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江戸東京・山手 12 国立霞ヶ丘競技場 昭和39年10月10日に開催された第18回東京オリンピック競技大会の メーンスタジアムが、この国立霞ヶ丘競技場である。 明治公園の中央に中央広場があり、近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵と、 日本の近代柔道の創始者嘉納治五郎の記念碑2基が、広場の左右中央に立っている。 正面の国旗掲揚ポール下の壁には、1964年第18回東京オリンピック競技大会開催を 記念する大理石板がはられ、左右に各競技の、そのときの優勝者の名前が、やはり大理石板に 刻まれ、はられていた。 東京オリンピック関連記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/21224736.html この競技場は、現在多目的に利用されている。 |
散策・江戸東京・山手
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江戸東京・山手 11 与謝野鉄幹・晶子夫妻 前回、与謝野鉄幹・晶子夫妻は雑誌「明星」を通じて、文芸活動を最も華々しかった頃の 明治37年、晶子が長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表し、非難、投石を受け 渋谷から逃げるように立ち退き、千駄ヶ谷の地に逃げ延びてきたことを紹介しましたが、 この詩を発表すること事態は、恐らく大変勇気のいることであったと思う。 この詩を発表したときは、日露戦争が始まり、まさに日本国中の人々が高揚していたときである。 恐らく毎日のように、戦地に赴く将兵を、歓呼の声で送り出し、 戦勝を祈願して意気高揚していたときでもあった。 出征する兵士は、競って武功を立てるべく、また戦死すればこれも誉れと覚悟して出征していた。 現在の日本人には到底想像ができない、理解が出来ない事柄であると思う。 晶子はこの様なとき、あえて反戦の歌とも取れる詩を発表し、 世間の中傷に巻き込まれたのであった。 では晶子は反戦に徹した思想の持ち主であっただろうか? 晶子の詩にこれ以外は登場していない。 ただ、弟の出征に、素朴に思い、それを口に出し、素朴に書き写し、発表しただけだと思う。 発表して初めて、世間の反応に驚き、たじろいだのだと思う。 しかし、明治の時代であったから、まだ世間は寛大であった。 若し、晶子が昭和10年代の人で、昭和10年代にこの詩を発表していたなら、 どうなったであろう。 現代の日本人にはとても想像できないであろう。 事実この詩は長い間、凍結され、存在すら明かされなかった。 この詩を知ったのは、終戦後大分経ってからであった。 若し、晶子の「君死にたまふこと勿れ」を昭和10年代に発表したら、恐らく重罪を課せられ、 小林多喜二「蟹工船」のように獄中で拷問を受け、獄死していたことであろう。 それほど、当時の社会は、想像以上に厳しいものであったことを伝えておきます。 前にも触れたが、ドラマ「おしん」でおしんがこの詩を意味もわからずに暗記した、 将来判るであろうと。 皆さんはあまり深くは考えなかったと思いますが、 あの背景は非常に厳しい社会情勢であったということです。 与謝野鉄幹の詩に、年配者なら誰でも知っている詩「人を恋うる歌」があります。 かつての第一高等学校や第三高等学校の寮歌として歌われてきた。 この詩はやはり,現代人には難解。 詩を深く理解するためには、古今東西の歴史、人物、背景を知る必要がある。 人を恋うる歌 与謝野鉄幹 妻をめとらば才たけて みめ美わしく情けある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱 恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ 友の情けをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む 汲めや美酒うたひめに 乙女の知らぬ意気地あり 簿記の筆とる若者に まことの男君を見る ああわれダンテの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず 人やわらわん業平が 小野の山ざと雪をわけ 夢かと泣きて歯がみせし むかしを慕うむら心 見よ西北にバルカンの それにも似たる国のさま あやうからずや雲裂けて 天火一度降らんとき 妻子を忘れ家を捨て 義のため恥を忍ぶとや 遠くのがれて腕を摩す ガルバルディや今いかに 玉をかざれる大官は みな北道の訛音あり 慷慨よく飲む三南の 健児は散じて影もなし 四度玄海の波を越え 韓の都に来てみれば 秋の日かなし王城や 昔に変る雲の色 ああわれ如何にふところの 