なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

散策・江戸東京・山手

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   江戸東京・山手 47
     日蓮集・日宗寺

   日蓮宗・日宗寺、この寺も麹町清水谷から移転してきた。
   淨行菩薩像が寺門の脇に安置されて参詣人も多いようである。

   日宗寺の向かい、真英寺の境内から望んだ日宗寺。 道路は深い谷間になっている。
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   淨行菩薩像、お身拭いをするとご利益があるという。
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   日蓮上人の銅像
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     江戸時代初期の歌人・北村季吟の孫の湖元、春水、李文ら一族の墓

   この寺の奥には、江戸時代初期の歌人・北村季吟の孫の湖元、春水、李文ら一族の墓がある。
   北村家家系図をしめせば、国学者・俳諧の家系で、その門下には芭蕉がおった。
      北村季吟――湖春――湖元――春水――季春――季文

   北村季吟 江戸前・中期の国学者・俳人。近江の人。号は七松子・落穂軒・湖月亭等。 
     俳諧を松永貞徳に、歌学を飛鳥井雅空章に学び、烏丸光広に推され幕府に仕官し、
     長男湖春とともに歌学方となる。 
     門下から芭蕉を出す。 和漢の学、仏学に精通、古文書の注釈に貢献した。
     法印に叙せられた。宝永2年(1705)没、82歳
   北村湖春 江戸前中期の国学者。 初号は湖長のち剃髪して湖春と改める。 
     幼児から父季吟に学び和歌にも通じた。父とともに幕府の歌学所に仕える。 
     法橋に叙せられる。 俳諧は初め父に、のち芭蕉に学んだ。
     「源氏物語忍草」等の編書がある。元禄10年(1697)没、53歳
   北村湖元 歌人湖春の子  和歌浦に補せられ、再昌院法印と号す。 
     寛延2年(1749)没 74歳
   北村春水  江戸中期の国学者・歌人。北村湖元の子。 
     家業を継ぎ、法橋に除せられた。明和5年(1768)没。55歳
   北村季文 江戸後期の国学者。 江戸生まれ季春の男。春水の孫。 
     国学を能くし、歌人としても優れていた。嘉永3年(1850)没、73歳

   江戸時代初期の国学者・歌人の北村季吟の孫の湖元、春水、李文ら一族の墓と
   「北村先生之墓」と碑文の書かれた碑
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   「北村先生之墓」と記され此処に碑文が長々と記されている。 
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     本草学の大家・栗本瑞仙院の墓。「瑞仙院楽吾居士」

   栗本瑞軒(ずいけん)は 宝暦6年(1756)−天保5年(1834)の人。
   幕府医官 医学・本草学日本産動物研究ほか。  
   著述に「千虫譜」文化8年がある。 天保5年没79歳

   松本清張著「天保図録」には、
    「徳川家斉の容態急変し、臨終のとき奥医師法印・栗本瑞仙院が脈をとっていた」
   と書いた。 徳川家記録により、松本清張は歴史小説を書いたのであるが、
   記録必ずしも事実を伝えているとは限らないが、しかし奥医師として栗本は出仕していたのは
   事実であったようだ。

   本草学=中国に由来する薬物についての学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が強い。
     本草学がまとめられるのは漢代と推定され「神農本草」が500年ごろ陶弘景により
     「神農本草経」「神農本草経集注」が大成され、以後唐・宋にかけて知識が補われ
     明末に李時珍が最も完備した「本草綱目」を完成した。
     日本には奈良時代に伝えられ、「本草和名」などが現れたが、
     江戸時代にもっとも盛んになる。貝原益軒の「大和本草」、稲生若水の「庶物類纂」
     小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などが現れ、さらに西洋博物学の影響も加わって
     多くの人がその発展に寄与した。 広辞苑より

   本草学の大家・栗本瑞仙院の墓。 一番高い墓石に「瑞仙院楽吾居士」とある。
   墓の前には、「日本医史学会 東京名墓顕彰会」という銘のある小さな石碑がある。
   一番前の新しい石碑。
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     真宗大谷派・真英寺

   四谷3丁目と2丁目の間にある円通寺坂から南方の若葉3丁目にかけて大きな谷があり、
   谷を挟む両台地上に寺院が多くある。
   元の谷底から一気に登ったところに真英寺はある。
   中段に境内の敷地があり、本殿はさらに上にあった。

   此処からの見晴らしは素晴らしい。四谷の地形がはっきりと判り、昔はやはり山谷があって、
   やはり「四ツ谷」であったのが判る眺めである。
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   中段に墓地がある。 真ん中を通る道路は、円通寺坂で昔の谷合を通る道で、
   四谷3丁目から曲がり下っている。
   道路は左に登って四谷3丁目方面に、右に更に下って若葉2丁目方面に。
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   江戸東京・山手 46
     内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓のある愛染院

   愛染院は真言宗豊山派・擉鈷山光明寺という。 
   墓地には内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓と国学者・総検校・塙保己一の墓がある。 
   どちらも新宿区指定史跡である。

