なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

健康・大腸がん闘病の記録

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3






     闘病の記録  大腸ガンと闘う  その21



     今回は 前回に続く、妻の過去の病歴 についてお話いたします。


     秦野のリハビリ専門病院に転院して、ものすごく熱心にリハビリに専念した。
     最初はそれほどの進歩は無かったが、それでも日曜日の面会の度に、
     目に見えて少しずつ、確実に進歩していた。 
     寝たきりだったのが、車椅子に乗る時間が段々と増えていった。

     平成5年も暮れて、平成6年の新年を迎える。
     色々と有って、今年は清々しい正月を迎えられない。

     この病院は、リハビリ病院だが、老人病院のようで、妻は若い部類の様子。
     永く入院していたため、自宅の部屋は孫に占領されて、帰るに帰れない人。
     息子に「入院費は心配しないで、ゆっくり病院にいてくれ」 と
     姥捨て山に捨てられた気持ちという人。  
     人生の様々の境遇の人達が集まって居る所と妻はいう。
     見かけは良くとも、人は様々な境遇、悩みを持っているという。

     入院して2ヶ月位経って、めきめきと回復してきた。 信じられない気持ち。
     色々のリハビリのメニューを、積極的にこなしている。  
     車椅子も最近は、自分で乗り降りし、リハビリ室に自分で出向くようになった。
     3ヶ月経った2月初旬から歩行訓練が始まった。
     「寝たっきり」 と宣告されたことが、まるで嘘のようで、信じられない光景である。
     「此処は老人病院で、皆リハビリというと、サボりたがる人が多いので、
     先生にお願いして、午前と午後にリハビリを受けることにした」 と妻は言う。
     「男の人って、だめねー。 すぐサボりたがるから」  
     「俺のこと言われているみたいだ」   「そーよ」
     早く帰りたい一心からという。

     実は、その時もう一人の病人を抱えていた。  95歳の父である。
     昭和62年に米寿、平成元年に卒寿を元気に祝ったが、
     平成2年に脳梗塞で入院以来、入退院を繰り返している。  
     当初、発病したときに入院した病院は、リハビリ診療が無かったので、
     リハビリ診療科のある病院に、リハビリ治療を受けさせたいと主治医と相談し、
     承諾を得て紹介状を書いて頂き、リハビリ病院に相談に行く。 
     案の定、紹介状を見て 
     「90歳を過ぎて、リハビリですか? 
     当病院は、寝たきりの病人は、受け入れられません」  
     「本人を診察してから、判断をしてください」  
     その様なことで、入院した病院である。 
     父は、家に帰りたい一心でリハビリに専心、主治医もビックリするほどでした。
     しかし、退院して家に戻ると、もう我がままで、頑固で梃子でも動かず、
     母(89歳)を困らせ、また体調を崩し、病院へ逆戻り。  
     病院に戻れば、リハビリに専念。  これの繰り返し。 
     何処にそんな力があるのかと、主治医まで感心する。
     しかし、妻が倒れたとき、父も入院中で、
     主治医から「今度だけは予断を許されぬ状態である」 ことを、
     2・3日前に告げられていた時であった。  
     「葬式を2つ、一遍に出すことになるかもしれない」 と、内心覚悟をきめていた。
     幸いに、全ての事態は好転して、安堵し、しかもその後父は退院できた。 
     父の主治医から 「明治生まれの人はすごいですねー。 
     今の人には、とても考えられない」 と感心された。  
     妻の病状も、父の主治医に、知る限りの情報で、相談していた。

     3月になった。  妻は信じられないペースで、回復している。
     杖で何とか上体を支えられる程になった。  
     リハビリと介護が出来れば、そろそろ退院しても良いと言われた。  
     今更、妻の努力に驚嘆している。  あの時の脳のCT断層写真は、本当だったのか?
     一生寝たきりですよと言われて、回復しないと思っていたが、夢のようである。  

     退院の許可が出たと、妻は早く早くと、退院を急かせる。
     父がまた入院したが、何とかなるだろうと、3月10日に退院と決めた。

     3月7日の早朝、父の病院から電話。  
     「今、容態が急変したので、すぐに来てください」 
     母と急いで病院に駆けつける。  間に合わなかった。
     毎日、母と夕方の面会時間に行き、面会時間一杯まで居る。  
     「明日も来るよ」 と帰って来るが、昨日ばかりは帰り際に、
     未練があるように、握った母の手をしばらく離さなかったので、
     しばらくそのままにして、眠ったころを見計らって帰ってきた。  
     母はその時、感じたらしい。

