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足立・舎人と伊興その周辺 13 応現寺 応現寺は、都道100号線伊興通りに、東武バス竹ノ塚車庫があり、この脇道、すなわち、 「竹ノ塚車庫バス停」の所の脇道を入って、200m位のところに在る。 全国でも数の少ない時宗の寺院。 また伊興最古の寺院でもある。 切妻造・流破風・桟瓦葺の四脚山門は、寛永14年(1637)の建立と伝えられ、 足立区内最古の木造建築物である。 山門の蛙股などの装飾は江戸初期の建築物の特徴を示している。 山門の脇に区指定の保存樹木「くろまつ」が、山門と調和して、 何ともいえぬ風情をかもし出している。 寺領の経塚から平安時代後期のものと推定される「星兜」が出土し、 現在、国立博物館に所蔵されている。 星兜と呼ばれたその星のある兜鉢は、5世紀ころのものであるが、補修して付けられた つばの形が中世のものであるところから、この兜一基でかぶとの変遷がわかる 貴重なものである。 足立区の文化財として、応現寺山門、応現寺石燈篭、応現寺文書、六字名号板碑がある。 くろまつが山門と調和して、風情をかもし出している。 応現寺本堂と大イチョウの保存樹木 本堂は亨保6年(1721)造立で、しばしば改築された。 現本堂は昭和17年の改築である。 本尊は阿弥陀如来で、恵心僧都の作という。 一遍上人のご尊像と歌碑 承応3年(1654)に奉納された左右の石灯篭2基は足立区指定の文化財である。 長勝寺 長勝寺は都道100号線伊興通りに、赤山街道に入る道がある。 ここの地点に、赤山街道と七曲がり道とがある。 この七曲がり道を2−300m行くと長勝寺がある。 長勝寺は、元和8年(1622)に、開基檀方・宮崎清左衛門吉重が先祖の主君・勝胤公の
菩提を弔うため、千葉氏の宅地一部を割譲を受け建立したといわれている。 千葉常胤は、源平合戦で活躍し、源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献した人物。 以後、千葉氏一族は、下総国千葉荘(現在の千葉市周辺)を中心に勢力を伸ばしていた。 しかし、享徳の乱を期に、内部で対立し、このとき一部が、足立近郊に撤退したことから 武蔵千葉が誕生した。 武蔵千葉氏は、北条氏との関係を強めることで、所領を拡大し、現在の足立区を中心に、 北はさいたま市西部、西は板橋区、南は川崎市、東は葛飾区まで拡げた。 勝胤も北条氏綱と婚を通じて安泰を維持し、63歳で没したとされている。 また別説では、家伝に里見義弘と北条氏康の鴻之台合戦のとき討ち死にしたとされている。 長勝寺建立のとき、勝胤在世の当時より勢力衰退しているとは言え、 千葉氏は下総国を領した豪族であった。 千葉次郎勝胤の墓 この墓は古くは伊興村中央の小名横沼の内、長勝寺免田の辺(現在の伊興3−23−24)にあった が、周辺環境の変化を考慮し許の場所を旧史跡として遺し、平成19年末に移霊と共に墓石を 境内地に移築した。 |
散策・江戸東京・足立
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足立・舎人と伊興その周辺 12 白旗塚史跡公園 都内城東地区に残る唯一の古墳で、昭和58年、開発から古墳を守るために土地買収して 公園にした。 「白旗塚」は直径12m、高さ2.5mの円墳で、5,6世紀のものと推定されている。 古墳には松が植えられ、氷川神社の「境外末社」とされる「白旗大神」の祠が祀られている。 円墳の周りには池が巡らされ、保護と景観に配慮されている。 康平5年(1062)源頼義、義家親子が奥州・安倍氏の反乱を鎮圧する途上、当地で豪族の 攻撃を受け、苦戦の末に勝利した時、白旗を立てたので「白旗塚」と呼ぶようになった。 付近の毛長堀南岸には、擂鉢塚、甲塚、船山塚などの、伊興古墳群を形成していたが、 現在ここだけが残っている。 人物・馬・円筒埴輪などが多数出土した。 白旗塚史跡公園は「東京都教育委員会指定・史跡」の公園である。 白旗塚古墳跡には「白旗大神」が祭られ、松が植えられ池が巡らされて、 保護と景観に配慮されている。 伊興古墳群からは、人物、馬、埴輪などが多数出土した。 そのレプリカが置いてある。 白旗塚史跡公園は東武鉄道日光線の沿線にある。 前方白塀が東武鉄道の高架線路。 昔は左側のこの付近に東武電車・竹ノ塚駅があったという。 彰風門(伊興中学校裏庭) 彰風門は、旧家横山家の冠木門で、伊興中学校が創立したときに近隣の有志の方々が 保存に尽力した結果、往時の姿をここに残した。 伊興中学校の裏庭に、風格ある姿を生徒に示している。 曹洞宗・薬師寺 薬師寺は伊興中学校の近くにある。 こじんまりとした禅寺である。 山門を潜り、庭の紅葉に息を呑んだ。 夕映えに燃える紅葉、高い立ち木は夕焼けに輝いた。 風情は極楽浄土の色合いであった。 菅原神社 菅原神社は薬師寺の隣にある。 学問の神様である菅原道真・天神様が祭られている。 学問成就のお参りをすると、効果があるという。 蓮栄山・真国寺 真国寺は伊興中学校の近くにある。
