何万人もの庶民から寄進があり、名前を記した柿板が残されているとの事。 江戸から荒川を渡って川口宿は3里5丁(13km)、この西福寺まで足を伸ばしても 江戸人の足なら日帰りコース。 川口宿、鳩ヶ谷宿で一泊すれば、尚の事当時の庶民の行楽に手頃であった。 山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人を引き付けていたと、 文化11年(1814)刊行の「遊歴雑記」の著者・津田大浄も、百観音に参詣し、 野点や連句を楽しんでいたと言う。 観音堂の本尊である木造如意輪観音坐像及び像内納入物は川口市指定の有形文化財である。 真言宗豊山派・補陀落山西福寺入り口より本堂観音堂を望む。
阿形・吽形の金剛力士石像のある入り口。 正面が補陀落山西福寺観音堂、右に木造三重塔 吽形金剛力士石像と補陀落山西福寺観音堂 阿形金剛力士石像と補陀落山西福寺三重塔 補陀落山西福寺三重塔 本堂内部より三重塔を望む。 観世音菩薩石像と鐘楼、右に三重塔。 奥に観音堂の本尊・如意輪観音坐像及び百観音が祭ってある補陀落山西福寺の観音堂内部。 ガラス越しに拝観。 補陀落山西福寺の本堂にある おびんずるさま。 御寶頭盧(おびんずる)は仏弟子、十六羅漢の一人。 神通力をもてあそんだとして釈迦に呵責され涅槃に入ることを許されず、西罌陀尼州(さいくだにしゅう)で衆生救済に勤めてという。 日本では本堂の外陣に置いて、これを撫でて病気平癒を祈る。 なでぼとけ、おびんずるさま といわれ古くから親しまれてきた。 本堂玄関の龍の彫り物。 本堂玄関の柱の彫り物 補陀落山西福寺の梵鐘。 補陀落山西福寺三重塔の木組み 高さ23m。 元禄6年(1693)建立。 かっては櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、廃止されている。 補陀落山西福寺三重塔の木組み 釘は使わず、細工により作り上げられたいる。 構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱を立て、その柱から二層三層の屋根に梁を渡し、風、地震にも堪える工夫がなされている。 一層の天井に十二支を表す動物の彫刻が刻まれ、方向を示していると言う。 |





