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記事09 東京大空襲 07
慰霊堂参拝の後、仙台堀川に架かる鉄橋に行く。
「南砂線路公園」と命名され、奇跡的に70年前の、その姿をとどめている。
「仙台堀川」は江戸時代、幕府の命により、仙台藩が開削した運河で、
葛西・浦安・行徳から、隅田川に通ずる水路で、小名木川運河に平行し、
この地域には、縦横に運河水路が掘削されて、貯木池も掘削点在し、
江戸に物資を運ぶ重要な水路、木場貯木場に通じる水路ゆえ、
当時も盛んに使われていて、物資を運ぶ運搬船の交通も多く、
沿岸には倉庫・工場が立ち並び、貯木場に置ききれない巨木などが、
岸辺に繋がれていた。
「仙台堀川」全体が、現在、緑地公園に変身、区民の憩いの場になっている。
ほぼ南北に貨物線が走り、ほぼ東西に仙台堀川が流れている。
当時、貨物線は、亀戸駅東側の広大な操車場から分岐し、
小名木川貨物駅を経て、汽車会社、塩浜に繋がっていた。
「緑地公園・遊歩道」から見た「橋梁」
当夜、向う岸辺より、鉄板仕切り5・6枚付近で、猛火と格闘し、死を覚悟。
「葛西橋通り・踏み切り」から見た「橋梁」
「橋梁手前・左側空地」は当夜の朝、
「青白い陽炎に包まれた、一面の焼け野原からの、輝ける日の出」を
見た場所。
前方は現在、広大な小名木川貨物駅再開発で、建設されたマンション。
「葛西橋通り・踏み切り」から見た、南方塩浜方向。
当夜、線路上を、強行突破を試みた5・6人が、前方で火達磨に。合掌
「橋梁」の中間橋脚台
当夜、この橋脚台から、次々に川に飛び込んだ人達。
東側南面川岸に建つ、当時の面影・雰囲気を今に残す、
戦災後再建された工場と、堀川に建設された「緑地公園・遊歩道」
中央橋脚台付近の橋梁を、下から覗く。
当夜の朝に目撃した、多くの溺死者が折り重なった橋脚北側。合掌
橋梁西側南面の川岸、現在のヤマダ電機店と「緑地公園・遊歩道」
当時は、木造の倉庫・工場が、立ち並でいた。
再開発された「橋梁」一帯。
当時は、木造の工場が立ち並んでいた。
江東区の戦災図、 江東区 全域が戦火で焼失・壊滅
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記事・戦争の記憶
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記事08 東京大空襲 その6
今年、東京大空襲より丁度70年の、
平成27年(2015)3月10日。
東京都慰霊堂に眠っているであろう、
小学校の恩師の一家、母の姉・叔父叔母従兄姉の一家、
同級生である親友の一家、隣家の叔父さん叔母さん一家、
幼友達たちの一家、数えれば限りない方々の冥福を祈り、
参拝する。
東京大空襲で犠牲になった人々の、
「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が、
平成11年(1999)3月の東京都議会第1回定例会で
初めて取り上げられ、同年10月、碑建設の趣旨に賛同した
都民・団体が、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する会」を
設立し、平成11年11月から設立趣旨に賛同し、
都民の願いをこめた碑にするため、都民・団体からの募金による、
設立の募金活動が行われた。
会は、平成12年12月、この募金9千余万円を東京都に寄付し、
都は、これを建設経費の一部に充て、関東大震災慰霊堂の庭に、
ようやく「碑・犠牲者名簿を納める場所」の建設に着工、
平成13年(2001)3月、竣工した。