剣は鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて かなしき歌の無からめや わが歌声の高ければ 酒に狂うと人のいう われに過ぎたるのぞみをば 君ならではた誰か知る あやまらずやは真ごころを 君が詩いたくあらわなる 無念なるかな燃ゆる血の 価少なき末の世や おのずからなる天地を 恋うるなさけは洩らすとも 人をののしり世をいかる はげしき歌をひめよかし 口をひらけば嫉みあり 筆を握れば譏りあり 友を諫めに泣かせても 猶ゆくべきや絞首台 おなじ憂いの世に住めば 千里のそらも一つ家 己が袂というなかれ やがて二人の涙ぞや はるばる寄せしますらおの うれしき文を袖にして きょう北漢の山のうえ 駒立て見る日の出づる方 明治公園 東京都体育館の背後の低地に細長く明治公園がある。 ここにある道路が、外苑西通りである。
この周辺一帯は、もと紀州徳川家下屋敷の一つで、明治20年に明治天皇がここに行幸され、 流鏑馬行事を天覧されていたと言う。 昭和39年10月10日東京オリンピックが開催され、この明治公園にある 国立競技場がメイン会場となった。 前方が国立競技場、右側に中央広場 外苑西通りを渡る「明治公園橋」 東京都体育館と国立競技場を結ぶ橋 外苑西通り。 前方、首都高速4号線とJR中央線。 国立競技場中央広場、外苑西通り、東京都体育館裏手。 紅葉の明治公園と外苑西通り |
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江戸東京・山手 10 千駄ヶ谷駅周辺 と 東京都体育館 千駄ヶ谷駅前には、東京都体育館がどっしりと存在する。 体育行事に、各種イベントに、ここには大勢の観客が押し寄せる。 然し今日の周辺は、とても静かである。 銀杏並木は、黄金色の葉を殆ど落とし、残された枝が青い天空を突く。 代々木方面に歩く。 昔、津田スクールオブビジネスは津田塾大学。 千駄ヶ谷駅のこの周辺一帯は、もと紀州徳川家下屋敷の一つで、 明治20年に明治天皇がここに行幸され、流鏑馬行事を天覧されていたと言う。 東京都体育館正面 銀杏並木と東京都体育館正面。 千駄ヶ谷駅前交差点。 銀杏並木と右上は首都高速道路4号線。 代々木方面に。 銀杏並木と津田塾大学及び東京都体育館 津田塾大学。 この線路下をくぐる道路は「新宿御苑」の裏門に抜ける道。 この道路は江戸時代武家屋敷があり、六軒町通りと呼ばれ江戸時代のままで、 下級武士の家が密集していた所と言う。 「新宿御苑」裏門。 この道路の少し先に、「新井白石終焉の地」がある。 新井白石=六代将軍徳川家宣、七代将軍家継に仕えた儒官。 学者としては珍しく政治の中枢に参加したが、八代将軍吉宗が就任すると失脚し、 官邸は没収、千駄ヶ谷のこの地を与えられた。 享保6年(1721)ここに移った白石は、友人室鳩巣に 「周囲は青々とした麦畑で淋しいところだ」と書き送っていた。 かつての栄光の座を思い浮かべながら失意の日々を送ったのであるが、 晩年の大作「史疑」20巻を完成し、翌年「采覧異言」の修訂を終え 享保10年(1725)に没した。 東京都体育館の横。 千駄ヶ谷駅に通じる歩道は、右側に体育館を回りこんで、体育館正面玄関を通り駅に。 写真正面に超高層ビル・NTTドコモ代々木ビルと、その後ろに新宿超高層ビル群 東京都体育館の裏手。 千駄ヶ谷駅に通じる歩道。 東京都体育館裏手のある、運動場。 露地の向こうに突然現れた超高層ビル・NTTドコモ代々木ビル。 千駄ヶ谷駅前を真直ぐに進む道、津田塾大学の裏手の露地。 道路の奥正面は千駄ヶ谷駅、道路右側・東京都体育館、道路左側・津田塾大学及び住宅街。 東京都体育館裏手の道。 体育館裏手の道の次に5差路がある。 この5差路を代々木の方角に曲がると、「萩の屋跡」がある。 明治37年11月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が渋谷村中渋谷(現在の渋谷区道玄坂付近)から、 ここ千駄ヶ谷大通(現在千駄ヶ谷1丁目)に移り住んだ。 明治37年は日露戦争が始まった。 与謝野鉄幹・晶子夫妻は雑誌「明星」を通じて、文芸活動が最も華々しかった頃である。 晶子は長男光くんをおんぶして、弟の出征を見送りに、そのころ山手唯一の出征軍人見送り駅で あった渋谷駅に行った。 そして弟のことを思いやって、長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したのである。 日露戦争で人々が高揚しているときで、この長詩を大町桂月から乱臣賊子とよばれ、 それに雷同する人々の非難、投石などから逃げるように、急いで渋谷を立ち退いて、 千駄ヶ谷のこの地に逃げ延びたのである。 この「君死にたまふこと勿れ」は NHKドラマ「おしん」に出てきた。 おしんが、奉公先から家に帰りたい一心で、抜け出し雪の峠を越えるうちに凍え、 猟師に身をやつした脱走兵に助けられ、そこで読み書きを習う中、おしんがこの詩を暗記する。 やがて脱走兵は発見され射殺されてしまうドラマストーリーがあった。 君死にたまふこと勿れ (旅順の攻囲軍にある弟宗七を嘆きて) ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふこと勿れ。