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足立・舎人と伊興その周辺 11 伊興寺町 易行院、常福寺、本行寺、蓮念寺 伊興寺町 易行院は東陽寺に隣接してあり、常福寺は易行院と狭間道を挟んで向かい側にある。 本行寺 は常福寺と隣接し善久寺と狭間道を挟んである。 蓮念寺は本行寺と隣接。 兎に角13ヶ寺が、隣同士・隣接して、ここに一塊にあり、墓地も入り組んで一塊にある。 浄土宗・易行院 浅草・清川町より、関東大震災に罹災、東京府の復興計画により、昭和3年現在地へ移転。 本堂左側、手前に六地蔵尊が並んでいるが、その後ろに歌舞伎で有名な 「花川戸助六と愛人揚巻の比翼塚」がある。 助六と揚巻の仲の良さから、この塚に参ると良縁が成就するなどの功徳があるとされている。 「助六由縁の江戸桜」は市川家代々の当たり狂言で、七代目市川団十郎は文化9年(1812)に 碑を建て、160年忌法要を行っている。 足立区有形文化財指定 「助六の塚」の銘 助六と揚巻の墓石 浄土真宗大谷派・常福寺 建保4年(1216)常陸にて始まったこの寺は、浅草に移転したが、関東大震災に罹災、 東京府の復興計画により、伊興に移転した。 ここは林家三平師匠の墓、「海老名家の墓」がある。 水屋が変わっていた。 浄土真宗本願寺派・本行寺 天正8年(1580)越後にて開山した後、大正9年15代目が上京、 昭和6年日暮里より移転してきた。 狭間道にある裏門は、財界の長老、元王子製紙社長・藤原銀次郎氏宅より移築した 由緒ある山門である。 聖徳太子童形像が本堂脇に安置されている。 聖徳太子像は珍しい。 本堂脇から、隣の常福寺本堂と墓地を望む、 すぐ下まで常福寺墓地。 寺域が入り組む。 浄土真宗大谷派・蓮念寺 昭和6年、長野から移転してきた。 |
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足立・舎人と伊興その周辺 10 狭間道のプチテラス 寺巡りに疲れたら、ここのプチテラスで一休み。 くねくね曲がった細い狭間道は、人生の歩く道にも似ている。 常にくねくね曲がりながらも、現在にたどり着いたが、 恐らくこの先も見透視の良い一本道ではなさそうだ。 自分を見つめる良き機会が、寺めぐりでもあるようだ。 地域の古老が言う事ニャ、 「伊興のいの字はいろはのい、一番初めに出来たトコ、一番始めに興ったトコ」 「昔、白旗塚から氷川様、長い桜のトンネルだったトサ。 残しておけば良かったが、戦争負けて薪無くて、木炭作るに枝切って、 バスを通すに道つくり、桜並木も無くなった」 プチテラス案内板 浄土宗・正安寺 元和2年(1616)浅草・蔵前に草創、その後浅草清島町(現東上野6丁目)に移転。 正安寺第7代住職岳印和尚の親縁で徳川5代将軍綱吉公の母堂(桂昌院)が丈六(5.28m) の釈迦涅槃像を寄進し、以後、当時の院号を涅槃院と号した。 当時は安楽往生の寺(ポックリ寺)として縁日も出た。 関東大震災に罹災、東京府の復興計画により、昭和8年現在地へ移転。 平成に入り、地域の村おこしの一助に「起き上がり観音」「正安寺・七福神」「閻魔様」を 復興安置した。 正安寺の七福神はけやき古木の供養として作ったもので、 七福神ワンセット鎮座、全ての福のご利益ある。 ポックリ閻魔 閻魔大王を祭った寺は珍しい。 年寄りに人気、お勧め!! 道元宗・東陽寺 慶長16年(1611),京橋八丁掘で創建され、寛永12年(1635)火災にあい 浅草高原町八軒寺町へ移転し、関東大震災に罹災、東京府の復興計画により、 昭和3年、伊興へ移転してきた。 足立区文化財指定の「塩原太助の墓」「戸田茂睡の歌碑」「阿弥陀三尊来迎図板碑」がある。 塩原太助の墓は、柴田是真の物語、江戸本所の炭商太助の実話にヒントを得て、
