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記事04 東京大空襲 その2
昭和20年(1945)3月10日
全員の避難を確認して、避難場所である国民学校へと向かう。
辻々で、逃げ場を探す人々の
「こっちは行かれないよー」と口々に叫ぶ人波を、
押し分け、かき分け進み、行きッ、戻りッ、
上空で炸裂する焼夷弾の花火を避けながら、
何とか避難所にたどり着くと、
すでに学校の鉄の扉は閉ざされていて、叩けども
「もう一杯だ。入れないよー」内から鍵が掛けられ、
扉は頑として開かない。
後ろの校庭、隣接する公園も、避難した人で溢れ、
我ら家族が留まる安全な場所など無い。
安全な場所を探すのに、父は必死である。
母は、父を見失しなわないよう、必死に父の袖を捕まえ、
振り向けないので、絶えず私の名を呼び、確認する。
人の波をかき分けて、何処をどう歩いたか、
幅20米ばかりの仙台堀川(徳川時代、江戸に物資を運ぶために、
造られた運河)に掛かる、貨物列車専用線路の鉄橋上で、
ついに進退窮まった。
両側が鉄板で覆われ、鉄骨に枕木・レールが敷かれ、
枕木の間、鉄板との間が、吹き抜けで、川面の上にある。
枕木を伝い、枕木の間に、足を落とさぬよう注意し、慎重に渡る。
川の両岸には、木造の大きな工場と倉庫。
その間を単線の線路が走っている。
対岸の工場は、既に煙を噴出している。
1kmほど先には、汽車会社の広場があるはず。
この線路上を、強行突破する以外、道が無い。
5人位が駆け抜けようと、ばらばらと駆け出したが、
300m位行った所で、次々に火達磨になって倒れた。
強行突破も、最早不可能と知る。
後ろの火は、どんどん迫ってくる。
火焔の火柱は、川面を高く低く波のように、
どんどんと押し寄せてくる。
「荷物を捨てろ」 口々に叫ぶ。
鉄橋の上は、人々で一杯になる。
やがて人々で埋め尽くされた橋上は、人々の声は静まり返り、
火炎暴風が吹き荒れる、凄まじい風音のみが、耳をツンザク。
両岸の工場倉庫も火を噴く。
火は風を呼び、風は更に火を呼ぶ。
火の粉が降りかかり、乾燥した衣服は、火の粉が触れた瞬間、すぐに発火する。
懸命に手で揉み消す。
父の背中で「熱いよー、熱いよー」と泣き叫ぶ3才の妹。
耐えられず、貯木場から流れてくる丸太目掛けて、
枕木・鉄板との吹き抜け隙間から、次々に飛び降りる人々。
「直明、お前だけでも、丸太に掴まって、助かれ」と母の声。
「だめだ! 死ぬ時は一緒」と父の弩声。
遂に母は、背中の9ヶ月の弟を降ろすと云い、
レールに腰掛、胸に抱き、覚悟の最期の授乳。
先ほど、母の肩口を、揉み消した火の粉で、
背負った「負ぶい紐」が、寸での所で、
焼け切れる寸前であったことが、降ろして判った。
授乳のため、降ろさなかったら、
切れて振り落としていたかも知れない。
いつもは慎ましい母が、両胸を大きく開き、
「サー、好きなように、好きなだけ飲みな」と授乳。
母の覚悟と、最期の最期の慈愛が、伝わって来る。 フト、周りを見ると橋上は、
疎らに20数名位が、必死で火の粉を振り払っている。
赤子を背負う母子、幼子をかばう父子。
いち縷の「生きる希望」を持ちながらも、
「死を選択」せざるを得ない人達ばかりだ。
あれほど大勢いた人々も、今は疎らとなり、皆川に飛び込んだのか。
必死で衣服に付く火の粉を、手で揉み消し、振り払う。
友人からのテレパシーに、
「残念だが、俺はここで犬死だ。俺の分まで働いてくれ」と、
友人にテレパシーを送り続ける。
過ぎ去った記憶が、走馬灯のように次々に脳裏に浮かんでくる。
突風のような熱風も、熱さも全く感じない。
火の粉を揉み消し、火膨れした手の火傷も感じない。
ただ、父に降りかかる火の粉、
母に降りかかる火の粉、
