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江戸東京・山手 32 成覚寺 新宿2丁目15番、靖国通りに成覚寺がある。 文禄2年(1594)の建立。 門前はやはり新宿で、人通りは多い。 しかし一歩中に入ると静けさが漂う。 石段を4・5段降りると六体の地蔵尊が迎えてくれる。 旭地蔵 新宿区指定文化財歴史資料 旭町(新宿4丁目)の玉川上水のそばにあった、「夜泣き地蔵」といわれ、 子供の夜泣きが直ると信仰されていた。 台座に18人の戒名が刻まれていて、7組は男女戒名が並べて彫られているので、 情死者を供養するために、玉川上水ふちに立てられたといわれる。 町人と飯盛り女、武士と飯盛り女、などの玉川上水での情死が、 台座に刻まれる戒名、旅籠屋一同の名前から推察される。 恋川春町の墓 新宿区指定史跡 真ん中が春町の墓。 江戸末期の戯作者(通俗小説、読本、黄表紙、しゃれ本、人情本など)であった恋川春町は、 駿河小島藩の家臣、小石川春日町に住み、春町と号す。 洒落と風刺を織り交ぜた成人向け読み物で、山東京伝、式亭三馬、十辺舎一九などと共に 江戸を沸かした。 時局風刺が幕府にとがめられ、召喚されたが病気と偽り、行かなかったが、 一説には主筋の小島藩に類が及ぶとして、自ら命を絶ったとも言われている。 寛政元年(1789)7月7日、45歳没。 子供合埋碑 新宿区指定文化財歴史資料 江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(遊女のことで、抱え主の子供と言う意味で 子供と呼ばれていた)たちを弔うため、万延元年(1860)に旅籠屋中で造立した、 惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に立てられた墓標。 飯盛女の抱えは人身売買で、抱えられる契約は年期奉公で、年期中に死ぬと哀れにも 惣墓に投げ込まれ葬られた。 女たちの待遇は犬猫にも劣るひどい取り扱いで、楼主・店主に酷使の挙句、死んだら、 着物、髪飾り、身につけた全てを取り上げ、晒し木綿に腰巻姿、米俵にくるんで 寺に投げ込まれた、その数三千体。 寺の別名が「投げ込み寺」、寺の手がまわらぬときは、放置されカラスが群れをなして、 つついたという。 墓地の最奥の薄暗い木立の中にあったが、土地区画整理の際現在地に移設した。 宿場町として栄えた新宿を、陰で支えた女性たちの存在と、 内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な資料といえる。 戦後、昭和21年1月GHQによる公娼制度廃止指令が発せられるが、
赤線区域、青線地帯などと呼ばれる地域で私娼が黙認されたが、 昭和32年4月、処罰適用の売春防止法が全面実施されるまで、 内藤新宿以来、新宿2−3丁目、新宿歌舞伎町ゴールデン街は赤線、青線区域として 有名であった。 陰の部分を、恐らく知る者は少ないと思われる。 何か悲しげな墓石たち |
散策・江戸東京・山手
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江戸東京・山手 31 浄土宗・霞関山本覚院太宗寺 新宿2丁目9番に太宗寺がある。 慶長年間(1596−1614)にささやかな草庵であったが、寛永6年(1629)内藤正勝死去の後、 内藤家の菩提寺になって、境内堂宇は急速に拡大され、江戸名刹の一つになった。 浄土宗芝増上寺の末寺で霞関山本覚院。 太宗寺の境内に入り、すぐ右に銅造地蔵菩薩坐像がある。 正徳2年(1712)深川の念仏行者、地蔵正元が建立した。 地蔵坊正元は江戸中を勧進し、浄財を募って6体の地蔵を鋳造した。 正徳年間から享保年間(1711−1735)にかけ,東海道、中仙道、日光街道、甲州街道、奥州街道筋 に建立した。 