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足立・舎人と伊興その周辺 08 伊興寺町 浄土真宗本願寺派・長安寺 伊興氷川神社または伊興遺跡公園から東に300m、ここから伊興寺町になる。 伊興寺町は、大正12年9月1日の関東大震災の時、罹災した寺が東京府の復興計画により 移転して、ここに集まり再建されたのが始まりである。 隣から隣へ、それぞれの墓地、寺の境内は、ちょっとした垣根かブロック塀で仕切られていて、 寺の境界は入り組んでいた。 寺町は保木間堀に連なってあったが、今、保木間堀は保木間親水水路となって、 道路の景観を彩っている。 それぞれ趣を変えて流れ、かつて伊興の農村地帯を流れていた、見沼用水路の枝堀の面影を しのばせる風景となっていた。 浄土真宗本願寺派・長安寺も、かつて築地御坊の地の中の58ヶ寺の一つとして知られていたが、 昭和初期に関東大震災の復興計画により、この地伊興に移転してきた。 浄土真宗本願寺派・善久寺 浄土真宗本願寺派・善久寺は、三河国額田郡岡崎郷福島の善宗寺良乗、江戸開府とともに 江戸に来て浜町御坊(築地本願寺の前身)の開設に尽力した。 良乗の子了信は御坊の初代留守居職を拝命した。 了信は元和3年(1617)善宗寺とともに善久寺を興し、その子了海、了心に継がせた。 後に御坊が築地に移転した時これに従い、やがて関東大震災に罹災して、 東京府の復興計画により昭和2年伊興に移転してきた。 「解剖存真図」(1819)を著した淀藩々医、南小柿良祐の墓がある。 毎月9日13時に法話会を開座している。 浄土真宗本願寺派・浄光寺 浄土真宗本願寺派・浄光寺は、元和2年(1616)、武州赤坂にて開山した後、
浜町、築地と移転し、関東大震災に罹災して、東京府の復興計画により伊興に移転してきた。 本堂に登る階段の中段踊場に「釈尊誕生仏」の小さな像が安置されていた。 「天上天下唯我独尊」にポーズである。 天上天下唯我独尊=釈迦が生れたとき、一手は天を指し、一手は地を指し、七歩進んで、 四方を顧みて、宇宙間に自分より尊いものはないと言ったという語。 広辞苑より 親鸞聖人 旅姿の像 親鸞聖人=鎌倉初期の僧、浄土真宗の開祖。 皇太后宮大進日野有範の長子。 慈円の門に入り、後法然の弟子となる。 法然の念仏停止に連座し越後に流され、その間愚禿と自称して非僧悲俗の生活に入る。 後の恵信尼をめとったのはこの頃とされる。 建暦元年(1211)放免され、晩年の帰京まで久しく常陸国稲田郷など関東にあって 信心為本などの教義を以って伝道布教を行う。 諡号は見真大師。 広辞苑より 蓮如上人の像 蓮如上人=室町時代浄土真宗中興の祖。本願寺八世。 比叡山衆徒の襲撃に遭い、京都東山大谷を出て、文明3年(1471)越前吉崎に赴き、 北陸地方を教化。 更に山科・石山に本願寺を建立、本願寺を真宗を代表する 強力な宗門に成長させた。諡号は慧灯大師。 広辞苑より かつて伊興の農地を潤した保木間堀。 見沼用水路の枝堀の面影をしのばせる、保木間堀親水水路の風景 |
散策・江戸東京・足立
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足立・舎人と伊興その周辺 07 伊興遺跡公園 伊興氷川神社のすぐ前に、伊興史跡公園はある。 遺跡から出土した多くの「出土品」や解説を展示した展示館が開館している。 「伊興遺跡」はこの公園と隣り合う氷川神社の境内を北限とし、 南に660m、東西690mの広がりを持つ、都内屈指の古墳時代遺跡である。 昭和30年代に国学院大学・故大場磐雄教授が学会に紹介して、世に知られることになった。 大場教授は郷土史家の故西垣孝雄氏の収集品から、他ではあまり出土例のない「子持勾玉」と 「古式須恵器」を発見、古代祭祀との関連を考え、伊興遺跡を「祭祀遺跡」として紹介した。 平成に入り、大規模な調査が行われ、推定させる居住跡や方形周溝墓、祭祀土器、須恵器などが 発見された。 出土品から、古墳時代における祭祀遺跡のみならず、毛長川流域の政治・経済の 中心地的役割を持つ遺跡であったとも考えられる。 「舎人遺跡」は「伊興遺跡」に匹敵する規模の遺跡であったが、