自分にも降りかかる火の粉を、
無心に揉み消し、揉み消している、その行動の感覚すら無い。
人の「死」の瞬間は、「このようなものか」、と妙に達観。
それからどの位経ったであろうか。
まどろみ、母に揺り起こされ、見れば青白い陽炎に包まれた、
一面の焼け野原の、日の出である。
美しい日の出、涙があふれ出てきた。
「助かった」 犬死せずに、まだ国の為に働ける。
そんな涙でした。
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記事・戦争の記憶
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記事03 東京大空襲 その1
昭和20年(1945)3月10日
昭和20年(1945)3月9日、夕方近くから、
この時期特有の季節風、強い北風が吹き、
こんな日に空襲が無ければ良いがと、思っていたところ、
午後10時半頃、何時ものように「警戒警報」が発令され、
サイレンが不気味に鳴り響いた。
が,B29爆撃機2機が、
「都内をかすめて房総沖から海上に姿を消した」と、
ラジオの「東部軍管区情報」は告げた。
「ヤレヤレ、今夜はこれで終わったか・・・」と、
ホッとして、大方の都民が床に就いた。
ところが、この日のB29の攻撃は、意表をついて、
東京湾上すれすれの超低空から、江東地区に殺到した。
今まで日本の高射砲制空部隊の手の届かぬ、
超高高度を飛行し襲来していたのだが、
この日は制空防衛軍・都民の虚を突いて、
先の先行B29爆撃機2機が、
主力部隊に爆撃航路を教える、無線誘導機であったという。
首都東京の防衛は、
この時すでに、B29爆撃機に対抗できる防衛戦闘機は、皆無。
高射砲で対応する以外、防衛力は無く、その高射砲も、
超高高度で飛行して来る敵機には、弾が届かない状態で、
首都東京の制空権は完全に敵に奪われ、
なすすべも無い状態であった。
記録によれば、殺到したB29爆撃機の第1弾が、
深川地区に、10日午前0時8分に投下され、火災が発生、
次いで0時10分、隣接する 城東区 に、火災発生、
更に0時12分、本所区が被災、投下される焼夷弾は、
あちらこちらを、夜空の菊花の遠花火を見るように、
空中で炸裂し、無数の火花が落下していく。
その後ようやく「空襲警報」が、0時15分に発令されたが、
0時20分浅草区にも火災が発生。
第1弾投下より「空襲警報」発令前の7分間の差が、
住民の生死を分ける、決定的な時間であった。
住民は寝入りばな、準備もなく直撃されたのである。
投下された焼夷弾の独立火点が次々に合流、一挙に大火流となる。
その火災が目印になり、後続の爆撃機が、低空で確実に、
連続波状で、無差別に、更に次々と焼夷弾を投下。
木造家屋密集地帯の東京下町は、忽ち火流に飲み込まれた。
従来の「軍事目標に照準せる、高高度精密爆撃」から、
「一般市民を巻き込む低空・無差別・絨毯爆撃」と云われた、
人道上許されざる「作戦変更」であった。
深川区・本所区・ 城東区 ・浅草区方面の広範囲に広がった猛火は、
隅田川を超えて対岸の日本橋区・向島区にと、
猛火はおびただしい火玉となって宙を舞う。
それでも襲来するB29は、低空飛行で次々に連続で波状攻撃侵入、
投下される焼夷弾が、益々遠くに近くに、
空中で炸裂する花火のように降り注ぐ。
夜空を焦がす火災が、次々に発生し、火焔が上空に舞い上がる。
高射砲陣地の探照燈(サーチライト)に捕捉された、
B29爆撃機の巨体の姿。
火炎に照らされ、誇らしげに、光輝く巨体。
低空の爆撃機の巨体から、弾倉の扉が開かれ、
バラ撒かれる焼夷弾の雨。
地団駄踏んで罵ろうが、悠然と飛行し、襲来するB29爆撃機。
風は火を呼び、火は風を呼び、風は更にまた火を呼ぶ。
