なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

散策・埼玉 川口

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   埼玉:川口 34 川口・荒川土手

   天気に恵まれ、暖冬の日曜日ということで、荒川の土手下にある広場は、
   子供たちの天国、歓声がこだましていた。
   凧を揚げる子供たち、カケッコをする子供たち、犬まで大はしゃぎ。 
   それを見守る親たち。
   岸辺では、パパと何やら、小さな網で、盛んに手探っていた。
   荒川土手・河川敷は、市民の憩い、運動に欠かせない場所である。


   江戸時代日光御成街道は、本郷追分で中仙道と分かれ、
   王子から赤羽根を過ぎ、岩淵宿から川口宿へと、荒川を舟で渡った。
   将軍の日光参詣の折は、幅3間の仮橋を渡した。

   大正末期に荒川放水路の工事の進展に合わせ、東京と川口を結ぶ本格的な橋の工事が始まり、
   昭和3年に新荒川大橋が完成した。
   大橋の下流700mほど下に、荒川から分かれる隅田川の口、岩淵水門がある。

   この一帯は、昔から交通の要衝となっていたようである。

   治承4年(1180)源義経が兄頼朝を助けるべく、
   奥州平泉から急ぎ出発し、武蔵国足立郡小河口の里で閲兵したという事が「義経記」にあり、
   この付近と推定されるという。

   応永23年(1416)将軍・足利義持のころ、問注所政所執事であった駿河入道行宗が、
   川口と岩槻との間の橋銭(通行料)を足利管領家から鎌倉大蔵稲荷社の修繕料として
   奉ったとの文書が、鎌倉に残されているという。


   新荒川大橋の東側で、河川敷に広がる川口パブリックゴルフ場。 
   対岸は北区赤羽岩淵の町並み。
   古くは日光御成街道と呼ばれ、岩槻街道とも呼ばれる、国道122号線。
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   広重「江戸百景」に画かれた「川口のわたし」
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   隅田川の口、岩淵の水門。 左に赤い高架橋脚の首都高速・川口線。 
   岩淵水門のはるか彼方に、鹿浜橋。
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   舟戸土手、善光寺付近から新荒川大橋、赤羽・岩淵の町並みを望む。  
   河川敷には飛鳥ドライブ教習場
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   右側はJR 京浜東北線、JR宇都宮線、JR高崎線。 赤羽方面を望む。
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   明治16年、上野―熊谷間に日本鉄道が開通し、川口駅は明治43年に開設された。
   昭和7年、赤羽―大宮間が電化され、電車の停車駅となったが、
   汽車は停車しなくなったが、産業都市化で貨物の取扱量は多かったという。

   明治15年、日本鉄道の敷設工事用に、英国から輸入された蒸気機関車が、
   船で荒川をさかのぼって、ここの川原に陸揚げされた。  
   交通博物館に保存されている、蒸気機関車「善光寺号」は、
   この土手にある善光寺に因み名付られたという。

   今はJR京浜東北線、JR東北線、JR高崎線、が頻繁に通過する大動脈である。

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   新荒川大橋の袂には、綾瀬川・芝川浄化導水機場がある。 
   今から50年位前の昭和32−3年に、台風で芝川が氾濫し、
   川口市全体が水没したことがある。 
   その後、国・県・市により「新芝川」を急遽開鑿し、
   芝川、荒川の氾濫を食い止めるための大工事が行なわれた。
   市内を流れる「旧芝川」は汚染が進み、浄化が必要になり、
   その対策にこの浄化導水機場が必要になった。 
   左のエルザタワー55、エルザ32の高層マンションは川口市の最初の高層マンションである。
   東京メトロ南北線の延長、埼玉高速鉄道の川口・元郷駅の近くに在る
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   荒川土手の改修工事が進められ、堤防が高く強固に改修されている。 
   右から市立南中学、舟戸小学、善光寺と土手の上に建設され、
   川口駅周辺は高層住宅が密集してきた。 
   川口都民、埼玉都民といわれる都民が終結し、
   県民・市民感覚が希薄であると嘆かれているとのこと。
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   埼玉・川口 33 川口市柳崎にある観音院

   天台宗・観音院は川口市柳崎4丁目にある。
   子安観世音の霊場として、地域の信仰を集めている。
   寺院の由緒を記すものは、掲示されていない。
   見沼代用水西縁水路の台地の上にあり、かつての見沼田んぼが都市化され、
   住宅が立ち並ぶそれらを見下ろすように寺院はある。