     父の葬儀の準備と手配、各所に通知、葬儀日程もろもろ。  
     葬儀社と打ち合わせで、3月9日通夜、10日告別式の日程に決める。
     10日の妻の退院と重なる。  8日病院に行き、一日退院の延期を相談。
     妻は「長男の嫁として、どうしても出席して、取り仕切らなければ、
     皆から後で何を言われるか判らないと」 主張する。  
     やっと納得させ、11日に退院とした。
     その他今日、片付けなければならぬことが、山ほどある。

     3月11日  妻の5ヶ月に渡る入院生活も終止符を打った。
     近くの病院に、紹介状と病歴書類を持参、外来通院することとなった。
     老母と病妻とを抱えての、生活となり食事、洗濯もこなさなければならない。

     妻を退院させて、家に受け入れて気が付いた。
     発病前は、比較的に良妻、賢母、努力家で、自制心があり、思慮深く、
     人には親切、判断力に勝れ、決断力も勝り等々、ノロケル訳ではないが
     「過ぎたる妻」であった。
     病院に居るとき、「何か怒りっぽくなったかな」 位で、さして気に掛からなかったが。
     今までのつもりで、何かをしたり、言ったりした時に、
     爆発的に自制心がコントロール出来なくなり、猛然と喚き、襲い掛かってくる。  
     まるで3・4歳の幼児が、気に入らなくなって暴れ、泣き叫ぶよう。  
     これをなだめ透かすのが容易ではない。  
     全て病気の成せること。  
     こちらも爆発すれば、修羅場となる、忍耐力が試された。       
     自分でどうやら立つことが出きる事が、今裏目に出た。

     会話も良く通じない。 以前は「1を知って10を知る」 程ではないが、
     通常の会話はお互い通じていた。  
     当時は「1の話」は判る。 「2の話」も判る。 
     「1の話」と「2の話」から「3の話」になる関係が判らない。 
     そうなると、もう頭の中がゴチャゴチャになって、
     考えただけでパニックになり、イライラを起こす。 
     考えなければ良いのにと思うが、どうしようもない。 
     行動の危険信号だ。ヤバイ!

     このような行動は、退院後3年位続いた。  最悪は1年半ばかり。 
     しかし体力の回復と共に間隔は、段々と伸びて、助かった。 
     我ながら良く耐えたと思う。 
     今は笑い話だが、当の妻は余り其の事の記憶がないようだ。

     歩けるようになったので、外の散歩に連れ出す。 
     しかし、絶対に一人では出せない。
     一緒に付いて歩き、行動を観察していないと、何処に行くか分からない。  
     時には自分が何処に居るかが、分からない事がある。  
     家に帰ろうと、反対方向に歩き、何処にいるか分からなくなった時もある。  
     黙って行動を観察するのも楽ではない。
     大分経ったとき、電車で行く。 
     前に行った事がある所、ホームで反対側に立ち、
     行き先も確かめずに乗ろうとしたので、止めると 「これでしょう?」


     脳卒中の回復には、非常に長い年月が掛かる。  
     身体ばかりでなく、脳の機能改善、精神の復調、体調のバランスなど、
     どれも忍耐と努力が必要である。
     しかし、人間の身体は、計り知れない不思議な力が漲っている。

     妻も、永い年月に、体力は徐々に回復し、今は左手の指先が、
     物を掴む握力が僅か不足し、よく掴めないが、不自由なしに生活している。  
     身体的には、完全に完治していて、病気になったことを知らない人は、一様に皆驚く。
     驚くべきは、脳の回復力である。 
     当時脳内コンピュータの配線が、ズタズタに切断され、回復不可能と思われていたが、
     今は完全に回復、配線は完璧に接続されて、
     以前と全く変わりなく、思考力、記憶力、判断力、自制心、
     人間のあらゆる能力全てが回復したのである。 
     この神秘。この感動。
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3




     闘病の記録  大腸ガンと闘う  その20



     今回も 家内の過去の病歴についてお話いたします。

     平成5年10月17・8日(日・月) にかけて、 
     親しい友人5人と、紅葉を求めて 
     仙台郊外の作並温泉に旅行に出かけた。
     普段の彼女は、色々と多岐に渉り多忙であった。 
     そのため、親しい友人との旅行は、生活をリフレッシュする絶好の機会でもあった。

     喜んで出掛けたその夕刻、友人から電話があり、

     「気分が悪くなり倒れて、仙台市立病院救急救命センターに救急車で搬送され、入院した」
     と知らせがあった。  
     時々貧血といって、休むことがあっても、今まではしばらくすると、
     直に回復するので、あまり気にも掛けていなかった。 
     またそんな類いで、皆さんに迷惑を掛けたのではないか?  

