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足立・舎人と伊興その周辺 03 見沼代用水東縁の行方 東浦和周辺の見沼代用水の東縁、西縁、芝川などを、毎日の散歩のコースにしていたので、
その周辺の自然、神社、寺院などに興味を持ち、あちら此方を探索して行くうちに、
遂に「見沼代用水東縁」を下って足立区に入ってきた。 其処はやはり東京、開発が進み最早灌漑用水を必要としない町になっていた。 浦和地区では「見沼田んぼ」と「調整池」の緑地地帯になっているので、 今年もまだ水田や畑があり、灌漑用水は必要で、見沼代用水路は水をたたえ、ゆったりと流れ、 田畑を潤している。 稲の成長記録としてブログに掲載することが出来たのもそのためである。 では足立区では、昔の見沼代用水は何処に行ってしまったのか??? 確かに今日も見沼代用水は、浦和地区では満水の水をたたえ、ゆったりと流れている!! 地図を広げると、「見沼代用水路東縁」は、延々と浦和から川口、そして足立区と続いて、 見沼代親水公園にと続いている。 地図では、「毛長川」は埼玉県川口市安行慈林の慈林薬師・慈林寺宝厳院や、 安行吉岡の金剛寺辺りの山を水源とし、川口市と鳩ヶ谷市の市境を流れて東京都足立区舎人に、 更に埼玉県川口市と足立区の境を流れている。 只、埼玉県川口市赤井で「見沼代用水」と「毛長川」は交差して合流し、 そして足立区舎人で、再び交差し合流している。 「見沼代用水東縁」と「毛長川」は昭和40年代まで、川口市赤井、東本郷、江戸袋、本蓮、 榛松、新堀、鳩ヶ谷市三ツ和、八幡木の田園地帯を潤し、また「見沼代用水東縁」は 現在の「新芝川」の西の地区、川口市朝日、末広、元郷、弥平、領家も田園地帯を縦横の堀で 潤していた。 そして「芝川」は、江戸の時代からこの用水の悪水を流していた。 昭和33年の「狩野川台風」で川口市全域が水没する事態が起き、 その後現在の「新芝川」のバイパス水路が造られた。 昭和40年代には川口市の田園地帯は住宅地帯の開発が進み、最早「見沼代用水路」は 灌漑用としての機能は失われていった。 足立区でも同様に開発が進み、都市化が進み、最早灌漑用水は必要がなくなったが、 都市景観に必要な水源を、やはり「見沼代用水」に求めていた。 前回の「見沼代親水公園」で掲載したように、区民の憩いの場として、 やはり「見沼代用水」は、足立区にとって、貴重な存在になっていた。 見沼代親水公園の水処理管理棟・浄化施設で浄化され、「見沼代親水公園」の水源としている。 「神領堀親水緑道」は、この水処理管理棟の近くにある。 「神領堀親水緑道」際に立つ案内板には、 『御神領堀は綾瀬川から西の足立区域を潤した見沼代用水支流の用水で、江戸時代には流域の 伊興・鹿浜・加賀皿沼・堀内・沼田・高野・舎人などの村々によって用水組合が作られ、 地域の人々によって管理・運営された歴史的に重要な用水です』 と記されている。 はんの木橋交差点には、見沼代用水の堀に掛かっていた「はんの木橋」の跡を示す標石がある。 はんの木橋交差点には、「右へ竹の塚堀」「左へ保木間堀」 と今も残る、昔、道にあった 分岐標がある。 歴史的水路として、保木間堀親水水路と名づけ、モニュメントが設けられている。 はんの木橋交差点には、保木間堀親水水路の向かい側道路に、「千住堀分岐点」 と 今も残る、昔、道にあった分岐標がある。 番田の桜並木の入り口には、「是より西へ本木堀」の標石がある。 保木間堀親水水路
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散策・江戸東京・足立