現在の日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅のバスターミナルの場所にあったが、 ライナー開通にあたり調査を済ましたという。 (解説板より) 遺跡公園の土中から土器などの出土品の状態や、調査方法・状況を示すレプリカを展示している。 カメラ、記録用紙、計測用巻尺など、実際に発掘現場に立ち会うようなレプリカである。 古墳時代の祭祀行事の様子を再現した展示。 巫女の祈りと、参列する文武百官。 そしてその集落。 方形周溝墓 弥生時代に出現した墓で、周囲を溝で区切った。 稲作農耕の発展に伴い、ムラムラで力を付けた有力者の墓。 やがてムラムラは統合され国になり、強大な権力のもと古墳が造られていった。 有力者にも階級が生じ、地位によってその墓も決る。 (解説板より) 竪穴式住居 縄文時代から続いた住居の形で、貴族や武士が瓦葺きや板葺きの高床や家屋に住むように なっても、一般庶民は10世紀頃まで、竪穴式住居が利用されていた。 半地下のため温度変化を受けにくく、夏涼しく、冬暖かく感じることによるらしい。 然し水はけ悪く、採光が不便であった。 楕円形に掘り込んでいた穴を、古墳時代には方形となり、古墳中期(5-6世紀)には 炉に変わって竃が造り付けられた。 この伊興遺跡では、この頃の住居が、多く見つかっているという。 (解説板より) 内部を再現して展示。 竪穴式住居 と 紅葉する伊興氷川神社の森。 |
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足立・舎人と伊興その周辺 06 古千谷氷川神社 古千谷氷川神社は、高い木立の中にある。 境内も広い。 木造の鳥居は、年月を経た風格のある鳥居である。 松の古木が多いのもこの神社の特徴である。 神輿庫があるから、古くからの氏子・参詣者が多かったことであろう。 伊興氷川神社 足立区最古の氷川神社で、淵江領の総鎮守であった。 江戸期に村々の開発が進み、各地に鎮守が祀られ、 この社は伊興、竹塚、保木間三村の鎮守となり、明治5年伊興村の村社になった。 奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく過程で、この付近が最も早く陸地となり、 大宮台地あたりからの移住者が、武蔵国一ノ宮である大宮氷川神社から、 分霊を勧請したものと考えられている。 当時はまだ淵が入り組んでいたので、「淵の宮」と呼ばれ、 また区内一帯を淵江郷、淵江領の名が生じた。 付近一帯は、古代遺跡で、弥生式土器、須恵器、鏡、勾玉、管玉、臼玉などの 祭祀遺物や漁具、住居跡、井戸跡などの生活遺構が出土した。 足立区登録記念物・史跡として指定。 境内はスギ、ケヤキなどの保存樹木指定の古木大樹が多く、鎮守の森を形造っている。