     今の時間、車で行くしかないか。 仕方無い、車を飛ばして、行くか。

     また電話があり、
     「病院で調べたら、多分、新幹線・仙台行きの最終に間に合うと思います」と
     友人から電話。

     仙台行き最終新幹線にやっと間に合う。 
     車内電話で明日からの仕事の手配と依頼をする。

     病院に到着。  
     友人に顛末を聞き、御礼と御詫びを申し上げ、
     旅行を継続するよう、旅館にお引取りをお願いする。

     集中治療室ナースステーションに到着を告げると、
     担当医から病状の説明があり、「5分間の面会」を許される。  
     帽子・白衣に着替え、除塵・除菌のエアーシャワー室で消毒して、
     集中治療ベットに案内され、5分間の面会。  勿論、本人は、昏睡状態。

     脳内出血、断層写真を見せられ、
     「今、脳内の中枢近くに、ピンポン玉位の出血があり、
     この様に、右脳に集結する左半身全神経の根幹部分が、
     圧迫されて1/3位の太さしかない状態。  
     圧迫されているだけならば良いが、恐らく此の太さでは切断している可能性が高い。 
     生命には別状無いと思われるが、予断は許されない。  
     この様な状態では、回復しても、良くて半身不随、恐らく寝たきりになると思われます。
     言語の中枢に極めて近いので、言語にも、支障があるかもしれません。  
     2・3日が、やま場と思って下さい。  
     脳内の脳圧が高くなっているので、様子を見て、
     脳圧を下げるため、出血球の血を抜きたいと思います。  
     頭骨に5mm位の穴を開け、脳の安全と思われる所を、
     血球に向けて注射針を貫通させて、血を抜く手術を行います。  
     患者に病状の急変が有るかもしれないので、直に連絡できる所に待機していて下さい」
     予想しなかった容態に、愕然とする。

     集中治療ベットには各種検査計器と治療装置が、ベットの回りにグルリと備え付けられ、
     当直の医師2名と看護婦数名が、モニターテレビの前で、患者の状態を、
     24時間体制で、集中管理して、病変異常に即応している。  
     最前線の集中医療体制の内部を、初めて見せて貰った。

     家族の待機室に案内されたが、やや広い部屋に、大勢の人が容態を心配して待機していた。
     廊下の長椅子に、交通事故でもう5日も昏睡状態なので、此処にいるという人が居た。

     暗い夜中の仙台の街に飛び出す。    
     妻には苦労の掛けっぱなしで、何一つ 些細な喜びも与えずに、このまま逝かれては、
     残念で、残念で、何とか生きてくれ。  
     自然に涙が流れ、頬を伝わるが、 暗い街中を、 当て所も無く、 さ迷い歩いた。

     3日目の20日(水)夕。  やっと昏睡から覚める。  
     昨日、妻の実妹が駆けつけて来たので、2人で見舞う。
     言語障害は起こらなかった。  どうやら、危機は脱出したようだ。
     午前中、脳圧を下げる手術をしたお陰か?  
     抜き取った血を見せられたが、あまり抜けなかったようだが、
     後は自然に吸収されるとの事。

     4日目21日(木)午後。  一般病棟の個室重症病室に移される。
     さすが東北六県の拠点病院。  
     東北六県の重症患者が転送されて来るので、集中治療室はベット不足気味、 
     危機脱出者は即座に一般ベットに。  
     有効に回転させないと、助けられる命も、助けられない現状が浮かび上がってくる。

     看護婦の検診の度に 「此処は何処ですか?」  「お名前は?」  
     「今、朝ですか? 昼ですか?」  「朝は何を食べましたか?」  
     答えによって反応を見ているようだ。
     まあ、声が出るだけで良い!!   何とか話が出来るだけで良い!!