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足立・舎人と伊興その周辺 02 見沼代親水公園 享保12・3年(1727)徳川吉宗の命を受け、幕府勘定方・井澤弥惣兵衛為永が一連の 土木工事にあたり、利根川から見沼代用水として引き、見沼新田を開発した。 関連記事「見沼田んぼ」 記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/12227407.html 関連記事「赤山陣屋跡」 記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/18118670.html 足立区内を網の目のように、流れていた灌漑用水も、都市化が進み、埋め立てられ、暗渠化し 機能を果たさなくなった。 そこで昭和56年から3ヵ年かけて、緑と水の公園として、整備され「見沼代親水公園」として 復活された。 埼玉県から東京都足立区に入って、見沼代用水路はその形を一変させた。 埼玉県との境、舎人水門に浄化設備を儲け、古千谷橋までの1.7kmを四つのゾーンに 区切り、水生植物園ゾーン、こもれびゾーン、せせらぎゾーン、まどろみゾーンと 特徴を持った景観を造り、四季折々楽しめる公園に、かつての水路を再生させた。 今木々も緑を増して成長し、区民の遊歩道として、憩いの場所として親しまれている。 見沼代用水東縁を流れて来た水は、ここで毛長川に流されるが、 一部は埼玉県境の舎人水門から、この水処理管理棟の浄化施設で浄化され、 見沼親水公園の水源としている。 日暮里・舎人ライナー「見沼代親水公園駅」前の「見沼代用水路」保存のモニュメント かつて農地の灌漑水路であった「見沼代用水路」は、今「見沼代親水公園・こもれびゾーン」と して区民の憩いの場となっている。 見沼代親水公園にある、区民憩いの場の休憩所。 かつて農地の灌漑水路には、水車もあったことと思うが、それを再現した「水車のある風情」の 憩いの広場 古千谷橋の「見沼代親水公園」終点と、左道路は赤山街道。 舎人から赤山陣屋へ。 旧日光街道で赤山陣屋を結ぶ街道で、かつては、譜代藩の城下町岩槻へ至る街道であったので 「岩槻街道」といわれていたが、関東郡代伊奈氏が赤山に陣屋を造成したので、 「赤山街道」になった。 戸田川の増水で中山道の「戸田の渡し」が利用できない場合、参勤交代の諸藩と、 旅人や人馬が通った、宿場町としてこの地域は、早くから開けていたという。 日暮里・舎人ライナー「見沼代親水公園駅」 日暮里まで9.8km20分で結ぶ新交通が、平成20年3月30日開業
「東京都交通局日暮里・舎人ライナー」が正式名称で、駅数は13駅、定員は1編成258人、 運転間隔は朝ラッシュ時5分、日中7.5分間隔、運行速度30−60km/h、 自動運転システム。 日暮里・舎人ライナー「見沼代親水公園駅」全ぼう。 駅前バスターミナル。 見沼代親水公園からの展望の新交通。 見沼代親水公園駅を発車するライナー。 東京都と埼玉県との境の草加市遊馬町交差点。新交通・日暮里・舎人ライナーは東京都境が終点。 |
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足立・舎人と伊興その周辺 01 東京都・埼玉県の境、東京都23区の最北端 見沼代用水東縁の周辺を紹介しながら、見沼代用水は現在一体何処に流れて行き、 その周辺には何があるのだろうかと、たどり、たどって遂に見沼用水東縁は ここ東京都足立区舎人に流れていた。 これについて「東浦和とその周辺」「安行と新郷その周辺」という形で紹介しました。 見沼代用水は、徳川幕府直轄地の新田開発に、享保12・3年(1727)徳川吉宗の命を受け、 幕府勘定方・井澤弥惣兵衛為永が一連の土木工事にあたり、利根川から見沼代用水として引き、 見沼新田を開発した。 ここ舎人も新田として見沼代用水を引いていた。 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/12227407.html 舎人はここ20年位で、急速に町として発展した。 