入り口の幟たて台は享保12年(1727)とあり、古くから信仰を集めていた。 伊興氷川神社の拝殿。 社前の御神灯は文政5年(1822)奉納されたもの。 神域にある浅間神社の大鳥居は文化元年(1804)建立のもので、 末社稲荷神社も神域の中にある。 水屋は文政2年(1819)奉納。 奉納は「願主・当村・湯殿山講中、先達・大乗院、大寿院、総氏子」とある。 仏教の寺院が願主になって、講を作り記念し奉納していて、神仏混合の名残が此処にあり、 興味が湧く。 「日露戦役記念碑」揮毫・乃木希典陸軍大将 乃木将軍に関しては、『歴史・歴史の特別日』「明治天皇崩御 明治から大正に」に 関連記載しています。 その記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/13474372.html 「日露戦役記念碑」にまつわる解説文。 太平洋戦争・終戦後、戦時色のあるものは、全て、撤去され、破壊された。 記念碑然り、銅像然り、あらゆるものが、軍国主義復活に繋がると言うことで撤去され、 「日本人の心」までもが奪われた時代があった。 然し、これにあえて立ち向かった人達がいた。 農民である。 彼等の行動に敬意を表したい。 昔、日清・日露の戦いの戦勝記念碑が、あちらこちらにあった記憶があったが、 それは消え失せていた。 此処で歴史の重みを、気付かせて貰ったのである。 力石 昔、村の青年たちが、祭のたびに「さし石大会」を開き、これらの石を持ち上げ競って 楽しんだという「力石」、それぞれに重さが刻んである。 |
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足立・舎人と伊興その周辺 05 舎人諏訪神社 舎人諏訪神社は、見沼代親水公園の中間にある。 足立区教育委員会の案内板(足立区有形文化財指定)によれば、 『舎人諏訪神社本殿は、一間社、流造千鳥破風付、向拝正面に軒唐破風が着く社殿形式である。 屋根は総柿葺で、現在は覆舎によって囲われている石組基壇上に建立されている。 身舎の大壁、小脇壁、脇障子、柱上組組物、縁腰組の間が彫刻で飾られ、 竜の彫刻は見事である。 牡丹の彫刻を施した手挟、向拝柱の獅子鼻、象鼻など、江戸時代末期の神社建築の特徴が 如実に現れている。 身舎内部に、天保7年(1836)の建立である棟札がある。 江戸時代末期の神社建築の手法を知る遺稿として注目される』 と記されている。 舎人氷川神社といい、此処といい、本殿に見事な彫刻を施しているのは、 やはり日光街道の宿場町として栄えたからと思われる。 新編武蔵野風土記稿に、 「諏訪社 西門寺ノ持ナリ。此社地ニ夫婦杉ト唱エテ二樹アリシガ、三沼代用水掘割ノ時、 コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時前ヲ過ルハ嫌イシトテ此道ヲ避ルト云。 此杉今ハ枯タリ」 とある。 見沼代用水を通したのは、享保12年(1727)の着工であるから、 その以前にこの神社があったことになる。 また、神社の鳥居は神殿に対して、斜めに立っているのは、毛長神社の方向に
向けたためとも言われている。 『隣村の新里(埼玉県)から嫁いだ娘が、姑との不仲を苦に入水し、夫も後を追い自害した。 川から娘の長髪が見つかり、ご神体にしたのが、新里の毛長神社である』 といわれている。 長い年月の風雨に耐え、立派な風格をかもし出す鳥居。 図らずも世話人が掃除のために、拝殿前の扉が開かれ、内部を撮影させてもらった。 神殿右側面の彫刻 神殿背面の彫刻 神殿左側面の彫刻 神殿きざはしの彫刻 神殿、流造千鳥破風付の彫刻 御神木、保存樹木指定のしらかし 境内の前は「見沼代親水公園」流水の遊歩道 放置されている、手水石(天保7年(1836))と仏塔の一部(文化7年(1810)) どちらも神社の建立の時と前に奉納されたものである。 神社建築物とセットで、設置されるべきものである。 世話人は「判ってはいるが、ワシ等ではどうにもならん。 教育委員会も動いてくれない」と 嘆いていた。 それは境内と遊歩道の境の、保存樹木の根元に存在する。 粗大ごみとして、無くなりそう!! |