     6日目23日(土)
     主治医から 「月曜からリハビリを行いましょう。  
     早ければ早いほど良い。 出血は安定しています。 
     病状を見ながら行いますから、安全です」
     まだ、手も足も左は感覚も無く、身体全体をも、
     自分の意思で動かすことも、出来ない状態である。
     相変わらず看護婦に、「此処は何処ですか?」 
     「何を食べましたか?」 と 聞かれている。

     25日(月)
     昨日午後、一般病棟の4人部屋に移される。  
     一応、最悪の事態から脱出とのこと。
     今日から毎日午前中にリハビリ開始。 車椅子にやっと乗せるが、上体が安定しない。
     リハビリ室の畳の上に、ドテッと横たわっているだけだ。  
     リハビリの先生に、手足をマッサージされて、今日は終わり。 

     30日(土)
     月曜からリハビリが始まり、今日土曜日、6回目のリハビリ治療を受ける。  
     車椅子に座らせるに、幾らか楽にはなったが、相変わらずリハビリ室の畳の上に、
     ドッテット横たわっているだけ。  
     一週間で変化が起こるわけは無いが、やはり初めに言われたように、
     一生寝たきりなのかも知れない。

     11月1日(月)
     医療相談室が設けられている。  相談員を紹介され、病院転院の話が出た。
     「東北六県の拠点病院として、救命救急センターは、
     重症患者の受け入れを担って来ているが、重症患者は後を絶たず、
     常にベットが不足している状態で、その為危機を脱出した患者は、
     出来うる限り最寄の病院に、転院していただくための相談室が設けられ、
     相談させて頂いています。 
     仙台市立である関係で、仙台市民を優先しますので、
     市外の患者には、ご理解頂くわけです。 
     また家族にとって、最寄の病院が便利と思います。 
     病院の情報は集めてあり、紹介も連絡も受け入れ状況も確認できますので、
     推薦病院を紹介しますので、行かれて確かめてから、転院に付いてご理解を頂きたい」
     と言う事で、推薦病院を2・3ヶ所紹介された。
     仙台は遠いので、何かと不便で、いずれは転院しなければと、思っていた。
     丁度、妻の妹も同席して話を聞いた。

     そこからが、大変なことに成った。
     妻の妹は、姉の病気が心配で、殆ど付ききりで看病し、私が手出しできぬ位。
     しかも義母に、毎日定期的に報告していた模様。  転院の話も、直ちに報告。
     それならば、今義母が通院している病院が良い、院長先生も懇意だからと。
     私は近くの病院で、妻に対する罪滅ぼしの積もりで、リハビリを毎日この手で、
     支援したいと思っていた。  
     そんな話には耳を傾けず、しかも 
     「こんなに成ったのも、貴方が悪い。 もう貴方に任せられない」 と。  
     今までそんなきついことを言う人ではなかったが。  
     私が承知しないので、義母は、母に電話する。  
     母は、「父の最期が近い今、余り波風を立てるより、
     義母の気の澄むよう、世話になったら」
     かくて、神奈川県秦野市のリハビリ病院に転院することにした。
     義母は 「私が費用負担するから」 といって 看護婦つきの寝台車 を、用意した。

     11月8日(月)午後8時過   仙台市立病院の医師・看護婦に見送られ、出発
     11月9日(火)午前10時前  神奈川県秦野市 リハビリ病院に到着

     義母が負担した、寝台車の費用 は、後日鄭重に 返済した。 お見通し

     家族の一人が、病気になると、家中が いや 親子兄弟姉妹まで、
     果ては一族郎党までもが、テンヤワンヤの大騒ぎになるという話。  
     体験しました。
                                   次回に 続く
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3




     闘病の記録  大腸ガンと闘う  その19



     平成16年9月中旬
     家内が夕食後、吐き気を催し 体調を崩した。
     病院に行き、診療時間が過ぎているので、急患窓口で診察の手続きをする。
     「軽い日射病でしょう」と 点滴治療を受け、収まって帰宅した。