三遊亭円朝が「塩原太助一代記」の人情噺に仕上げて有名になり、 また、歌舞伎にも脚色された評判を呼んだ。 大商人の塩原太助の墓。 戸田茂睡は江戸時代前期の歌人で国学者だった。 海運や治水に功績のあった河村瑞軒の追悼碑がある。 河村瑞軒は江戸豪商。 江戸で車引きから身を起こし、明暦の大火で巨利を得て、土建業を営む豪商となった。 後海運や治水事業で成功し、得た利益で万巻の書を集め、新井白石ら多数の学者を援助した。 |
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足立・舎人と伊興その周辺 09 浄土宗・法受寺 浄光寺のすぐ隣が法受寺である。 浄土宗・法受寺は、正暦3年(992)、恵心僧都によって、豊島郡下尾久の地に 天台宗恵心院法受寺として開創され、文永元年(1264)浄土宗に改宗された。 宝暦3年(1753)豊島郡谷中に移転し、新幡随院法受寺と称したが、関東大震災後、 下谷三崎町の法受寺と浅草の照光山安養寺とが合併して、昭和10年に現在地に建立された。 草創以来千年近くに及ぶ古寺である。 嘉元2年(1302)の奉納と伝わる、鎌倉幕府八代将軍久明親王の父、後深草法王の法体木造、 正応3年(1290)に納められた御尊牌がある。 (足立区有形文化財指定) 五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の墓、 常陸国笠間城主本荘宗資の墓、(足立区有形文化財指定) 柔道家・関口弥太郎の墓、書家・墨菴の墓があり、 また怪談「牡丹灯籠」の寺でもある。 夕方、この鐘が時を告げ、響き渡るという。 門を入ると地蔵尊が迎え入れてくれる。 この寺は、伊興七福神の中の、布袋尊。 元旦から七日までに巡拝すると福をもたらすと言われている。 もうすぐに正月が来る。 開運を願って、歩いてみては如何です!! 怪談「牡丹灯籠」の寺。 怪談牡丹灯籠=三遊亭円朝口演の人情噺。 中国の小説「剪灯新話」中の「牡丹灯記」を浅井了意が 翻訳して「伽婢子(おとぎぼうこ)」中に収録、円朝がこれに天保年間 牛込の旗本の家に起こった、事実譚を加えて創作した怪談。 飯島の娘お露の死霊が牡丹灯籠を提げて恋人新三郎の許に通うという筋。 これを福地桜痴が補綴、三世河竹新七が脚色した歌舞伎劇「怪異談牡丹灯籠」もある。 広辞苑より 寺の本堂であろう。 他にそれらしきものはないので、参詣する。 ペット供養の寺でも知られているようである。 沢山の愛犬、愛猫などの塔婆があった。 桂昌院の墓は、安養寺にあったもので、 安養寺は桂昌院及び父母、弟笠間城主本荘家累代の菩提寺であった。 墓銘に「桂昌院殿従一位仁誉興国恵光大姉」とある。 笠間城主本荘宗資の墓が同じ墓域の中にある。 墓域は石垣がめぐらされ、一対の石灯籠がある。 桂昌院=寛永4年(1627)に、八百屋仁左衛門の娘として、京都に生れ、名は光子(阿玉)、 後に吉子と改む。 二条家臣本庄氏の養女となり、将軍家光の側室お万の方の縁故により江戸城に入り、 春日局のとりもちで将軍家光の妾となって、五代将軍綱吉を生んだ。 家光死後出家し桂昌院と号し、綱吉が将軍になると、生母として大奥に勢力を振るった。 仏教の信仰厚く、綱吉の「生類憐みの令」は、桂昌院の勧めによるところが大きいという。 桂昌院の墓のある本荘家の墓域は、古い石垣の中。 桂昌院の墓 墓銘に「桂昌院殿従一位仁誉興国恵光大姉」 笠間城主本荘宗資の墓 「笠間城主従四位下因幡守藤原朝臣本荘宗資墓」 子孫の墓 「貴族院議員従三位勲四等子爵本荘宗義墓」 曹洞宗・栄寿院 保木間親水水路の道路と都道100号線(伊興本通り)の角地に法受寺がある。 伊興通り南隣が栄寿院である。 曹洞宗・栄寿院は、長禄2年(1458)、大田道灌の創立で400年の歴史がある。 大正天皇の御生母・柳原丹似の御局の勅願所として、菊の御紋章が許されていました。 元本所表町に所在する寺でしたが、関東大震災に罹災し、昭和3年に移転してきた。 今でも跡地には地蔵堂が建立し、町の発展、商店街の繁栄に寄与しており、縁日も存続している。 正楽寺墓地 栄寿院の南脇に細い狭間道がある。 狭間道はくねくねと曲がった道である。 正楽寺墓地は、狭間道を入ったところに在り、栄寿院と隣接する。 浄土真宗本願寺派・専念寺 専念寺は栄寿院と狭間道を挟んである。
浄土真宗本願寺派・専念寺は、昭和5年本木の地に説教所として発足し、 昭和32年に現在の地を取得し、昭和52年に本堂を建設し寺基を竹の塚に移した寺。 |





