|
江戸東京・下町 05 潮入り池のある旧安田庭園 旧安田庭園は墨田区横網(よこあみ)町1丁目にある。 元禄4年(1701)、常陸笠間藩主本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、 この庭園を築造したと伝えられる。 中央に「心」字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する 景観を楽しむ、回遊式庭園。 常陸笠間藩主本庄因幡守宗資の墓は足立区法受寺に在り、 五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の墓の隣に一族に墓所にある。(足立区有形文化財指定) 関連記事は江戸東京・足立09足立伊興とその周辺・法受寺 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/20667795.html 明治になり旧岡山藩主池田章政邸になり、 明治24年(1892)安田財閥の創始者安田善次郎の所有となり、 安田翁の逝去後家屋と庭園は大正11年(1922)東京市に寄付された。 大正12年の関東大震災に壊滅的な被害を受けたが、 後に復元工事を行い、寄付者の名を残し「旧安田庭園」と命名し、 昭和2年(1927)、民間篤志家の寄付による和風庭園として一般公開された。 昭和42年東京都から墨田区に移管されて改修工事を行い、往時の名園に復元した。 明治時代の代表的な庭園として平成8年東京都の「名勝」に指定された。 隅田川の汚濁により「潮入り池」は復活に地下に貯水槽を設け浄化した水を送るなどの 工夫がなされている。 旧安田庭園入り口 入場無料 丸屋根の建物は両国公会堂 隅田川の水をこの水門から導き、池の水位を上下に変化させて、 池や石組みの変化を楽しむ工夫がなされていた。 この様な庭園は旧浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園などがあるが、 海水の汚れで水門を閉ざしている。 此処も人工の処置がされて、直接潮入りの再現がされていない。 都鳥 ユリカモメ 都鳥 ユリカモメ 古くから和歌、物語、歌謡などにあらわれる。 平安時代、在原業平が隅田川に群れを成しているのを見て詠んだのが有名。 その鳴き声「ニアゴ」が「都」と類音ゆえ、都を思わせたからという。 業平の歌に 「世のなかに たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし」 「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれないに 水くぐるとは」 「名にしおば いざ言問はむ 都鳥 我がおもう人 ありやなしやと」 隅田川の渡し舟があり、地名として言問はなかったが、 業平の故事にちなんで言問橋と名付けられたという。 ここにいるカモメが都鳥といわれた。 駒止め石 駒止め石とその由来の高札 俳人 芭蕉の句碑 「みのむしの音を聞にこよ草の庵」との芭蕉の句碑。 享保3年(1803)
|
散策・江戸東京・下町
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
江戸東京・下町 04 国技大相撲の興行場所、両国国技館と相撲博物館 わが国の国技である大相撲に関する資料、文化、興業、相撲部屋などの情報を豊富に備えた 「相撲博物館」は、とにかく一遍ここに来て是非ご覧に成ったら、たちまち相撲ファンになる。 相撲の場所が始まっているときではなく、通常のときが狙い目と思う。 駅に近く足の便は非常に良好。 しかも隣に「江戸東京博物館」もあり、見学には多忙を極めることと、御覚悟を決めて。 両国国技館正面入り口。 脇には「やぐら太鼓」 場所中には軽快な触れ太鼓が鳴る。 「やぐら太鼓」の脇の一際高い建物はNTTドコモ墨田ビルらしい。 JR両国駅 昔は銚子方面に行く総武線、茂原、勝浦、鴨川方面に行く外房線、 木更津、館山方面に行く内房線、行楽に海水浴にと全ての列車が此処から出発していた。 千葉方面に行く出発ターミナル駅で、その駅舎がこの建物であった。 戦災で焼けてはいるが、確か昔の面影のままで残っている。 夏の海水浴客、都内の学校の林間学校・夏季学校などに行く人々、児童で この広場、駅舎は賑っていた。 駅舎の中は、現在いろいろな店になっている。 千葉方面からは、両国駅の手前で、地下に潜り、隅田川底を潜って、 馬喰町、新日本橋、東京地下ホームから横須賀線に直通する。 この道路は、隅田川沿えの道路で、隅田川の堤防は2・30m脇にあり、 上を首都高速6号線が走っている 右は両国駅舎、中央道路奥は江戸東京博物館の建物、左道路を挟んで両国国技館の建物。 江戸東京博物館前の墨田区立両国中学校校舎、茶色建物は日本大学付属第一高校と中学校。 一際高い建物は、NTTドコモ墨田ビル。 両国駅前道路とJR総武線ガード、両側はビジネスホテル、突き当たりは京葉道路へ。 この道路の突き当たりに、戦前の丸ドームの両国国技館があり、国技館の正面入り口であったが、 戦災で焼失。 国技館の両国駅よりの、花壇茂みにある高札。 忠臣蔵の俵星玄蕃の道場があったという。 |
