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江戸東京・山手 52 小泉八雲旧居跡 新宿区指定史跡 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン1850−1904)は、ギリシャ・レフカダ島の生まれ。 明治24年(1891)熊本大学の前身の第五高等中学校(明治27年第五高等学校と改称)の 英語の教師として、島根の松江中学校から赴任し、3年間熊本で暮らした。 日本女性と結婚、長男が熊本で誕生。 熊本の風土と学生との親近感は、やがて日本を世界に紹介「知られぬ日本の面影」「東の国から」 などの著書は、熊本での生活から生み出された。 熊本で最初に住んだ家は、今八雲記念館として当時の面影そのままで保存されている。 明治29年(1896)東京帝国大学文学部の講師として招かれ、この地は東京で初めて 居を構えたところ。 その後も数多くの作品により、日本の姿を欧米に紹介した。 「異国情緒と回顧」に見られるように、隣接する自証院の風致をこよなく愛し、 緑深い境内を散歩していたが、開発により自然が失われてゆくのに心を痛め、 明治35年(1901)5年間住み慣れたこの地から、武蔵野の面影の残る 豊多摩郡大久保村西大久保(現・大久保1丁目)に越した。 「小泉八雲旧居跡」の碑は八雲生誕百年を記念し昭和25年に有志の手で建立。 「小泉八雲旧居跡」の碑は成女学園高・中校の裏門敷地にある。 「小泉八雲旧居跡」の碑は靖国通り「市ヶ谷富久町」バス停(写真バス停車位置)の上にある。 靖国通り 歩道橋より市ヶ谷、靖国神社方面を望む 靖国通り 歩道橋より新宿方面を望む 二葉亭四迷旧居跡 新宿区指定史跡 二葉亭四迷(1864−1909)が、明治13年東京外国語学校ロシア語科に入学し、 寄宿舎に入るまで過ごしたところで、父の実家水野邸が建っていた。 二葉亭四迷は本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として市ヶ谷本村町・尾張徳川家上屋敷 (現在の自衛隊駐屯地)の中で生まれた。 少年期政治色の濃いロシア文学の影響を受け、東京外国語学校ロシア語科に入学するが中退し、 坪内逍遥の指導で創作を始める。 明治20年(1887)言一致体の文章で最初の小説「浮雲」を発表し、 さらに「あいびき」「めぐりあい」などのロシア文学を翻訳して、 日本の近代文学建設のさきがけとなる。 明治41年(1908)朝日新聞の特派員として渡露するが、不運にも着任早々やまいにおかされ、 翌年帰国の途中病死した。 文学者として3篇の創作といくつかの翻訳しか残さなかったが、真理を追究し、 近代リアリズムと「言文一致」の主張によって近代文学の基礎を築いた功績は大きい。 二葉亭四迷旧居跡を、探して、探して、諦めかけたとき忽然と現れた。 こんな状態だったので、この前を何度も通り過ぎた。 おかげで教会を見つけた。 この辺りは須賀町から僅かな距離の隔たりだが、寺院などより教会が似合う、 地域の雰囲気が感じられる場所であった。 東京若葉キリスト教会 若葉1−16 東京若葉キリスト教会は、学習院初等科校舎の裏、道を挟んで隣にあり、 四谷見附公園の脇にある教会。 毎日曜午前10時半に礼拝が行われる。 牧師 春山逸郎師 日本基督教団 四谷新生教会 四谷1−14 二葉亭四迷旧居跡の角を曲がったところにある。
というより二葉亭四迷旧居跡は、この新生教会の四谷中学よりの道路にある。 この教会は由緒ある教会のようである。 |
散策・江戸東京・山手
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江戸東京・山手 51 瑞渓山祥山寺 四谷2−1 新宿通り四谷2丁目と3丁目の中間に若葉1丁目に通ずる円通寺坂がある。 新宿通りから円通寺坂を下って、左側に祥山寺がある。 祥山寺は以前紹介した忍者地蔵のあるところであるが次のような話がある。 祥山寺は、明治19年(1886)四谷塩町笹寺の住職・武村秀学など3・4名が発起人になって、 四谷区内50余寺院と相談し、基金500円ばかり集め四谷三宝義団を設立し、 安珍坂下の妙行寺に共立友信学校と名付け、祥山寺の小島栄年が教師となって、 鮫河橋(若葉町)辺りの貧しい子弟を教育するため学校を開いた。 書籍・学用品を給与したので、生徒が思いのほか増加した。 そこで妙行寺では狭いので、全勝寺に移して学校を経営するが、3年ほどで500円の基金を 使い果たしてしまい、各寺院が毎月の経費を負担することにしたが、それも長くは続かなくなり、 明治24年(1891)ついには廃校になった。 父兄はひどく落胆し、小島氏に学校再興を再三にわたり懇願し、四谷区内の有志と計り、 300人の賛同を得て、毎日3銭づつの寄付を仰ぎ、祥山寺に再び学校を開くことに成った。 これが三銭学校の由来であり、4・50人の子供の教育を明治34年(1901)頃、 小学校義務教育が始まるまで続けたという。 