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江戸東京・都心 03 日比谷公園 案外身近に在りすぎて、詳しく知らない方が、多いのではないかと思います。 私もその一人です。 今まで日比谷公園には何度も何十度も来ていますが、殆んど素通りで、 何も見ていなかったことに気付きました。 日比谷公園は、幕末までは松平肥前守などの屋敷が置かれていたが、明治初期には 宮城(皇居)を警護する陸軍・近衛師団の練兵場であった。 その後、本田静六により「都市公園」として計画・設計・造成され、 明治36年(1903)6月、日本で初めての洋式庭園の近代公園として開園した。 今日に至るまで、関東大震災、太平洋戦争による改修等を行なってきたが、 心字池、第一花壇、雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っている。 (公園説明板より) 本田静六=(1866−1952) 日本の林学博士、造園家、「公園の父」といわれた。 東京・日比谷公園、北海道・大沼公園、福島・鶴ヶ城公園、埼玉・羊山公園、 東京・明治神宮、石川・卯辰公園、福岡・大濠公園など明治期以降の大規模公園の 開設・修正にたずさわった。 埼玉県比企郡菅谷村が京都・嵐山の風景に似ていたので、「武蔵嵐山」と命名したことが、 後の嵐山町誕生になった。 (出典Wikipedia) 福羽逸人(ふくば はやと)=日比谷公園西洋花壇の設計者。農学者、造園家、園芸家。 宮内省宮廷園芸技師として品種改良など多くの貢献したほか、新宿御苑などの 宮内省管轄の庭園の整備、須磨離宮の庭園設計、栗林公園、日比谷公園西洋花壇の設計などに あたった。 (出典Wikipedia) 日比谷公園開園当時の時代背景は、 明治22年(1889)大日本帝国憲法・皇室典範が公布され、 翌23年に第一回帝国議会が開催された。 明治27・8年(1894−5)の「日清戦争」に勝利し、「下関条約(日清講和条約)」が 調印された。 その条約は、1清国は朝鮮が独立自主の国であることを承認し、 2遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲し、 3賠償金を支払う ということであった。 これで日本は朝鮮に対する植民地支配の足場を築き、巨額の賠償金は軍備増強の財源となり、 工業立国に転化する基盤となった。 しかし講和条約締結後、ドイツ・フランス・ロシア3国から遼東半島返還の勧告覚書が 日本に提出され、所謂「3国干渉」と呼ばれるものであり、 日本の遼東半島進出は、ロシアにとって極東利権を脅かされることで、 戦争も辞せず との強い姿勢で、干渉してきたので、日本は圧力に負け遼東半島を返還した。 ところがその遼東半島をロシアは清国から租借し、旅順・大連の軍事基地化を強化した。 これがきっかけで、日本は軍備強化に連動して、 ついに明治37年(1904)「日露戦争」が始まった。 日比谷公園の開園は、正に日露戦争開戦の前年であった。 日比谷公園は野外博物館です。 前置きが長くなりましたが、では、ご一緒に歩いて、その魅力をご紹介します。 日比谷見附跡と心字池 石垣は江戸城外郭城門の一つ「日比谷御門」の一部で、 城の外側から高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら)・番所の順に石垣で囲まれていたが、 石垣の一部だけが残っている。 当時、石垣の西側は濠となっていたが、公園造園時にその面影を残し、「心字池」とした。 全体を上から見ると「心」の字を崩した形をしていて、このような池を「心字池」といい、 禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的手法のひとつ。 (案内板より) 日比谷見付石垣の上から見た、日比谷濠から馬場先濠の日比谷通りビル街の景観、 公園入口と日比谷交差点、石垣上からの心字池の景観、そして心字池周遊散策道の景観。 この心字池は開園当時の面影をそのまま残しているという。 東京の都市に残る江戸の貴重な景観。 |
散策・江戸東京・都心