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足立・舎人と伊興その周辺 04 舎人氷川神社 この社は、須佐之男命を祭る、舎人の鎮守で境内が広い。 本殿は土壇を築いて建てられ、左の池畔に末社の八幡神社がある。 足立区教育委員会の説明板によれば、 『鎌倉時代初期の正治2年(1200)に大宮の氷川神社を勧請祭祀したと伝えられている。 現在の社殿は天保7年(1836)建築で、総けやき造り、柾目の素材を集めて造営されている。 唐様破風流れ造りの屋根が、大きく社殿を覆っている。 社殿一面に施された彫刻美が特徴である。 向拝の両柱の昇竜・降竜、正面扉の唐獅子や牡丹、左側面の八岐の大蛇退治、 裏面には天の岩戸開き、右側面には天孫降臨の様子が浮彫されている。 更に両袖の懸崖には親子の唐獅子が彫り抜かれている。 獅子は子を千尋の谷に突き落とし、子は自力で谷間から這い上がるという図柄である。 舎人は江戸時代には赤山街道の宿場町として栄え、 「ごぼうの市」に代表される市場町としても賑わったところでもある。 この文化的。経済的な背景が勝れた彫刻を持つ社殿の建立につながったと言える』 と 説明が記されていた。 都道・尾久橋通り、モノレール日暮里舎人ライナー舎人駅または見沼代親水公園駅下車 舎人氷川神社鳥居、拝殿、前庭 舎人氷川神社の神池・弁天池 見沼代用水浄化水を利用。 日露戦争従軍記念碑「表忠碑」。 揮毫は 元帥伯爵・東郷平八郎・海軍大将 東郷平八郎=海軍大将・元帥・侯爵 薩摩出身 日露戦争に連合艦隊司令長官に就任、日本海海戦にロシア・バルチック艦隊を破り、 陸軍の乃木希典・陸軍大将と共に名声を博した。 「皇国の興廃この一戦にあり。 各人一層奮励努力せよ」は有名な激励文 海軍軍令部長・東宮御学問所総裁(昭和天皇の天皇教育)。 国葬(1847-1934) 日露戦争=明治37-38年(1904-05) 日本が帝政ロシアと満州・朝鮮の覇権を争った戦争。 1904年2月、国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲(乃木希典・陸軍大将指)、 05年3月の奉天大会戦(大山巌・陸軍大将指揮)、 同年5月の日本海海戦(東郷平八郎・海軍大将指揮)などでの日本の勝利を経て、 同年9月アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋により、 ポーツマスにおいて講和条約成立。(ポーツマス条約) 大山巌=元帥・陸軍大将 薩摩藩士出身 日清戦争に第2軍司令官、日露戦争に満州軍総司令官。 元老、内大臣。(1842-1916) 広辞苑より モノレール・日暮里舎人ライナーは、氷川神社の鳥居の上を,横切って通過するような感じ。
天の岩戸開き、天孫降臨、八岐の大蛇退治、子獅子を千尋の谷に突き落とす古事、神話を題材に 彫刻が成された本殿は、彫刻の神殿で、実に見事である。 神殿にこのような立派な彫刻を一面に施した氷川様を見たことはない。 徳川時代の太平な天保時代に、これだけの社殿を建設したことは、 この地方が「日光街道・舎人宿」として栄えていた証でもある。 本殿右側より見て、日差しに輝いて浮き彫りの、 向拝の柱の昇竜・降竜、及び正面扉の唐獅子や牡丹。 本殿左側より見て、日差しに輝いて浮き彫りの、 向拝の柱の昇竜・降竜、及び正面扉の唐獅子や牡丹。 本殿左側より見て、日差しに輝いて浮き彫りの、本殿左側面の八岐の大蛇退治の一部。 本殿左側より見て、本殿左側面と柱を繋げる横張柱の竜の彫刻。 社殿右側面に、天孫降臨の様子を浮彫。 裏面には天の岩戸開き 社殿右側面に、天孫降臨の様子を浮彫。 |