地上の大火炎は、火の海となり沸騰し、
瞬間風速20m−30mの火炎暴風・火炎旋風となり、
火炎激流となり、縦横に路上を走り、家屋を貫き、
火炎激流・旋風は分流し、合流し、火勢はますます盛んになる。
その上、更に、容赦なく焼夷弾が、
頭上で爆発音を伴って、炸裂、降り注ぐ。
真夏の打上げ花火の、真下に居るようである。
「火は消さなければ成らぬもの」と、当時軍部の方針通り、
隣組防火組織体制が構築され、
防火義務が各自・各隣組に課せられていた。
しかし、最早想定外にて消火は不能。
防火義務にこだわった人々は、
逃げ場を失い、逃げ遅れ、逃げ場を失った。
阿鼻叫喚、大修羅場の地獄其の物で、
逃げ場を探す大勢の人々の喚き・悲鳴。
隣組長を任命されていた父は、20数年前関東大震災で、
「大火災の怖さ」を体験していたので、状況をいち早く察知し、
最早これまでと、隣組全員に避難を命じた。
避難先は母校・川南国民学校。
鉄筋コンクリート3階建、周りは家屋強制疎開による、
100米の防火帯が設けられている。
「全員避難したか、確認して来い。」
隣組10軒ばかり、「全戸の全員避難」を
確認に走り廻された。
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記事02 昭和20年3月10日の東京大空襲から70年
太東亜戦争(太平洋戦争・第2次世界大戦)末期の
昭和20年(1945)3月10日未明、
米軍B29爆撃機約300機が、東京下町を空襲、
約1700トンもの焼夷弾爆撃により、
隅田川両岸一帯が猛火に包まれ、
現在の江東、墨田、 台東区 を中心に
約26万余戸の家屋が壊滅消失、
死者約10万余人、負傷者約4万余人、
罹災者100万人と推定される。
米軍の空襲爆撃は、当初、高射砲制空部隊の手の届かない、
1万メートル以上の超高空飛行し、
軍事目標に照準を向けた精密爆撃であったが、
充分な成果が上げられなかったので、作戦を変更し、
軍事施設のみならず、非戦闘員である一般市民をも対象にした、
超低空、無差別、絨毯爆撃での、燃えやすい木造家屋密集地への、
焼夷弾攻撃に転換し、日本の戦意喪失の効果をもたらす作戦に出た。
3月10日の攻撃が、東京下町家屋密集地帯に対する、
焼夷弾による無差別、絨毯爆撃が始まりで、
以後非戦闘員である一般市民を対象にした、
人道上許されざる無差別絨毯爆撃による攻撃を、
日本中の大都市は勿論、地方中小60余都市に至るまで、
同様な攻撃を行ったのである。
特に広島・長崎には原爆による、壊滅的な空爆が行われた。
今年も3月10日、
一晩で10万余人の命が奪われた、3月10日の東京大空襲から70年、
猛火の中を生き延びた人々の高齢化が進む中、惨禍をどう語り告ぐか、
都内各地で犠牲者を悼む法要や平和を祈る集いが開かれた。
墨田区の東京都慰霊堂で午前10時から、
戦災犠牲者を追悼する法要が営まれた。
秋篠宮ご夫妻が参列し、
安倍首相が歴代首相として始めて出席した。
読経の後、安倍首相は
「平和の誓いの下、過去に対して謙虚に向かい合い、
悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻みながら、
世界の恒久平和のために、貢献してまいります。」
と追悼の辞を述べた。
東京都慰霊堂での毎年3月10日の法要には、
過去必ず皇室から、常陸宮、三笠宮、秋篠宮ご夫妻、高円宮
などの皇族が必ず参列された。
しかし、歴代の首相が参列されたためしがない。
無謀な戦争の犠牲になった、非戦闘員である一般の国民を、
その追悼する法要に、誰ひとり参列しなかった過去歴代の首相達。
ただ、憲法9条を拡大解釈し、周りの人々を戦争にと、
駆り立てるような発言の首相が、初の参列とは、如何なものか?