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江戸東京・都心 02 桜田門 二重橋前の広場から桜田門を抜け、霞ヶ関官庁街に行く。 安政7年(1860)に、時の大老・井伊直弼が、この桜田門を出たところで、 水戸藩の浪士らに行列を襲撃され、暗殺された事件現場(現在の桜田門交差点)であり、 この事件が明治維新の遠因につながるのであった。 警視庁庁舎 桜田門の前が警視庁庁舎、 その後向に合同庁舎2号館(警察庁・国家公安委員会・総務省・消防庁・国土交通省)が続く。 あたかも幕府大老・井伊直弼の、暗殺現場を見下ろすが如き場所にある。 重要文化財・法務省旧本館 この建物は明治政府が招聘したドイツ人建築家へルマン・エンデとウイルヘルム・ベックマンの 設計により、実施設計・工事監理に河合浩蔵が参画し、 旧司法省庁舎として明治28年(1895)に完成した。 大正12年(1923)の関東大震災では、レンガ壁が鉄材で補強されていたので、 ほとんど被害を受けなかった。 昭和20年(1945)の東京大空襲により、レンガ壁を残して焼失した。 屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事を行い、昭和25年(1950) 法務省本館として再び利用した。 中央合同庁舎第6号館の完成に伴い、村松貞次郎、堀内正昭の監修のもと創建時の姿に復原し、 法務総合研究所及び法務図書館として活用されることになった。 この建物は本格的ドイツ・ネオバロック様式の概観に特徴があり、 都市景観上貴重な歴史的価値の高いものとして、1994年重要文化財に指定された。 皇居周辺の景観にマッチし、よき明治の時代をただよわせる、重厚・荘重な美しさである。 中央正面の表門の左右には、レンガの門柱と丸帽子を被ったような屋根の守衛詰所。 正面玄関の上に、形の異なる2階3階のバルコニー。 レンガの壁が一段と美しく調和している。 後ろの高層建築は 合同庁舎6号館(法務省・公安調査庁・最高検察庁・東京高等検察庁・東京地方検察庁) 桜田門交差点(桜田通りと晴海通り交差点) 法務省旧本館の前は、桜田通りを挟んで、警視庁庁舎。 法務省旧本館の後ろの建物は、 右から合同庁舎6号館(東京簡易裁判所・東京家庭裁判所・公正取引委員会)と(弁護士会館) 法務省旧本館の隣側建物は、 裁判所合同庁舎(東京高等裁判所・東京地方裁判所・知的財産高等裁判所) |
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江戸東京・都心 01 二重橋 皇居前広場から西丸大手橋(手前の正門石橋)を渡り正門に、 正門から奥の西丸下乗橋(奥の正門鉄橋)を渡り宮殿に入る。 奥の鉄橋と手前の石橋、2つの橋が重なって見られる城は、全国的にあまり例がなく、 通称「二重橋」といわれる。 また、皇居は昔「宮城」とよばれ国民統合の象徴とされ、 式典などのとき必ず宮城遥拝・国歌斉唱・国旗掲揚・国旗敬礼がなされた。 GHQ(General Head Quarters 連合国総司令部) 昭和20年(1945)8月15日に終戦。 連合国軍の進駐、最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に8月30日に降り立ち、 9月になるや大挙して東京に進駐、この付近一帯のビルというビルは、ほとんど全て接収された。 この第一生命本館ビルは、連合国総司令部GHQとなり、星条旗が毎日必ず翻り、 日本の占領政策が直ちに施行された。 昭和20年9月15日から、この6階の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥執務室から 次々と指令が発せられた。 重大指令は、 昭和20年10月4日、人権指令 治安維持法などの廃止、政治犯の釈放、特高警察職員・内務大臣などの罷免、 天皇制批判の自由などが指令される。 昭和20年10月11日、5大改革指令 1婦人解放、2労働組合の助長、3教育の自由化・民主化、4秘密的弾圧機構の廃止、 5経済機構の民主化 を優先的に実施するよう指令。 昭和20年12月9日、農地解放指令 不在地主の土地を小作人への売却、不耕作地主の土地買い上げなどの立案を指令。 昭和21年6月28日、第2次農地改革指令 地主の抵抗が強かったので、第2次改革指令が行なわれ、小作地の80%が開放せれた。 昭和20年12月17日、婦人参政権公布(衆議院議員選挙法改正公布) 昭和21年1月4日、公職追放令 軍国主義的・超国家主義的政治指導者の立候補制限。 政界、官界、財界、言論界、労働・教育界にも適用された。 昭和21年11月3日、日本国憲法公布 このような事実を記憶する人は少なくなったが、此処「二重橋」と「第一生命本館ビル」が 日本の歴史の重大な転換、政治・統治・支配権の大転換がなされた重要な場所である。 GHQの日本改革の内容は、一言で民主的平和国家の建設であった。 (高層建築は2000年以降になってからの建設である、 ) |