|
江戸東京・下町 03 築地本願寺・慈光院 東京都慰霊堂に隣接して築地本願寺・慈光院があり、 ここも慰霊堂と同じく毎年3月10日と9月1日に 関東大震災受難者及び東京大空襲犠牲者の法要を実施している。 3月10日には、法要と法話が行われていた。 慈光院は震災・戦災犠牲者の回向のため、築地本願寺の別院として開かれている。 江戸東京博物館 江戸東京博物館がすぐ近くにある。 江戸東京博物館はJR両国駅の近くで、高床式の蔵をイメージした建物で、 江戸と東京の歴史博物館として、江戸から東京に変遷の過程を資料や復元模型などで 分りやすく展示してある。 都民ばかりか、児童生徒の社会科学習に、特に修学旅行生に人気の楽しい博物館となっている。 江戸東京博物館・自動車駐車場に入る館内入場路の脇には、江戸城を築城した 大田道灌の鷹狩り装束の銅像がある。 大田道灌は武州川越の城主であったが、鎌倉通用のため江戸に一城取立てるべく、 鷹狩りをかねて城地の見立てをなし、 武蔵の国、郡の名は豊島、千代田、宝田、祝言の三村の名は吉瑞の名であるので、 この地に城を築けば末々繁盛疑いなしと、ここに城を築城し、 千代田の城と名付けたと言われている。 江戸東京博物館の近くに、この様な高札があった。 「置いてけ堀」の由来である。 江戸東京博物館入り口近くにある、「言問橋の欄干と縁石」 「言問橋は昭和3年(1926)に完成し、関東大震災復興橋の一つで、 昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲のとき、 浅草方面から向島方面へ避難しようとする人々と、その反対側からの渡ろうとする人々とが 橋上で交叉し、身動きできない状態となった。 人々ばかりか荷物、荷物満載の荷車・リヤカーなどもあった。 そこに火が燃え移り、橋の上はたちまち大火災に包まれて、橋上では逃げるすべもなく、 多数が焼死し、辛うじて川に飛び込む人が多くいたが、しかし助かった人は殆んどいなかった。 平成4年(1992)の改修工事に当たり、当時の欄干と縁石が撤去されることになり、 東京大空襲の被災の歴史資料として一部を江戸東京博物館が譲り受け、ここに保存展示した」 と言う事である。 昭和20年3月10日の東京大空襲の記録写真 東京都慰霊堂での戦災犠牲者追悼法要には、どうしても語らなければ成らないので、
記録写真を転載しました。 アメリカ軍提供 3月10日東京空爆状況確認偵察の航空写真 まだ火災の噴煙がたれこめている。 神田区、(千代田区)日本橋区、京橋区(中央区)下谷区、浅草区(台東区) 本所区(墨田区)深川区、城東区(江東区)荒川区(荒川区)が全焼壊滅状態。 空襲被害、戦災家屋26万9千戸、死者推定10万人、負傷者4万人、罹災者101万人。 焼け残った震災祈念堂と復興祈念堂(下側) 左上は隅田川、浅草方面 |
|
江戸東京・下町 02 関東大震災・戦災・阪神淡路大震災の資料を展示する復興記念館 復興記念館は、大正12年9月1日に起こった関東大震災の惨事を後世に伝え、 首都東京を前にも増して復興させた当時の大事業を、永久に記念するために、 震災祈念堂の付帯設備として建設された。 館内は遭難者の遺品、被害品、そして絵画や写真をはじめ、復興事業に関する資料の保存、 展示する施設である。 その後、戦争により東京が空襲に遭い、戦災犠牲者を新たに震災祈念堂に収容したため、 東京都慰霊堂としたのに伴い、復興記念館に戦災資料を加えて陳列、 更に阪神淡路大震災の資料も加えて、広く災害予防に関する知識を普及するために公開している。 内容は、もともと関東大震災の資料館であり、戦災資料は充分収集してこなかった感があり、 資料不足といえる。 この慰霊堂及び復興記念資料館は、東京大空襲の戦災劫火に此処だけが奇跡的に焼け残った。 関東大震災の時には、陸軍被服廠跡地の空地であったため、避難民が続々と集まったが、 火災の劫火にここのみで2万人以上の犠牲者を出す大惨事と成った場所です。 しかし3月10日の空襲では此処だけが、焼け残った。 