戦時中、度重なる空襲の犠牲者は、
水死・溺死者の場合、公園や空き地に、ただ並べられ、
戦時下、各自胸に住所・氏名が書かれた「名札」を付けることが、
義務つけられていた為、この名札を頼りに、家族・親類・縁者に、
引き取られるが、棺桶も、荼毘する場も無い。
遺体引取が無い者は、荼毘する場所無く、近くの公園・空地に、
そのまま埋められた。
焼死者は尚悲惨で、本人確認が不可能なので、員数確認の上、
これもそのまま埋められた。
混乱の中とは云え、戦争は惨いことで、
都内の公園、神社・寺の境内、空き地に、埋葬され、
中には数千体単位で埋葬された。
江東区猿江恩賜公園、隅田川・隅田公園などは、
一か所一万体規模で埋葬された。
戦争とは恐ろしいことである。
昭和26年、各所に仮埋葬された犠牲者を発掘し、火葬して
昭和5年、東京復興事業として建設された、
「関東大震災の遭難者を供養するための慰霊堂(と復興記念館)」
に納骨した。
その数、およそ10万5千体、
関東大震災による遭難者約5万8千体の中に、合祀された。
そして、「東京都慰霊堂」と命名され、
毎年3月10日と、9月1日に、東京都慰霊協会により、
公費による慰霊法要が執り行われている。
戦後の復興工事に、その後諸所の工事現場から、
戦災殉難者が発見され、その都度、納骨・合祀されたのである。
ここに祀られている人々は、
関東大震災の時の、身元不明の一般遭難者と、
東京大空襲の時の、身元不明の一般殉難者、
いわゆる、ごく一般の都市民犠牲者が、納骨されている。
軍人・軍に属する者・軍に従事した者は、
靖国神社、千鳥が淵の戦没者慰霊碑に、招魂され、
厳格に区別されているという。
かつて、慰霊法要のとき、追悼の辞を読みあげる来賓の式辞に、
関東大震災の天災による遭難者と、
無謀な戦争による人災による犠牲者の、
区別も判らない者の挨拶に、無性に腹が立ったことがあった。
戦災の記憶が風化しないように、
無謀な戦争の犠牲になった、ごく一般的な戦災犠牲者の、
慰霊を追悼する施設、後世に戦争の愚かさを伝える資料館施設、
戦災のメモリアルパークの建設を、
広島長崎、沖縄と共に、一般戦災犠牲者数が圧倒的に多い東京、
ここにも「慰霊の地」の建設をと、計画・推進する運動が、
戦後間もなくから計画陳情、募金活動、不許可、推進頓挫、
計画再起再興、長く運動するも、進展せず今日に至ってしまった。
その背景には、「一般戦災者だから、なにも慰霊堂が無い訳ではない」
「首都圏に、戦争を思い出させるような施設は必要ない」
都議会でも長年議論されてきたようだが、今もって
「戦災復興慰霊堂」「戦災復興記念館」「戦災復興公園」
の建設は頓挫したまま、多くの人々から集めた、
貴重な資料などを、倉庫に眠らせ、散逸させているという。
平成11年度から、「東京空襲犠牲者名簿」が作成され、
登録受付が始まったという。
広報が行き届かず、一般には深く判らなかった。
70年を経た今年、
「東京空襲犠牲者を追悼する平和を祈念する碑」前の受付で、
コンピュータ管理された「名簿記載者」を、検索してもらい、
小学校恩師と親友の名が名簿に、記載登録されていることが、
判った。申請者が小学校親友と知って、感激!
然し、先生の奥様、家族名の記載なし。
一家全滅の親友も、家族名の記載なし。
恩師・親友とはいえ、申請者の友人は、
家族名まで記憶していなかった。
母の姉の一家は登録されていなかった。
知らなかったので、当然。
登録用紙を貰い、東京都に申請を出すようにとの事だが、
母が亡くなって久しい今、叔母一家の
「姓名、年齢、死亡年月日、死亡場所、申請者との関係」
の記載が出来るだろうか?