   観音院の下の見沼代用水西縁水路の上手、程近くに柳崎氷川神社があり、
   地域の神仏の信仰地となっている。


   山門入り口には六地蔵尊が、参詣者を迎えてくれる。 
   正面には観音院本堂が、右手に庫裏がある。
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   本堂脇の回廊より山門入り口を見る。  遥か先の森は、柳崎氷川神社の鎮守の森。
   禅の言葉「一隅を照らす」が掲げてある。
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   本堂脇の緑の植え込み。  右側に川口市立柳崎小学校校舎
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   墓地より眺める本堂。
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   古い石仏・石塔が並ぶ。  古い六地蔵尊石塔  
   宝永5年(1709)の銘のある石塔があった。
   中段になって墓地が広がっている。
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   埼玉・川口 32 川口市芝にある慈星院

   慈星院は川口市芝にあり、川口市立芝小学校に隣接してある。
   天台宗山門派・慈覚山清月寺と号し、さいたま市緑区中尾・吉祥寺の末寺で、
   寺領七石を賜っていた。
   開山は慈覚大師と伝えられるが、寛永年間中頃(1624−44)火災に遭い、
   旧記・資料を一切消失したため、詳細は不明とのこと。
   文化年間(1804−18)に亮応師が本堂再建したと伝えられ、
   本尊・虚空蔵菩薩は慈覚大師の作と伝えられる。

   本堂脇に不動尊堂がある。
   不動尊堂には明治11年奉納の「飛天の額」と大正10年奉納の「不動尊額」が
   風雨にさらされ掲げられている。

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     慈星院のカヤ

   慈星院のカヤの大樹は、川口市指定天然記念物に指定されている。
   カヤは裸子植物イチイ科に属し、雌雄異株で山地に自生し、縁起木として庭園にも植えられる、
   常緑の高木である。  
   実は薬用または搾って油を採ったり、焙って食用となり、
   木材は水湿に耐える性質から土木用材に、質緻密のため碁盤・将棋盤として用いられる。
   慈星院のカヤは雌木で、本寺最古の樹で老木のため、
   根元から幹の内部を通じ上まで突き抜ける洞穴がある。
     樹高18m、雌通り4.1m、根回り7.8m、枝張り7.7m四方。

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     平和観音建立碑

   建立碑の裏面には、先の太平洋戦争で、この地区から出征し、
   戦死された178柱の英霊の氏名が明記されている。 
   御冥福を祈り供養するためと、永遠の平和祈念のための平和観音建立碑。

   この町の小さな地域に、先の戦争で178名の出征兵士戦死者が居られたとは、驚きであった。
   御冥福と恒久平和をお祈りいたします。

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   埼玉・川口 31 川口市芝の鎮守様・氷室神社

   川口市芝の鎮守様・氷室神社は長徳寺及び川口市立芝中学校に隣接して鎮座まします。

   鳥居脇の石柱には、地元選出の元文部大臣・松永光衆議院議員が「氷室神社」と揮毫した
   石柱がある。

   鳥居をくぐると、左にケヤキの大木があり、その脇の石段を35段と15段登ると境内である。
   ひっそりとした、境内は樹木に覆われて、音はなし。 
   向に質素な氷室神社の社殿がある。

   氷室神社の由緒書きから、
   「氷室神社の創建は、言い伝えによれば、建武時代(およそ700年前)にさかのぼる。
    天正19年(1591)に、徳川家康公より朱印地大明神領として米五石を寄進されたとある。
    御祭神は大鵻鷯尊(おおささぎのみこと)で、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)という。
    仁徳天皇は、応神天皇の皇子で、日本書紀によれば幼少より聡明叡知、
    天皇になられてから仁寛慈恵の御方で、
    仁徳天皇御製に   
       高殿に 上りてみれば 天の下 四方に烟りて 国ぞ富みぬる
    とあるように、天皇は日々浪速の高津の宮の高台にのぼり、
    家々から朝餉・夕餉の煙が立たないのを見て民の貧窮を察し租税や賦役を免除するなど
    仁政を敷いた天皇である。
     (戦前の小学校・修身?か国語?の教科書に記載され、児童は教育された)
    明治期の記録(神社明細帳)によれば、境内の面積1700坪余、
    社殿は本殿と拝殿、そして神楽殿」
   といわれる。

   境内に御嶽社、天神社、稲荷社、三峰社、従殿宮社が祀られ、末社として十度明神者がある。
   近辺の村民の鎮守様として厚い崇拝を受け、賑わった神社である。


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   埼玉・川口 30 川口市芝の禅寺・長徳寺

   臨済宗・大智山・長徳禅寺は、川口市芝の東京外郭環状自動車道と産業道路・川口上尾線との
   交差点にある、川口市芝支所及び川口市立芝中学校の裏手の、芝の独立丘陵地にある。

   鎌倉・建長寺の末寺、臨済宗幻住派に属し、寺伝によれば、
   創建は南北朝時代・貞治3年(1364)足利基氏の祈願所として僧秀田によって
   開基されたといわれ、近在では最大の伽藍を誇る古刹である。
   天正10年(1582)、この寺中興の祖とされる龍派禅珠のとき大いに栄え、
   天正18年には徳川家康より寺領40石を与えられ、将軍家代々の保護を受け、
   鎌倉・建長寺の4大柱の一寺院として大いに栄えた。