関東大震災の犠牲者の霊が、ここに非難した人たちを救ったと言われ、 護られたと伝えられている。 徳永柳州筆 大正12年9月15日、御心を悩せられる摂政宮殿下(昭和天皇) 大正時代であるので、天皇・皇后が如何に憂慮して視察したかが重要な画題に成っている。 天皇中心の画題 徳永柳州筆 皇后の病院慰問 石井伯亭筆 摂政宮殿下(昭和天皇)の視察 震災に関する天皇の詔書 徳永柳州筆 本郷より見た御茶ノ水付近 徳永柳州筆 永代橋の焼け落ち 仮設木橋中央部が焼け落ちたのも知らず、日本橋から深川から避難者が押し寄せ身動き出来ず 川に落下。 幽冥鐘 関東大震災で遭難死した死者追悼のため、中国佛教徒の寄付による鐘。 震災の悲惨な凶報に中国では、杭州西湖の招賢寺、上海の玉仏寺などで念仏法要が営まれ、 災害甚大であると知り代表二名来日し、京浜地区の慰問を行い、幽冥鐘一隻を鋳造して寄贈され、 復興計画確定後ここに安置された。 震災遭難児童弔魂像 |
|
江戸東京・下町 01 東京大空襲の犠牲者を追悼し、平和を祈念する法要が行われた東京都慰霊堂 今年はここの早咲きの彼岸桜が、すでに見事な花を咲かせていた。 今年64年になる東京大空襲で最も犠牲者の多かった3月10日がめぐって来て、 決して忘れることのできないそれぞれのドラマを抱え、集まってきている。 どの顔にも深いしわが刻まれ、足元もおぼつかない様であっても、やはりここに来て昔を偲び、 こし方を振り返らなければならず、それによって何となく落ち着きを得る、 そんな気持ちで来ている。 後、何回ここに来られるであろうか、そんな気持ちである。 見回しても大方70歳を超えている。 どんな事情が有れ、それ以下では記憶がない人たちばかりである。 今年は、三笠宮寛仁親王の御臨席。 石原都知事の弔辞、導師は浅草寺管長。 線香の煙、献花盤もすでに花・花・花が一杯にあふれている。 車椅子を、娘か孫に押されて参詣する。 100人が100のドラマを抱えて今日は来ている。 日蓮宗の信者であろう、東京空襲の慰霊と平和祈願の行脚団。 三笠宮寛仁親王ご到着。 平成13年3月、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」として建立された。 「第二次世界大戦で、東京は昭和17年4月18日の初空襲から、 終戦の昭和20年8月15日まで、アメリカ軍の度重なる空襲で、 非戦闘員である都民が犠牲になった。 東京空襲の史実を風化させることなく、今日の平和と繁栄が、 尊い犠牲の上に築き上げられていることを、次の世代に語り継ぎ、 平和が永く続くことを祈念するためこの碑を建設した。 建設に当たり東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会の呼びかけで、 多くの方々から寄付が寄せられた。 碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々の 名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が収められています。 平成13年3月 東京都」 とある。 広島・長崎は原爆による犠牲として、平和都市宣言がなされた。 しかし、3月10日の東京空襲は焼夷弾による無差別空爆で、東京防衛は非戦闘員の都民が、 自らの力で防衛しなければならなかった。 自分たちの町は、自分たちで守るという絶対命令、忠実に実行するために、 防衛から逃げることは許されず、焼夷弾を過小評価し、無謀の防衛に挑戦したために、 皆逃げ場を失い、犠牲を大きくした。 一夜にして10万人以上の犠牲者を出したのである。 この祈念碑は、戦後いち早く建設の運動が起こったが、なかなか実行ができなかった。 その時々の政治を司るものは、それを認めることを拒んだのである。 それは戦争責任を認めることと成るためである。 なんでもウヤムヤにしてしまったと思う。 この祈念碑に収められている、名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」は、 まだ7万人程度という。 余にも時が経ち過ぎているために、記載されない人たちがまだ何万人もいるはずである。 現に叔母一家は全員死亡だが詳細不明であると聞いてはいたが、 母が健在中であれば名前・戸籍などの手がかりで、記録することができるが今となっては、 詳細不明であるから記載できない。 このような人が沢山いるはずで、それが戦争であった。 ここには、関東大震災の犠牲者、戦災の犠牲者の遺骨が納められている。 遺族はここをお参りすることで、ここに眠っていると信じて、お参りしているのである。 |
全1ページ
[1]