日蓮宗・妙行寺 若葉2−4 祥山寺の記載に、明治の時代に義務教育がまだ成されなかった時に、四谷区内の寺院共同で 共立友信学校を開き、子弟の教育の学校を妙行寺に開いたが、じきに手狭となって 舟町の全勝寺に移したという。 全勝寺の記事は 江戸東京散歩・山手 28 全勝寺 記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/23659870.html 日蓮宗・大黒山円通寺 須賀町2 円通寺坂の祥山寺斜向かい右側に円通寺がある。 寺の前の坂に、円通寺坂と寺名を付けられたほどの、由緒ある寺と思われるが、 現在はこの様に近代的な建物に建設されている。 浄土宗・五劫山法蔵寺 四谷2−2 法蔵寺は祥山寺の隣にある。 四谷の地は戦災に遭い、この地蔵は戦災の劫火をくぐったものと思われる。 法蔵寺第21世住職飯田観隆氏は、先の大戦に赤坂東部6部隊に昭和18年入営出征し、 中支那・南京上海経由し、仏領サイゴンから北ビルマへ進軍、英印支連合軍と対峙 激烈な戦闘を交える。 昭和20年8月15日終戦、その後抑留生活を送り昭和21年7月帰還。 戦友会を結成し此処に記念碑を建てる とある。 |
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江戸東京・山手 50 家康の北の守り・毘沙門天がある日蓮宗・平等山本性寺 日蓮宗・平等山本性寺は下総国小金宿平賀(千葉県松戸市)の本土寺の末寺で、 家康が江戸入府に従い三河の郷士・三田佐兵衛尉守綱が麹町の隠居所を、 寛永18年(1641)観智院日泳上人に譲渡し、三田氏の没後の寛文10年(1670)に その菩提を弔うため本性寺が建てられた。 この山門と正面の昆沙門堂は戦災に焼け残った四谷では数少ない貴重な建築物で、 総ケヤキ釘一本使わない、切組造り手斧削りの元禄時代頃の建造とされる。 毘沙門堂に安置されている毘沙門天像は、もと江戸城本丸にあったもので、 大田道灌時代から伝わるものとされ、五代将軍綱吉の側室・春麗院の発願により、 堂ともども本性寺に寄進された。 この像は別名「北向き毘沙門天」といわれ、 徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神毘沙門天を北向きに安置して 祈願したという伝説がある。 以後は江戸庶民の崇敬を集め、福運財運のご利益が顕著な開運毘沙門天として、 厚く信仰をされている。 本性寺の山門 本性寺の毘沙門堂 本性寺の本堂 萩原宗固の墓 新宿区登録史跡に指定 江戸時代中期の国学者・歌人の萩原宗固(1703−84)の墓地。 平成16年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられた。 宗固は市ヶ谷本村町の鈴木家に生まれ萩原家の養子となった。 幕府の御先手与力を勤めたが、病により辞職した。 享保から天明年代(1716−80)に国学者・歌人として活躍し、 門人に国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や、 老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。 特に塙保己一は「群書類従」の編纂に宗固の蔵書類を参考にするなど、 大きな影響を与えたという。 宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど新宿とのつながりの深い学者であった。 82歳で没し、著書に「一葉集」「蜻名遺伝」「蜻鈴日記注釈」などがある。 和歌は冷泉為村に学び、次のような名吟がある。 「夢中郭公」(ほととぎす) 「夢なれや 枕ならべて ねし人も きかぬ初音の ほととぎす」 関連記事 江戸東京・山手46 前総検校・塙保己一先生之墓のある愛染院 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/24675995.html 本性寺にある萩原宗固一族の墓 萩原宗固の養父母の墓 萩原宗固一族の墓 (右側に宗固の戒名) 真言宗豊山派・金剛山 蓮華院 顕性寺 奈良桜井の長谷寺の末寺 本尊・大日如来 宗祖・弘法大師空海 顕性寺は本性寺の右隣に位置する。 正妙山 法恩寺 法恩寺は本性寺の左隣に位置する。
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江戸東京・山手 49 於岩稲荷の日蓮宗・陽運寺 江戸時代の文政8年、歌舞伎戯作家・四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は大評判となり、 「お岩」は庶民から畏敬され、この陽運寺は由縁の所として多くの参詣者が訪れるが、 戦災に遭い焼失したので、栃木下野の薬師堂を移築再建した、その棟札には宝暦7年とある。 於岩の戒名は得証院妙念日正大姉、墓は鮫ヶ橋にあったが、現在は巣鴨新庚申塚にあり、 この堂には於岩尊像を祀り、参拝者祈願の対象となり、境内には由縁の井戸、再建記念碑がある。 於岩稲荷の日蓮宗・陽運寺の山門