私が知る限りでは、以前は稲穂が豊かに稔る、見渡す限りの田園地帯であったが、 現在農地はほとんど見当たらないようである。 農地を潤す用水路が、網の目のように張り巡らされていた。 その見沼代用水路は、今は不要になり、暗渠になり、埋め立てられ、その面影は殆どない。 時代の流れである。 見沼代用水路の周辺は、稲作農地が続く穀倉地帯であり、用水路は水運の要でもあった。 そして、この舎人・伊興地区と安行・新郷地区は東京と埼玉の県境でもあったが、 穀倉農地のこの周辺は、地続きの県境であったが、何等問題はなかった。 昭和33年9月26日台風22号が関東地方を縦断、400mmを超える豪雨を降らせたため、 関東各地で河川が氾濫・決壊した。 伊豆狩野川の被害が大きく、「狩野川台風」と名付けられたが、芝川もまた氾濫し 川口市全域が水没したのであった。 そのため後に、現在の川口オートレース場付近から荒川まで、「見沼たんぼ」を 「新芝川」として新たに掘削し、芝川のバイパス路が造られ、 同時に「見沼田んぼ」のあちらこちらで現在も調整池の建設が行われている。 その後、新郷地区も舎人地区も徐々に人が移り住むようになったが、所詮交通機関は まだ需要がないので発達せず、どちらも陸の孤島であったので、都心から近くにありながら、 土地の住宅開発は進まなかった。 然し、自動車の生産が高まり、人々が自動車購入のローンが組めるようになって、 両地域は徐々に宅地化されていった。 昭和45年頃から、殆ど同時に、舎人地区は東京都と足立区の指導で、 新郷地区は埼玉県と川口市の指導で、土地開発が進められた。 ところが両方の土地開発に基本的に大きな相違があったので後で、 大問題に発展して行ったのである。 舎人地区は現在の舎人団地の建設、一方新郷地区は工業専用地区としての新郷工業団地の建設、 この両団地が、僅か川幅が数mの毛長川で接し、工業団地の方は、騒音を発する企業、 震動を発する企業、煙を出す企業などなど、市街地で操業できない企業が逃れて来たし、 その様な企業を収容するために工業団地を建設する計画でもあった。 まだ当時工場規制・公害意識がゆるかったので、舎人団地に入居した住民は、住んで初めて 環境の厳しさを知らされたのである。 区に交渉に行っても、行政区域が東京都と埼玉県、地域行政が根本的に異なるために、 問題の解決の糸口すらない状態であった。 とりあえず緑地地帯を設けることだけであったが、木を植えても直に成長するわけではない。 40年近く経ち、企業の公害意識・規制意識も高まり、やっと最近緑が茂る緑地地帯に なったが、まだ満足の状態ではないようだ。 縄張り意識、独善意識、今でもこのような問題が、日本全国あっちでも、こっちでも、 大問題が起って解決出来ないで居るのであろう、行政間の話し合いなどは無いのだろうか??? 新郷工業団地から見た、舎人団地とバスターミナル。 境を流れる毛長川と遊歩道。 東京都と埼玉県の境を流れる毛長川と遊歩道。 右が舎人団地、左緑地で遮る新郷工業団地。 足立区役所の「歩こう あだち」パンフレットに記載されている、お立ち寄りポイントに、 「埼玉県との狭間に流れる三味線堀、足立区は23区の北に位置し、この辺りが最北端になる」 と記されています。 この堀が三味線堀、左が東京都23区の最北端、右にT字の堀がありブロック積みの向こうが 埼玉県川口市、T字堀のこちら金網フェンスが埼玉県草加市。 東京都23区の最北端の住居表示 横に三味線堀、縦にT字堀、右金網フェンスが埼玉県草加市で調整池、
左ブロック積みフェンスが埼玉県川口市。 調整池には沢山の野鳥が飛来して来るそうです。 三味線堀とT字堀、右が東京都23区の最北端、左が埼玉県草加市の調整池と 武田薬品物流センター倉庫。 埼玉県草加市の調整池、右側の調整池石垣が川口市との境、 前方住宅は足立区舎人で東京都23区最北端。 草加市のフェンス、野鳥観察窓から撮影、飛来する野鳥の種類が豊富とのこと。 |