江戸6地蔵建立縁起に、「地蔵坊重病にかかり、医薬の効尽き果たし、最後に地蔵信仰で 救われた結果発心し、京都6地蔵のちなんで江戸街道筋に地蔵尊体を安置、 旅人ならびに江戸市民の安全を祈願した」とある。 江戸6地蔵は、南品川・品川寺、新宿・太宗寺、巣鴨・真性寺、浅草山谷・東禅寺、 深川・霊巌寺、深川・永代寺の6箇所である。 浄土宗・霞関山本覚院太宗寺の本堂 銅造地蔵菩薩坐像 閻魔堂 閻魔堂には閻魔像が鎮座し左側に脱衣婆像がある。 閻魔像は都内最大で、威容厳然と眼光鋭く、見下ろす姿は、威圧感がある。 元禄、文化年間に数回炎上したので、記録は無いが、運慶の作と伝えられている。 堂前の閻魔殿の額は、清国官吏・秋氏の寄進。 12代将軍家慶時代(1848−1853)に新宿閻御魔様の威名が海外まで、知れていた証。 脱衣婆は閻魔大王に仕える精霊で、「死後三途の川をさまよう亡者達が、 生前善根を施していれば極楽に、悪行を重ねたものは閻魔大王の捌きを受け地獄に追いやる役が 脱衣婆なり」 ここ内藤新宿は享楽遊興のちまたで、閻魔堂を中心に展開されていた昔の新宿の旅籠の賑わいを 映す姿。 閻魔大王 新宿区指定文化財 脱衣婆 新宿区指定文化財 不動堂は閻魔堂と相対する。
祭壇に安置された三日月不動像と布袋像 三日月不動像は江戸時代の作。 額の上に銀製の三日月をもつ。 新宿区指定文化財 新宿山の手七福神・布袋尊像 新宿区指定文化財 願掛け地蔵 稲荷神社 内藤正勝の墓 新宿区指定史跡 江戸時代信州高遠の藩主を勤めた譜代大名内藤家の墓所。 墓塔は中央が五代正勝(寛永6年造立)、右が十三代頼直、左が内藤家累代の墓塔。 |
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江戸東京・山手 30 新宿3丁目・追分交差点 現在の新宿繁華街はここ新宿3丁目を中心に発展している。
江戸時代は内藤新宿といって今の新宿1−2丁目あたりに、甲州街道の宿場があった。 また内藤新宿は、青梅街道との別れ道でもあり、新宿追分とも言われたところでもある。 新宿追分の賑わいは大正、昭和初期まで続いた。 京王電鉄は大正2年(1910)笹塚−調布間開通し、大正8年(1916)新宿ー府中間が 開通したとき、新宿駅は現在の新宿2丁目の京王電鉄本社ビル1階から出て、 今の甲州街道・国鉄新宿駅陸橋を路面電車で笹塚に向かっていた。 やはり新宿1−2丁目が新宿の繁華街であったなごりで、今の新宿駅地下ホームは 昭和53年(1978)、地下鉄都営新宿線との相互直通は昭和55年(1980)である。 「新宿元標 ここが追分」なる新宿元標が新宿3丁目・追分交差点の伊勢丹の筋向いの道路に、 このようにある。 「新宿元標 ここが追分」なる新宿元標図が新宿3丁目・追分交差点の伊勢丹の筋向いの道路に、 このようにある。 現在と江戸中期の「内藤新宿」の地図と、回りに時代背景のさまざまの徒歩、かご、馬、人力車、 都電、バス、乗用車などの乗り物のイラストの陶板が歩道にほどこされ、 横断歩道の信号待ちのひと時を楽しませてくれる。 新宿3丁目交差点は、やはり伊勢丹本店デパート。 新宿3丁目交差点は、新宿通りと明治通りとの交差点である。 前方は新宿通り、新宿駅東口方面。 午前10時頃と、同じ地点の夜景。 前方は新宿通りの四谷方面。 撮影場所を左右の角に変えた写真。 新宿3丁目交差点、明治通り高田馬場、池袋方面。 撮影場所を左右の角に変えた写真。 新宿3丁目交差点、明治通り代々木、原宿、渋谷方面 新宿3丁目交差点の角にある交番。 |