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     内藤新宿の生みの親・高松喜六の墓

   東海道の品川宿、中仙道の板橋宿、日光街道の千住宿と並んで「江戸四宿」といわれ、
   内藤新宿は三宿に比べ100年後の元禄11年(1698)に開かれた新しい宿場であった。
   甲州街道の最初の宿場は高井戸で日本橋から4里(約16km)で、
   人・馬・物資流通が増え不便となったので、
   浅草阿倍川町の名主・高松喜兵衛(後に喜六と改名)が宿場設置許可を願い出た。
   大名の内藤氏の拝領の地だったので「内藤新宿」と名が付けられた。 
   新宿を開発し旅籠、遊興場所をつくり、利益を得ようとした。世は元禄時代、町人の力も高まり、
   勘定奉行萩原重秀の金銀貨幣の改鋳でインフレ、ワイロ横行の時代で、
   幕府に権利金5600両を納入したという。 
   高松は本陣を経営し、新宿の名主となり、盛り場として発展、今日の基礎をなした。

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     塙保己一  「前総検校塙先生之墓」

   江戸時代中期の盲目の国学者で、和学講談所を設立「群書類従」の編纂で名高い。
   埼玉県児玉郡保木野村に生まれ、5歳で病にかかり7歳で失明し、
   13歳のとき江戸・雨富検校須賀一の門下となり、本姓塙をもらった。 
   優れた記憶力を認められ学問を許され、国学、漢学、和歌、医学などを学んだ。
   特に国学は加茂真淵に学び造詣を深めた。天明3年(1783)検校になり、
   水戸藩の「大日本史」の校正などたずさわり、文政2年(1819)「群書類従」を完成、
   文政4年総検校となり、その後「続群書類従」の編纂半ばで没した。 
   業績は、宇多天皇以来の史料450巻を編集、「群書類従」は1270種、530巻。
   「続群書類従」2103種、1150巻を編集している。 
   これらは歴史、日本文学研究にはなくてはならない貴重な書物で、
   塙保己一の功績は不朽のものであり、この版木は現在渋谷の温故学会に残されているという。
   はじめ安楽寺に葬られたが明治に廃寺となり、愛染院に改葬された。

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     豆腐地蔵の東福院

   豆腐地蔵の東福院は新義真言宗・宝珠山・東福院と号する。
   愛染院の真向かいにある。  
   右手の先が欠けた地蔵は、
   伝説に「裏であくどいことをしている嫌われ者の豆腐屋に、地蔵が懲らしめのため
   豆腐を買った代金をシキミの葉に変えてしまった。 
   男は怒り、坊主に化けた地蔵の手を切ってしまった。 
   血の跡を追いかけ東福院の門の中で、地蔵が笑いながら立っていた。 
   男は驚き罪を悔い、地蔵堂を建て信仰した」という。

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   江戸東京・山手 45
     信玄との三方ヶ原合戦で敗走中の家康を助けた、槍の半蔵の墓のある 西念寺

   服部半蔵は、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康16将の一人に上げられる。
   元亀3年(1572)武田信玄との三方ヶ原の戦いに徳川家康は敗れ、
   敗走中の家康を得意の槍で助け「槍の半蔵」といわれた。 
   天正18年(1590)小田原攻めで功を上げ知行8千石を賜った。 
   本能寺の変で織田信長が討たれた時、家康主従は堺にいたが半蔵の指揮する伊賀者たちにより
   山越えし、無事領国へと導いた。 
   後に家康江戸入城後は、江戸城西門(半蔵門にその名を残す)に屋敷を拝領、与力30騎、
   伊賀同心200人を支配し江戸城の警護に当たった。

   徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)は、今川氏の人質として駿府で過ごし、
   永禄10年(1567)岡崎に帰り、織田信長の娘を娶り岡崎城主となったが、
   天正7年(1579)武田勝頼と内通したとの嫌疑がかかり、切腹を命じられた。 
   このとき服部半蔵は介錯役を果たせず、後に信康供養のために出家し、
   麹町清水谷に庵を建て西念と号した。

   西念寺には半蔵愛用の槍が保存されている。
   服部半蔵の墓、信康の墓、半蔵の槍は新宿区指定文化財、歴史資料に指定されている。

   西念寺本堂
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   服部半蔵の墓
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   徳川信康の墓
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   西念寺の裏は観音坂で、真成院が坂を挟んで隣であった。
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     忍者地蔵の祥山寺

   円通寺坂の中ほどにある。忍者寺として知られる。 
   江戸時代この辺に伊賀組の人々が居住していた町で、
   忍者地蔵は彼らの霊を供養したものといわれている。 
   貧しい生徒のために三銭学校の跡でもある。

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   江戸東京・山手 44
     江戸33観音の中の第18番・汐干観音の真言宗・真成院

   若葉2丁目7番
   本尊は潮干十一面観音菩薩像で、潮干観音とも汐踏観音とも呼ばれている。 
   潮の満ち引きで観音が湿ったり乾いたりするので、この名がついたと言われている。