栃木下野の薬師堂を移築再建した霊堂。 棟札には宝暦7年とあるという。 於岩尊像が祀られている。 参詣者が多く、願掛け絵馬、おみくじが納められている。 於岩稲荷霊神が祀られている。 右には「於岩様誕生之地」と刻まれている古い石柱、苔生している。 左は由縁の井戸がある。 於岩稲荷霊堂再建記念碑と心願成就の石。 於岩稲荷水掛福寿菩薩とお百度石 於岩様由縁の井戸で、御霊水として使われているという。 |
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江戸東京・山手 48 東海道四谷怪談・お岩稲荷の於岩稲荷田宮神社 文化文政に江戸文化は爛熟期を向かえ、歌舞伎は大衆の娯楽の中心になった。 田宮家の屋敷稲荷が「お岩稲荷」として信仰され評判であったので、 四代目鶴屋南北は「東海道四谷怪談」として書き、上演された歌舞伎は大当たり。 「お岩稲荷」はますます信仰され「於岩稲荷田宮神社」となり、 明治には京橋新川にも同神社ができた。 四谷左門町の田宮稲荷神社は昭和6年東京市史跡に指定された。 於岩稲荷田宮神社ついての記述から、 江戸時代初期、四谷左門町で健気に一生を送った女性「於岩」の美徳を祀ったが、 死後200年近く経ち、図らずも芝居の主人公になってしまった。 「四谷怪談」である。 では脚色されたお岩とは、 第1幕。 時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷。 於岩は徳川御家人・田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲の良い夫婦だが、 三十俵三人扶持で台所はいつも火の車。 家計を支えるためアルバイトに励み、庭にある屋敷社を信仰したおかげで、 蓄えも増えていった。 田宮家復活はたちまち評判になり、屋敷社には参詣者が来るようになり、 「於岩稲荷」といわれ家内安全、商売繁盛、無病息災、開運などと 江戸の人気を集めるようになった。 お岩という女性の美徳として信仰され、怨霊のかけらもなかった。 第2幕。 時は江戸後期 所は歌舞伎作家・鶴屋南北の書斎 お岩が死んで200年経つが、根強い人気に注目。人気の「於岩」の名前で歌舞伎にすれば、 大当たり間違いなしと見当をつけた鶴屋南北は、台本を書き付けた。 お岩が善人では面白くない。「お岩稲荷」から「お岩」の名前だけを拝借。 江戸で評判の事件を組み込んだ。 密通のため戸板に釘付けされた男女死体が神田川に浮かんだ事件、これを使おう。 主人殺しで処刑された事件、これも頂き。 姦通の相手にはめられた事件、これも頂き。 四谷左門町田宮家には怨霊がいたことにしよう。 江戸の人なら、誰でも記憶にある事件を、作家の空想力で書き上げ、脚本はできた。 舞台が四谷では露骨過ぎる。「お岩」の名前だけ借りれば充分。 南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」 四谷の於岩稲荷とは無関係な創作であることを示すことにした。 天才劇作家が創作したお岩の怨霊劇 第3幕。 時は文政8年(1825) 江戸文化華やかな時、寛政年間から始まった 幽霊物の読み本が最盛期、「東海道四谷怪談」の歌舞伎は大当たり。 お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎。 歌舞伎がますます於岩稲荷の人気を煽った。 あまりの人気に幕府も当惑、四谷塩町の名主・茂八郎に命じ、 町内の様子出来事をまとめさせ奉行に提出させた。 歌舞伎初演から2年後の事である。 第4幕。 歌舞伎の影響力は大きかった。 出演した役者が左門町於岩稲荷神社に参拝していた。 そのうちに参拝しないと役者が病気や事故が起こると話が発展、 怪談話で祟りがあるとの声も出た。 事故の原因は、怪談でトリックに凝り、道具立ても複雑、天井からの吊るし物も多い、 怪談話なので照明は暗い、そんな中で芝居するので怪我が多かった、それで「祟り」 第5幕。 時は明治以降、中央区新川 歌舞伎「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、 「四谷まで出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに 移転してほしい」という要望があり、 明治12年(1879)四谷左門町の火事で社殿焼失したのを機に、 隅田川の畔にあった田宮家の敷地に移転した。 現在の中央区新川の「於岩稲荷神社」で、新川の社は昭和20年の戦災で焼失したが、 戦後に四谷と新川ともども復活し、二つの稲荷神社がある。 ごひいき様の石柱の寄進 歌舞伎座、明治座、新橋演舞場、菊五郎劇団、吉右衛門劇団、市川寿海、中村歌右衛門、 中村時増、中村勘三郎、喜多村緑郎、花柳章太郎、村上元三、岩田専太郎、一龍斎貞山、 新橋・築地・新富町などのお茶屋、などなど |