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江戸東京・山手 29 曹洞宗・萬亀山東長寺 靖国通りから外苑西通りに向け、初めての交差点、大木戸坂下の角に東長寺がある。 コレ、現代風の東長寺山門 コレ、現代風の東長寺本堂 コレも、現代風の東長寺多宝塔 コレも、現代風の東長寺鐘楼 曹洞宗・萬亀山東長寺 浄土宗長善寺 浄土宗長善寺は、東長寺の外苑西通りを隔てた向かい側にある。 長善寺の墓地は東長寺の隣にある。 東長寺と対照的に、和風の質素な寺である。 山門を潜り、ビルの谷間であることを、忘れさせる唯住まい。 源慶寺
長善寺の裏手、靖国通り高台に源慶寺はある。 写真で見る通りコレお寺??? モダーンな建物である。 |
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江戸東京・山手 28 富久町西交差点 富久町西の交差点で、前方に靖国通り新宿方面を望む街並み。 ここは靖国通りと、左に外苑西通り起点の交差点になっている。 暗闇坂 この界隈、四谷、市ヶ谷は、これ程坂道があるとは知らなかった。 もっと平坦な所と思っていたが、記憶とはいい加減なものだと、つくづく思った。 ここは「暗闇坂(くらやみさか)」。 四谷北寺町に出る坂で、樹木が生茂って暗かったので「暗闇坂」の名がついた。 江戸時代、この坂の上一帯には多くの寺が並び、「四谷北寺町」といわれる所で、 一層不気味なところであったという。 曹洞宗全長寺 まず、四谷北寺町のうちの、曹洞宗全長寺。 現代風な建物。 明るい坂道の「暗闇坂(くらやみさか)」を登ったところにある。 曹洞宗養国寺 曹洞宗養国寺は、庭があるが寺の本堂が見当たらない。 山門とおぼしき面影、木立の面影はあるが廃寺?? 曹洞宗養国寺には、幕末の外国奉行でヨーロッパに正使として派遣された竹内保徳の墓があると 案内書には記載されてはいるが?? 紅葉山西迎寺 東隣は紅葉山西迎寺。 境内に高さ4mの阿弥陀如来坐像がある。 元禄7年(1694)の銘文がある。 旗本・伏見勘七郎が父の供養に寄進、鋳物名工・椎名伊豫守良寛と兵庫重長によるもの。 青銅製で座高237cm、台座135cm。 両手の親指と人差し指で輪をつくり膝上で合わせた「定印」を結んでいる。 新宿区内の鋳造・阿弥陀如来坐像としては規模が大きく、造立者、製作者が判明している 歴史資料としての価値が高い。 新宿区指定文化財 西迎寺第8世超誉萬愚が旗本・伏見勘七郎などに喜捨を仰ぎ、 貞享3年(1686)に鋳造された梵鐘。 150cm、江戸鋳物師椎名伊豫守良寛の作。 江戸鋳物師の製造技術が頂点に達したときの作品で、銘文から歴史を知る価値の高いものとして、 新宿区指定文化財。 太平洋戦争中の供出により、区内の江戸時代の梵鐘は残数が少なく貴重なもの。 裏道より後姿の坐像 全勝禅寺 路地を南に行くと全勝禅寺 全勝善寺には山県大弐の墓・記念碑がある。 山県大弐(1725−1767)は江戸中期の尊王思想家で、 先祖は武田信玄の勇将山県三郎右兵衛といわれ、山梨件竜王の生まれ。 後江戸に出て岩槻藩大岡忠光の医臣となり、のち八丁堀で塾を開き勤皇の大義を説いた。 著書「柳子新論」で尊王思想と幕政批判したため、危険人物と投獄処刑された。 門下生に吉田松陰などがでて、のちに尊王論者の師と仰がれ、高く評価された。 墓は初め全福寺にあったが廃寺となり全勝寺に移された。 新坂 新坂、荒木町と舟町との境を北に靖国通り手前まで下る坂で、全勝寺に沿って削って 新しく出来たので「新坂」という。 新選東京名所絵図に「全勝寺は大門長くして杉樹連なりしを以って俗に杉門と呼べり、 今は杉樹は伐採し、その路は新道に通じ直に市谷に達せり」と記されている。 真宗大谷派法雲寺 更に路地を行くと、真宗大谷派法雲寺 真宗大谷派四谷山正應寺 隣に真宗大谷派四谷山正應寺
法雲寺第4世順意が、枡屋、長谷川氏、飯田氏、江藤氏などの喜捨を受け、 享保8年(1733)鋳造されたもので、江戸鋳物師河合兵部藤原周徳の作。 史料的価値の高いものとして、新宿区指定文化財。 太平洋戦争中の供出により、区内の江戸時代の梵鐘は残数が少なく貴重なもの。 |