     平成16年11月初旬
     再度、腹痛と吐き気に襲われ、また急患診療を受ける。
     症状が私の時に似ているが、重くは無いようだ。
     「一度、診察時間に来て、検査の相談をしたほうが良いと思う」と
     点滴治療を受けて帰宅する。  翌日の診察時間に診察を受け、検査の予約をした。
     11月10日(木) 腹部CT検査
     11月15日(火) 胸部CT検査
     「大腸に腫瘍があり、閉塞ぎみなので、一度内視鏡の検査をしたほうが良い」 

     11月17日(木) 内視鏡検査
     「検査の結果、大腸の腫瘍は切除したほうが良い。 入院日は11月24日(木)
     手術日は閉塞ぎみなので、腸内の大掃除をしてからと言う事で、入院してから決めます」
     ということになった。

     11月24日(木)
     午後に入院する。
     入院してから、レントゲン室で何やら鼻から長い管を差し込まれ、
     腸内洗浄はこの管を通して行うらしい。

     11月29日(火)
     開腹手術

     手術後 「切除した大腸患部です。  
     横行大腸の腫瘍は悪性で2.5cm、 盲腸の腫瘍も悪性で3.5cmです。  
     内臓の水洗い水は検査のため検査室に送りました」 と見せられた。

     私の時もこのように見せたのだと、妙に納得。 
     しかも、腹の中は、ジャブジャブと水洗いされたのだ、
     魚の内臓取り出しの時の様にと連想し、急に可笑しさが込上げて来た。

     多分、手術が無事に終わった安堵からであった。


     と言う事で、 夫婦仲良く、 大腸がんの摘出手術を受けた。
     家内の妹に 「盲腸ガンて、聞いたことが無い」 とか言われた。

     「若しも駄目だったら、 箪笥の中のアノ着物を着せて。  
      変な物、着せられると、いやだから」 
     「俺に判るかな?」   
     手術前夜の面会時間終了前。  

     帰りの夜道、月が煌々と寒空に輝き、青白く寒い夜空に千切れ雲が浮かんでいた。
     自分のガンの事は、あまり気にならないが、
     この日の家内の「頼み事」、いささか 妙に センチ になった。

     12月16日(金)
     家内、無事退院。
イメージ 1

  東京慰霊堂における戦災60周年法要に御参列の 秋篠宮殿下 妃殿下  (御退席の乗用車)

イメージ 2

      東京慰霊堂における戦災60周年法要に集まる戦災犠牲者の関係者

イメージ 3

             納骨堂

イメージ 4

     東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑  (後方建物 安田学園高等学校)

イメージ 5

        東京慰霊堂全景 戦災60周年法要のとき



     闘病の記録  大腸ガンと闘う  その18


     その昔、日本は世界中を相手に、無謀な戦争を始めた。 
     中学生であった私も、否応なしに戦火に巻き込まれた。 
     祖国のために生き、祖国のために死す。 
     生と死は、常に隣同士で存在していた。 次の瞬間に死があった。
     懸命に生き、懸命に死を、常に考えていた。

     昭和20年(1945)3月10日、運命の日。 
     東京大空襲があり、死の極限に立たされ、どうにか生き延びた。 
     まさに九十九死に一生というほどに。
     いや、生き延びたと言うより、「生かされた」ということの意味が強かった。 
     しかし、その時 小学校の恩師一家全員、 級友親友、 叔母の一家全員、 
     隣組の何軒かの一家は全滅、隣の小母さんやその隣のお兄ちゃんお姉ちゃん、
     幼友達 の多くを亡くしてしまった。 

     それからの処世観は、天から預けられた「生かされた命」を、大切に生きることを心がけ、
     何かを託されていると感じ、懸命に生きてきた。 
 
     毎年3月10日には、東京墨田区の東京都戦災慰霊堂に参拝し、
     恩師、級友、幼友達の冥福を祈る。

     平成17年(2005)3月10日、あの日から丁度60年。
     秋篠宮様御夫妻 をお迎えしての慰霊祭。
        秋篠宮家におかせられましては、翌平成18年(2006)9月6日 
        悠仁親王 御誕生あそばされる。
     平成14年(2002)3月10日  三笠宮殿下 御参列。


     何時もこの3月10日は、慰霊堂を参拝の後、
     今も奇跡的に存在する私の「極限の死から逃れた場所」に行き、
     色々と思索する「巡礼の日」と決めている。
     しかし、大望は露と消え、いたずらに馬齢を重ねてしまったが。