父、母が生きていたならば、隣近所の人たちまで、
姓名、年齢など判り、たちまち数人十数人は申請を出せたと思う。
タケちゃん、新ちゃん、ブンちゃんではダメだ。
「ただ名簿に名前が書かれていて、飾られているだけ。
中を見ることも出来ない。 名簿を眺めるだけだよ」
入り口で、誰かが話していた。 まったくその通りだった。
戦後10年、20年位までは、人々に記憶されていたであろうが、
70年過ぎた現在、その記憶は完全に失われ、
永遠に忘れ去られてしまうのである。
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記事07 東京大空襲 その5
その後、大都市、中小都市に無差別の焼夷弾による,
本格的な大空襲が始まり、各都市は壊滅的な打撃を受けた。
東京だけでも3月10日以後4月13日350機、
豊島・渋谷に焼夷弾2000トン、
被災家屋20万戸、被災者66万人、死者2450人。
5月24日560機、麹町・麻布・牛込・本郷に,
焼夷弾3500トン、被災家屋7万戸、被災者24万人、死者760人。
5月25日,500機、中野・四谷・牛込・赤坂・世田谷に
焼夷弾3300トン、被災家屋16万戸、被災者62万人、死者3650人。
東京は60%以上の家屋が被災焼失、全市瓦礫の焼け野原となり、
壊滅的な打撃を受けたのである。
3月10日以前は軍事施設、工場に爆弾による空襲が多く、
爆弾は直撃を受けると被害は甚大であるが、被害範囲は限られる。
木造家屋が密集していた東京に、焼夷弾攻撃は、
被害が広範囲にわたり甚大な被害であった。
しかも当時隣組単位で、家屋を自衛防衛するように、
防空演習で常に指導されていたが、
防火用品の「砂」と「水」では焼夷弾は消火出来ない。
3月10日は木造家屋密集地帯に、
始めての大量の焼夷弾攻撃を受けた為と、
家屋自衛の指導を守ったがため、多くの人々が
避難の時期を失い、数多くの犠牲者を出した。
余りにも多くの犠牲者が出たので、以後は警戒警報が出たら、
早めに安全な所に避難するよう指導され、
また戦火を逃れる為地方に疎開する人々が多くなり、
「3月10日の教訓」で以後の空襲では死者の数が激減した。
5月24日の空襲で勤労動員先の逓信省電気試験所は焼失、
やむなく次の動員命令まで学校に復帰した。
8月15日終戦を迎え、生命の安堵を得たが、その後米軍の進駐。
矢継ぎ早に命令、通達が出された屈辱の日々。
今まで受けた教育の全面否定。
上野地下道に群がる戦災孤児達、
国民全体が自ら生き延びる生活に追われ、
彼らに手を差し伸べる余裕もない。
何故、軍部は無謀とも言える戦争に走ったのか。
何故、あの時、死の極限に立たされたのか。
何故、恩師、親友、親戚、従兄弟、幼友達を
沢山失わなければならなかったのか。
国の御楯となると逍遥と散った先輩諸兄。
少年とはいえ、積極的に戦争に荷担した軍国少年であった自分は、
被害者であると共に、戦争犯罪人ではないか。
何故、何故、何故。
死の極限に幸運にも生きた、いや「生かされた」のは、
これから社会に何らかの貢献をするよう、
重い荷物を託された天の声を聞く、そんな気持ちであった。
国の復興に、全力を注がねばと決意する。
戦没学徒の遺書「きけわだつみのこえ」を読んで涙し、
色々の資料や本を読み、A級戦犯を裁く「東京国際軍事裁判」の
審議にも、関心を示せども、
何故、何故の疑問は、幾十年、脳裏の片隅から消えることなく、
心の傷として引きずってきた。
ここ30年位、3月10日には、
本所にある東京都慰霊堂にお参りする。
9月1日は関東大震災で亡くなった人達を、祭る震災祈念堂で、
そこに、戦災で亡くなった人達も祭っている。
祈りながら、恩師、親友と語らい過ごす貴重な時間である。
そこから歩いて仙台堀川の鉄橋に行くことを常にした。
奇跡的にも、線路は複線になって、当時のまま現存する。
ここに来ると、勇気と希望が湧いてくる。
緑深い遊歩道に変身した堀川のベンチに腰掛け、
色々考え貴重な時を過ごすのである。
老いてしばらく訪ねなかったが、先日3年振りに、
訪れた奇跡的に現存する鉄橋は、
更に奇跡的に「南砂線路公園」となって、
複線部分の片側が遊歩道に、片側が元の単線貨物線路に変身、
「奇跡的に生き延びた、正にその場所」
「奇跡的に生き延び、感動的に日の出を眺めた、
正にその場所」を、
丁度70年後に感動的に見ることが出来た日でもあった。
これも小学校1年生以来の親友、
元社会党 江東区 議会議員・赤海巌君が、
「江戸発展の水運遺跡である、仙台堀川・横十間堀川を、
緑地公園に改修して永久保存」する運動を発案し、
精力的に貢献、完成させた成果で、彼の努力と献身に感謝する。
戦争を体験したので、憲法第9条の戦争の放棄は、
世界に誇れる理念と信じている。
まだまだ各地に武力衝突が繰り返され、
恒久平和は実現されません。
何故、世界中の政治に携わる者達は、臆面もなく相手を中傷し,
傷つけ殺し合わせようと、国民を扇動し、煽り立て、
自分だけが自国だけが、あたかも、真の正義、人類の救世者ズラし、
傲慢な態度を取り続けるのだろうか?
また、国民は何故、そのような人物を、
偉大な人物として、崇拝するのだろうか?