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記事01、 昭和16年(1941)12月8日の朝
当時、毎朝7時のラジオニュースで起床するのが日課だった。
この日の午前7時、ラジオは耳慣れないチャイムが鳴り、続いて、
「臨時ニュースを申し上げます! 臨時ニュースを申し上げます!
大本営陸海軍部発表 帝国陸海軍は、今8日未明、西太平洋において、
米英軍と戦闘状態に入れり。」
国民学校6年生だった私は飛び起き、いよいよ始まったかと
奮い立った。
大東亜戦争勃発です。
顔を洗い、朝食が用意された、丸いちゃぶ台の前に、正座した。
父はすでに、ちゃぶ台の前に座り、お茶を飲みながら、新聞を広げ、
見入っていた。
皆がそろった頃合いに、母が味噌汁の鍋を持ってきて、座った。
父が「大変な、大戦争が起こった。」と一言、皆に告げた。
私は覚悟を決めた。
2年生の妹は、何の意味か判らず、キョトンとしていた。
学校に行ったら、教室では、今朝の臨時ニュースの話で、持切りで、
皆興奮していた。
8時 1年生から6年生まで、全校児童が、校庭に整列した。
丁度、月曜日の全校朝礼集会であった。
壇上の校長先生から、訓示があった。
教室に戻り、担任からも話があり、そして皆大興奮の内に、
1時間目の授業は終わった。
米英に対し宣戦布告、聖戦・開戦の詔勅が、
ラジオを通じて発表された。
午後からは、帝国海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をかけ、
米太平洋艦隊を撃滅したとの戦果が発表され、
町中「万歳!! 万歳!!」と、歓喜に満ち満ちた。
帝国陸軍は、フィリピンに、マレーシアに、香港にと攻撃を加え、
勝利を収め、戦況をどんどん南方に拡大して行った。
翌日の教室は、昨日の歓喜興奮以上に、更に一層の興奮が、
満ち満ちていた。
毎日ニュースの度に、大本営発表の「大勝利」のニュースに、
国民は一層勝利の道に向かって、駆り立てられ、
熱狂の坩堝の中に引き入れられた。
緒戦の「勝利」、「勝利」で、熱狂のうちに、昭和16年という年は、
大興奮の中、輝くように暮れて行ったのである。
皆様、ご無沙汰いたしました。
長い間ブログを中断いたしておりました。
その間、多くの皆様が、拙いブログ記事にアクセス下さり、
ただ今、13万件を越えるご訪問者が、記録されておりました。
本当に有難うございます。 皆々様に厚く厚く御礼申し上げます。
昔を知る、歴史の記憶者が少なくなったと、言われています。
「そんな話をしても」と、自分自身疑問にも思っております。
対処大局を踏まえた、重要な話は、なかなか出来るものでもありません。
多くの人にとって、どうでもよい話、採るに足らぬ話になります。
年寄りの寝言、たわ言と読み流して下さい。
何とか続ける努力はしたいと、思っています。
今日の記事は、私の心に残る「記憶の最大事」です。
ここから改めて再出発したいと思います。
今日の記事中、耳慣れない用語等を出していますが、
それも折に触れ、解説した記事として、紹介したいとも思っています。
どんな記事が出来ます事やら? ご覧頂ければ幸いに思います。
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