     丁度 60年という節目。 
     その節目を迎えることが出来ないと思っていたが、達成でき感慨深い日であった。



       ぬかずきて 香たむければ まぼろしに
            恩師と幼友(とも)の ありしあの時


          香たむけ 戦火に散りし 幼友(とも)偲ぶ
               君知るや 今 この平和(やわらぎ)を


       その昔 本の貸し借り トンボ取り
            亡き幼友(とも)偲び 鳩と遊(たわ)むる


          その昔 戦(いくさ)に敗る 焦土には
               照光ビルに 人のざわめき


       戦災に 極限死(し)をまぬがれし 鉄橋が
            今存在す まぼろし深し


          戦火(いくさび)に 覚悟の乳(ちち)を 赤ん坊(ちのみご)に
               呑(ふく)ませ絶命(たえ)し 母親(はは)の思いは


       戦火(いくさび)に 水面(みずも)は龍舌(あかく) 燃え盛り
            数多(あまた)絶命(たえ)にし まぼろしの川


          戦火(いくさび)に 絶命(たえ)にし人の 漂(ただよ)いし
               まぼろしの川 澱(よど)み流るる


       戦火(いくさび)に 焼けたる屍(かばね) おびただし
            阿鼻叫喚の 地獄にまさり


          死極限(いくさ)時(じ)に 「汝(な)は水入りて 生きよ」と母 
               父は厳命(いい)たり「皆共に死ぬ」





     平成17年(2005)
     3月28日〈月〉  胸部CT検査  採血・採尿
     4月 6日(水)  腹部CT検査
     4月 7日(木)  主治医と面談 
               胸部・腹部CT検査 及び 採血検査・採尿検査 の結果は 
               現在 異常なし
               次回の検査日程 は 半年後位に受けること
               次回の検査日は、9月過ぎに面談の上、予約決定すること
     
     と言う事で、無罪放免となる。 
     目出度し! 目出度し!!







     東京都慰霊堂
          3月10日  春季大法要 (東京空襲犠牲者追悼法要)
          9月 1日  秋季大法要 (関東大震災犠牲者追悼法要)

          場  所   東京都墨田区横網(よこあみ)町  横網町公園
          最寄り駅   JR総武線   両国駅下車   徒歩 北方向 7分
                 都営地下鉄 大江戸線 両国駅下車   徒歩 北方向 5分

       大正12年9月1日に起こった 「関東大震災」 の身元不明者の遺骨を納め、
       死亡者の霊を祀る 「震災祈念堂」 として 昭和5年(1930) 創建された。
       付属施設として、 「東京市(都)復興記念館」 は 震災資料館 

       この土地は、明治・大正時代に「陸軍被服廠」(陸軍軍服、軍靴の製造場所)があった
       土地で、被服廠が大正8年に北区赤羽に移転し、公園予定地として更地になっていた。
       「関東大震災」が起こり、多くの罹災者の避難場所になり、そして家財道具が持ち込ま
       れ、立錐の余地も無い程となったところに、周囲からの火災がその荷物に燃え移り、
       たちまち「火災旋風」 が起こり、罹災者は焼死した。  
       この土地だけで、東京市全体の死亡者の半数以上の3万8千人が死亡したとされる。
       震災後、死亡者を慰霊するための慰霊堂を創建し、 「震災祈念堂」 として、
       身元不明者が納骨された。

       その後 「太平洋戦争」 における 昭和19・20年(1944・45) の空襲により、
       再び東京は焦土となり、 東京の市民だけで 十数万人以上が死亡した。  
       特に、昭和20年3月10日の空襲では 一夜にして10万人以上の人達が、
       死亡し犠牲になった。  
       その殆どが、身元不明者として、近所の公園などに仮埋葬された。  
       昭和23年(1948)頃から、公園その他 約130箇所 に仮埋葬されていた、
       身元不明者の遺骨を、この「震災祈念堂」に 改葬 した。

       昭和26年(1951) 戦災者整葬事業が完了して、 「東京都慰霊堂」 と改称した。

       平成14年3月10日 三笠宮殿下 御参列
       平成17年3月10日 秋篠宮殿下 妃殿下 御参列

       凡そ、内閣総理大臣の参列、または代参も、未だ無かったと記憶する。
       前 鈴木東京都知事が1回、石原都知事が1回位の記憶しかない。
       政治・宗教分離 を 理由 としているのだと思う。