末に生まれし君なれば 親のなさけは勝りしも、 親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや。 堺の街のあきびとの 老舗を誇るあるじにて、 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふこと勿れ。 旅順の城はほろぶとも、滅びずとても、 何事ぞ、君は知らじな、あきびとの 家の習いに無きことを。 君死にたまふこと勿れ。 すめらみことは戦いに おほみづからは出でまさね 互に人の血を流し、 獣の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉れとは、 おほみこころの深ければ、 もとより如何で思されん。 ああ、弟よ、戦いに 君死にたまふこと勿れ。 過ぎにし秋を父君に おくれたまえる母君は、 嘆きのなかに、いたましく、我子を召され、家を守り、 安しと聞ける大御代も 母の白髪は増さりゆく。 暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや、思えるや。 十月も添はで別れたる 少女ごころを思いみよ。 この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき。 君死にたまふこと勿れ。 |
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江戸東京・山手 09 JR中央線・千駄ヶ谷駅 身近な存在でありながら、普段それに気付かず、在る時ホット気が付いて、 感動することがありますよネー。 千駄ヶ谷の駅に降り立って、まさしくアッと思った。 いつも何気なく通り過ぎていた駅。 この駅に降りたのは、ハテ何年前であったろうか?? トイレに行こうとして、気が付いた。 人出の多いときには、臨時のホームで、上下線が別ホームに成るんだ!! 何時から?? 気付いていたような、いなかったような?? アレアレ正に浦島太郎。 JR中央線・千駄ヶ谷駅ホーム JR総武線の各駅停車緩行下り・三鷹行き電車の到着
JR中央線・快速線 花壇・塀の向こう側が「新宿御苑」の緑地。 千駄ヶ谷駅ホームにある水のみ場 将棋の駒「王将」の裏側に駅の由来が書かれていた。 何故将棋の駒は「王将」なのか??? 千駄ヶ谷は寛永年間の頃は見渡す限りの茅の原だった。 毎日千駄ノ茅を刈り取ったので、この名が起ったとも言われる。 また、江戸城を築いた大田道灌が、この辺りを見回ったとき、 谷間に植えられている稲が千駄もあったので、千駄ヶ谷と名付けたとも言う。 渋谷からこの界隈は谷が多かったという。 千駄ヶ谷駅前風景 駅前の上を首都高速4号線が通り、「外苑」出入口付近。 六本木方面行きの渋谷区の「コミュニティバス」 「新宿御苑」裏口に抜ける道路より、JR千駄ヶ谷駅。 総武線緩行・下り三鷹行きが千駄ヶ谷駅ホームに、中央線快速・上り東京行きが通過中。 総武線緩行・上り千葉方面行きが千駄ヶ谷駅ホームに、 中央線快速・下り新宿―八王子方面行きが通過中。 |
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江戸東京・山手 08 新宿東口の夜景 今年も、あと15日を残すのみ。 世界恐慌で大変な世の中に成り、人も企業も今年の暮れが、越せるの越せないのという、 非常事態になってしまった。 失業はするワ、就職が出来ないワ、内定取り消されたワ、寮を追い出されるワ、・・・・・ いろいろあって大変ダー。 少ないボーナスでも出ればアリガタイ。 ニュースは大変深刻に報道している。 昨日、新宿に行った。 それでも、年の瀬であれば、大変な人出だろうと思ったが、やはり今年は寂しいようだ。 暮れのセールも掛け声だけのようだ。 いつもの年なら今頃、新宿はゴタゴタと人で溢れている。 寒さばかりが、身に沁みる。 12月半ばなので、夕方5時と言うと、もう暗い。 駅前の木に取り付けた、ライトばかりがチラチラと光を放っていた。 昔は、クリスマスだ!!年の暮れだ!!と騒々しく「ジングルベル」の曲が 鳴り響いていたものだったが、今年はそれも聞かれない?? 騒音規制でもあったのか??? ここ数年、新宿の年の暮れに、出かけてなかったから!! 新宿東口駅前、 新宿追分バス停・新宿伊勢丹前より新宿駅東口方向、 新宿3丁目交差点より新宿御苑方向、三菱銀行・JTB 新宿3丁目交差点より新宿駅東口方面、新宿伊勢丹 |