   臨済宗・大智山・長徳禅寺 山門
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   長徳寺 大玄関
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   長徳寺 山門から直進して中門(通常は締め切り門)へ、そして大玄関へ。
   中門脇から左側に大玄関、通用口を望む。   右は中門。 奥の建物は「浮憧殿」
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   長徳寺の中門と築地塀に囲まれた境内の内側。
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   大玄関左手の伽藍「寒松宝殿」
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   伽藍「金剛窟殿」
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   「金剛窟殿」と「寒松宝殿」の間に見える三重の塔。
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   「金剛窟殿」と「寒松宝殿」の間を抜けて、山門と円通殿そして墓地へ。
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   山門から、左「寒松宝殿」「大玄関」、右「金剛窟殿」
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   山門から、三重の塔を望む。 右「寒松宝殿」
   山門には、阿吽の仁王像2体と大提灯。
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   正面に山門、左手に円通殿
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   正面は円通殿、左手に山門
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   右より円通殿、左に山門、更に左に金剛窟殿屋根、左側に寒松宝殿。
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   長徳寺は慶長年間に2度の火災に遭ったが、再建を助けたのが当時芝村の代官であった
   熊沢忠勝であったという。
   その代官熊沢家の墓所が、墓地の中心にある。

   熊沢三郎左衛門忠勝は、岩槻に生まれ芝村の代官であった。  
   長徳寺の東隣に住み、住持の龍派禅珠との親交が厚く、
   慶長、元和の長徳寺再建、円通殿観音堂の建立、梵鐘寄進、鶴が丸八幡神社の創建など、
   多くの功を成したと伝えられ、
   また房州里見家改易に際し旧里見領村々の宰官業務もたずさわった。

   一方、元和9年(1623)に娘が江戸キリシタン殉教事件に連座し、
   龍派禅珠の奔走により助命されたが、劇的な事件に遭遇したが、
   正保元年(1644)に没した。

   熊沢家は忠勝の後、彦兵衛忠徳、武兵衛良泰と代官を務めるが、
   良泰の元禄2年(1689)のとき、罪され逼塞させられた。

   墓所は忠勝から良泰までの家族の墓となっているが、忠勝の先妻キリシタン娘の母親の墓はなく、
   忠勝の幕府へのはばかりであろう。

   円通殿観音堂には、忠勝が寄進した三十六歌仙絵扁額があり、寛永元年の墨書銘があるが、
   キリシタン殉教事件で処刑された娘婿・権七と子・彦四郎の供養に奉納されたといわれている。


   熊沢家の墓所
   熊沢家の墓所は円通殿の裏手の、一等地にある。
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     寺宝「寒松日記」「寒松稿」

   龍派禅珠(号を寒松)は幼少の頃から円覚寺の奇文和尚について詩文を習い、
   早くから格調高い文章を書き、学僧としての才能を発揮し、
   「寒松日記」「寒松稿」が寺宝としてあるという。
   寒松日記は、慶長18年から寛永9年(1613−32)までの、キリシタン事件を始め、
   江戸時代初期の重要事件が記されていて、史料価値が高く、
   禅珠が交渉のあった有名人も記され、交際の広さがうかがえる。
   寒松稿は、慶長3年から寛永10年(1601−33)までの、
   将軍から百姓に至るまでの広い層の詩歌、論文、紀行、随想などを綴ったものといわれている。


     長徳寺の獅子頭と神楽面
 
   元禄11年(1698)の墨書された獅子頭2頭と他に獅子頭1頭、
   神楽面10面が保存されている。
   芝の獅子舞は、代官熊沢忠勝が房州(千葉県南部)の鶴ヶ谷八幡を遷宮し、
   鶴ヶ谷八幡神社を建立したのを機に、毎年8月15日奉納されていたことが、
   文書に記されていた。 
   そこには、本寺門前の人々と鶴ヶ谷門前の人々が獅子舞を行なっていたという。


     長徳寺のビャクシン

   ビャクシンはヒノキ科の常緑樹で、和名をイブキといい、雌雄異株で、
   長徳寺のビャクシンは雌木。
   この木は樹形が美しいことから、広く庭園・社寺などに植えられ、
   長徳寺のビャクシンは、中国から渡って来たと伝えられる
   鎌倉・建長寺のビャクシンの実生といわれている。  
   根回り4m、樹高13m、枝張り7.4m四方の巨木。

   長徳寺ビャクシンは「金剛窟殿」の前にある。
   写真の左側がビャクシン、右側は保存樹木のヒノキ、どちらも巨木である。
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   長徳寺の会館
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   長徳寺の鐘楼
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