       「東京大空襲被災者」いや
       「日本全国の大都市・中都市・小都市 約70都市の空襲被災者」
       「広島市の原爆投下被災者」 「長崎市の原爆投下被災者」 
       「沖縄本島の地上戦・占領による軍事支配による被災者」 
       「その他 諸々の戦争による被災者」 
       これらは、皆 一番弱い国民が最大の犠牲者になった。

       戦争行為の愚かさ 戦争の悲惨さ を冷厳に受け止め、戦没者の霊を弔い、
       再び戦争の惨禍を繰り返すことの無きよう、平和の尊さを 後世に伝えるためにも、
       平和を祈る「祈念堂」と「資料館」の建設が必要です。
       しかし、このことに対しては、 国家 も 東京都 も熱心ではありません。
       「東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」 も戦後50年も経って、
       やっと完成したのである。 
       ですから、そこに収められる「死没者名簿」に記載されるべき人達の、
       名簿が提出できないのである。 
       私の母が健在であったなら、叔母一家の名簿を提出できた。

       この国の指導者は、戦後六十四年にもなるが、国民に対して、ただの一度も、 
       総括 も 謝罪 も無かったのである。 
       戦争で家を失くそうが、財産を失くそうが、戦争で命を落とそうが、
       全て戦争のため 「戦時保障は無く」、まして 
       「国民に対しての謝罪」 など有り得ないという論拠である。  

       国民が仕掛けた、戦争ではない。  
       一部の国家指導者による、戦争であった。
       それなのに、何故国民だけが犠牲になるのだ!!!
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3




     闘病の記録  大腸ガンと闘う  その17



     人は、色々の問題を抱えて生きているものである。 
     うらやむような地位、財産、家庭を持ち、人生の成功者と見受けられる人にも、
     うかがい知れない 悩み や 苦しみ がある。 

     些細なことでも、人は自分の不幸には過敏であり、 
     大きな不幸と実感しやすいものである。 

     では、不孝がなければ、幸福かと言うと、決してそうとは捉えられないものです。 
     誰もが幸福を望みますが、実感することにおいては、人は鈍感なのです。

     心の平静は、避けようの無い災難に脅かされ、 人は不運、不幸というが、 
     不幸は災難それ自体に在るのではなく、 
     災難を契機に一切の 望み を失うことから、始まる。 

     人は、逆境にあっても、不幸に耐えることができ、
     逆境にも幸せを実感することも可能であると思う。

     幸福は、 困難に出会うことが、 少ない、 あるいは 無い ということではなく、
     困難に打ち勝つことであり、 
     幸せは、 外にあるのではなく、 心の内 に在るものである。 

     希望は可能性を信じ、 嵐の後を静かに待つ心、 あきらめではなく、 
     ささやかであっても、 人の心を明るくする。
     身の程を知る望み、 ほどほどで満足し、 
     いまあるもの、 あることに感謝すれば、 
     小さな希望も 幸せ を与えます。 

     願望は貪欲で際限なく膨らみ、 むなしく終わり、 
     人を恨み、 社会を呪う、 心がすさむばかりです。 

     現実を受け入れ、 身の程を知ることは、 希望 を手に入れることである。
     願望のなかに生きるのでなく、 希望の中に生きて、 幸福はそこにある。



        願望は 欲望ともに 膨らみぬ
             今欲しきもの 脚下の一灯


          夢希望 僅かな金が 懐に
               在りと思えば 楽しき人生   


        膨らみし 叶わぬ欲を 打ち捨てよ
             叶う希望ば 夢見つ楽し


          欲望を 水に流せば しぶき受け
               裾に掛かりて 乾くいとまが


        高望み かの山に似て 夕暮れに
             消えて求むる 暗夜の一灯



          カーカーと 集まり騒ぐ カラスども
               カーと一鳴き カーカーと散る


        カラスにも 集会あるや 裏山に
             集まり騒ぎ また散り散りに


          水を切り 波紋をかきて どぶ川に
               鴨つがい居る 餌無かりしに


        何処より 集まり来たる 鴎たち
             橋欄干に 可愛し並ぶ


          並び居る 鴎一羽が舞い降りて
               はじかれしもの 舞いたるおかし


        葉の落ちた 枝にとまりし 白鷺の
             つがいはやがて 羽つくろい寄る

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
なおじぃ
なおじぃ
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事