   四谷は名の通り、谷が多い。 
   その昔の谷に目抜きの生活道路ができていて、生活場所は丘の上にある。 
   そのような形態から道路には坂が多い。 何処に行くにも、この坂を越えなければならない。 
   寺院・神社を巡りまわって、初めて四谷の土地がこれ程までに、坂が多いとは知らなかった。 
   見上げたら、寺のような建物を見つけた。 真成院(左側)と信寿院(右側)である。

   また、この辺須賀町、若葉1−3丁目には神社、寺院が多く、隣から隣へというように
   立ち並んでいる。
   これは江戸城の拡張工事や江戸の火災で、集団で移転して来た為と言われている。 
   寛永年間ごろが一番多いと言う。

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   観音坂と名付けられた急勾配の坂である。 真成院はこの途中に、入り口があった。
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   地蔵菩薩像と稲荷神社が祀られた中庭
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   おびんずる尊者も安置されていた。
   御寶頭盧(おびんずる)は仏弟子、十六羅漢の一人。
   神通力をもてあそんだとして釈迦に呵責され涅槃に入ることを許されず、
   西罌陀尼州(さいくだにしゅう)で衆生救済に勤めたという。 
   日本では本堂の外陣に置いて、これを撫でて病気平癒を祈る。 
   なでぼとけ、おびんずるさま といわれ古くから親しまれてきた。
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   真成院の潮干観音に奉納の旗指物。
   観音坂を隔てた向かい側の、信寿院本堂の景観。
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     アイバンク設立提案者の碑

   非常に珍しい献眼慰霊碑。  真成院と、どのような関りがあるのだろうか??
   「わが国アイバンク設立提案者 米国アイケルバーガー軍曹  
    昭和49年5月吉日  設立実行委員長 小塚豪」  と脇に表記してある
   アイバンクについては、大変関心が高まり登録者が増え、多くの人々が再び光を得たと
   感激していると言う。 アイバンク運動はすでに50年位の歴史ができた。 
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     信寿院
   
   観音坂と信寿院、かなり急勾配の坂である。
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   信寿院本堂
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     蓮乗院

   真成院の隣にある、蓮乗院。   観音坂の傾斜にご注目を
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   江戸東京・山手 43
     三十六歌仙絵で名高く「おとりさま」で賑う 須賀神社

   須賀神社は勝興寺の近く、須賀町5番にある。
   須賀神社の由緒書きによると、
   主祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと)
       宇迦能御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
   相殿  櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)他8柱
   相殿  大鳥神社 御祭神 日本武命(やまとたけるのみこと)他2柱
   相殿  大国主命(おおくにぬしのみこと)
   摂社  天白稲荷神社
   相殿  天照大御神(あまてらすおおみかみ)他16柱
   由緒  「須賀神社はもと稲荷神社で、赤坂一つ木村の鎮守で清水谷にあったのを、
    寛永11年外濠普請のため当地に移された。建速須佐之男命の鎮座の儀は、
    寛永14年島原の乱に、日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由、幕府命で兵站伝馬用を勤め、
    功績により四谷中心部商地支配権を拝領の機に、神田明神社の守護神を勧請、
    稲荷神社に合祀し、四谷の天王様と明治まで親しまれた。 
    明治元年、須賀神社と改称、明治5年郷社に昇格、戦後は社格が廃止された。 
    文化11年起工し文政11年完成の権現造りの比類なき社殿は、
    昭和20年5月24日の東京大空襲で焼失、戦後今日の復興をとげた。
   宝物 戦前多くの宝物があったが、戦災で殆んど焼失。
    内陣金庫に在った三十六歌仙のみが残り、新宿区有形文化財に指定されている。」 とある。
   三十六歌仙の絵が拝殿に掲げられている。
   絵は旗本・大岡雲峰(1764−1848)が73歳のとき画いたもので,
   歌は和歌、書画で人気の公卿・千種有功(1797−1854)の筆により、
   天保7年(1836)完成奉納された。
   三十六歌仙は、平安時代中頃の歌人藤原公任が作った「三十六人撰」の基づき、
   万葉歌人の柿本人麻呂、大伴家持、山辺赤人の3名、
   古今集や後撰集の歌人の紀貫之、在原業平、小野小町ら三十三人が選ばれ、
   一人一枚の絵に仕立てている。 
   須賀神社は牛頭天王と稲荷大明神の二社で、古くは四谷見附外に祀ってあったのを、
   寛永11年(1634)外濠開鑿のため当地に移転、明治になり須賀神社と呼ばれた。
   鮫河橋・権田原の稲荷、四谷の鎮守として信仰され、
   末社の大鳥神社の酉の市「おとりさま」で賑う。

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   拝殿の左側御神穂授け所隣に大国主命を御祭してある。
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   本殿の隣に鎮座まします天白稲荷神社。
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   本殿の右隣に鎮座まします祖霊社。
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   須賀神社の天白稲荷神社前より二の鳥居及び神楽殿。
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   須賀神社の一の鳥居より本殿を。
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   須賀神社の二の鳥居より本殿を。
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   須賀神社の一の鳥居より、参道の石段と道路。
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