国際情勢の変化に対応し、世界に貢献するために、
第9条の改正が必要との論議がなされているが、
唯一原爆の被災国、戦争の愚かさを知る日本は、
世界唯一第9条の理念の本質を、世界にアピールし、
民族・国家間の相互理解と協調、友好関係を求め
恒久平和を願うべきだと思う。
戦争はいつも、核シェルターの中で、身の危険を感じない、
一握りの人達の指令により、起こされ、
犠牲になるのは、常に一般国民であり、弱者である。
恒久平和を願っています。
この上の写真には、10万余人の焼死・溺死した犠牲者、
4万余人の負傷者、100万人の家を失った人たちが、
露頭に迷い、彷徨っている姿が、写り込んでいます。
私も両国橋付近で、ボロボロの焼け焦げた衣服を着て、
力なく彷徨っている姿が、 写されています。
高高度で、飛行機雲を引いて、悠然と飛行する、偵察機1機の姿は、
脳裏に未だ焼き付いています。 10時40分ごろのこと
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記事06 東京大空襲 その4
昭和20年(1945)3月10日
翌朝目覚め、目がよく見えない。
父も私も、このまま失明するのではないかと不安に思う。
実は、母は弟妹を連れて、父の郷里、千葉館山の在に疎開し、
祖父母と暮らし、慣れない田畑仕事をしていた。
東京には、父の仕事上と、俺の、2人暮らし。
中学3年の俺を心配して、半年振りに、俺の様子を見に、
往復切符で7日に来て、10日に帰る筈だった。
当時列車の切符を、買い求める事は、
非常に困難であったが、伝手を求めて購入した貴重な切符。
貴重な切符を手に、東京に来て、最悪な事態と成ってしまった。
恐らく、僻地とは云え、東京の最悪の事態の情報は、
噂として流れているであろう。
当時は、電話は無い、電報も不通の事態。
こちらの様子を報せる術はないので、安否を心配しているであろう。
3日ばかりで眼が回復したので、早く母と妹弟を、
疎開先の館山に送らねば、祖父母とすぐ下の妹弟が、
安否を気使っているだろう。
5日後、上野駅まで電車が開通。
3歳児の妹を、俺がオンブして連れて行く。
上野駅から小岩駅まで電車は不通なので、その間は徒歩。
軍隊・警官隊・消防団・勤労動員された者が、
あちらこちらで、散乱する遺体を収容していた。
3歳児とは言え、上野・小岩間のオンブで徒歩は、結構キツカッタ。
小岩駅から千葉駅まで電車は開通。
千葉駅から一日数本の内房線に乗車。
「なかなか帰って来なかったので、モー駄目だと思っていた。
良かった。良かった」
祖母が涙をこぼした。
翌日、川口に帰る。
その翌日、勤労動員先に職場復帰し、学校に無事を報告。
その後川口から毎日、
勤労動員先の五反田・逓信省電気試験所に通勤した。
職場の帰りには、毎日友の安否、幼友達の安否を求めて、
歩き回ったが手掛かりはない。
避難所の川南国民学校は、焼夷弾の直撃を受けたのであろう、
3日3晩燃え続け、助かった者はいなかったという。
(推定2000名犠牲)
数年後の調査では、同級生の半数以上が,この夜犠牲になり、
恩師一家、母の姉一家、隣人・友人にも、
一家全滅と言うものが多かった。
隣組の人達に避難を命じた父は、
避難所の国民学校焼失に衝撃を受け、
そこに避難したであろう隣組員の、その後の安否が知れず、
若しや一家全滅と、生涯、気を掛け続けたのであった。
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記事05 東京大空襲 その3
昭和20年(1945)3月10日
米国・戦史家 E・バートレット・カーは、著書「戦略・東京大空襲」
(大谷勲訳) の冒頭に、次の記述を書いている。(引用)
忘れ難い記憶のひとつは、誰もが心に刻んでいるものだが、
かつて米戦略爆撃機B29副操縦士R・ゲルドー中尉は、
50年を経てもなお「東京大空襲」がはっきりと脳裏に浮かぶのである。
午前1時、房総半島上空に侵入し、爆撃地点まで30マイルの距離に接近、
爆撃体勢に入ろうと、左旋回し終えたとき、
突然すでに炎の海が想像を絶する範囲で、大気の底に広がっているのが、
はっきりと認められ、そのあまりの凄まじさに、
大声で叫びたくなるような衝撃をおぼえた。
前方を飛行するB29が降らす焼夷弾の黒い雨粒は、
地上に到達するやいなや、オレンジ色の閃光を爆発させ、
その閃光は数マイル離れた距離から見ていると、
暗い部屋に巨大なマッチが擦られているようだ。
2000フィートにも及ぶ火焔の長蛇。
そして再び新たに誕生した閃光が滝になり、
波になり火の大海に呑まれていく。
巨体に蓄えてきた焼夷弾6トン余を地獄と化した下界に吐き出すと、
速やかに機首をマリアナ基地に変えた。
この夜、東京にB29爆撃機325機,
2000トン,36万2千発の大量の焼夷弾を投下。
僅か3時間で破壊目標全域に大火災を発生させ、
推定10万人以上を殺戮し、推定5万人が負傷。
26万7千戸(東京の全建物の25%)の家屋が焼失、
120万人(東京全人口506万人)の住居を奪い去った。
これは上空から見た、東京大空襲の状況である。
「浦和へ行くか」
父は既に、帰る家が無いことを、予期していた。
父の声に励まされ立ち上がる。
父の顔も、母の顔も、煤で真っ黒、表裏が判らない程。
行く先は、父の弟が住む浦和別所沼近くの医王寺である。
鉄橋の線路の枕木を渡り歩く。
焼け焦げた枕木もある。
枕木の間から見える水面には、流れに浮かぶ溺死体数体。
渡り終え川面を見れば、岸辺に浮かぶ貯木に遮られ、
折り重なって浮かぶ多数の溺死体。
あの時飛び降りた人達なのか?
はたして何人の人達が助かったのか?
渡り終えた所に土の塊。
「何故、ここに、土の塊」
見れば、レールに腰掛け、幼子をしっかりと胸に抱きしめ、
覆うように絶命した母子。
母が弟を抱きしめ、覚悟の授乳した、その姿にそっくりである。
着ていた衣服は、焼けて一片の布地も無く、
頭髪も全て燃えつき、ムキ出しの皮膚は炭化寸前の褐色、
胸に確り抱かれた幼子も、衣類布地のカケラも無く、
炭化寸前の、風化した銅像の「母子像」。
あと数米、橋上に移動していれば、助かったかも知れないのに。
自然に合掌。
20米位歩いたところで、折り重なって絶命した
10数名の炭化した焼死体。
合掌しながら通リ抜ける。
あちらに数体、こちらに数体、無数の炭化した焼死体。
地獄絵そのものである。
小高い線路上からの眺望は、
青白くたなびく煙に包まれた、数十km先まで遮るものが無い、
「一望千里、瓦礫の焼け野原」、
家々が立ち並んでいたなど、微塵も想像出来ない光景。
焼け爛れ、まだ熱さの残る、道路のアスファルト。
子供を守ろうと覆い被さって絶命した炭化した親子。
背負った幼子が母親の傍に転がる炭化した母子。
猛火に果敢に立ち向かい放水筒を抱えて殉職した炭化した消防士。
消防士から消防車までのバネ状の螺旋鉄線コイル、
繋がれた消防ホースの焼けた残骸であろう。
焼け爛れた消防車。
消防車の傍でポンプ調整しながら殉職した消防士。
道路に散在する炭化した焼死体。
防火水槽に殺到し、折り重なる焼死体。
腹が破裂し、腸が飛び出した馬車馬・牛車牛。
あたかも牛馬の丸焼き。
鼻を突く悪臭。
両国橋では隅田川に漂う、夥しい無数の溺死体。
正に、この世の地獄である。
ボロボロの衣服をまとい、さながら地獄の道を、
無気力にとぼとぼと歩く、我等親子の頭上を、
B29が高高度で一機、飛行機雲を引いて悠々と飛び去る。
両国橋を過ぎた頃、父の視力が弱り、手を引いて歩く。
「上野から北行きの電車が出るそうだ」との噂で上野を目指す。
上野駅は焼け落ちていた。
電車は上中里駅から折り返し運転とのことで、
上野駅から上中里駅まで線路上を歩く。
電車が荒川の鉄橋を渡る。
「川口は焼けていない。」
川口駅で下車する。
川口駅前では、婦人会によるお茶と醤油味の握り飯のお接待、
有難く戴く。
今日、始めて口にする、飲み物と食事。
美味しかった!!
そこで洗眼と火傷の手当ても受ける。
とにかく、川口の、父の叔父の家に転がり込む。
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