なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

散策・さいたま大宮

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   さいたま・大宮 08
     大宮宿から中仙道を北に歩く

   埼玉ふるさと散歩・さいたま市のガイドブックを頼りに,大宮宿から中山道を北に歩いてみた。
   中山道の氷川神社裏参道入り口にある、大正6年(1917)に建てられた石標は、
   いかめしく「官幣大社氷川神社」とある。
   享保7年(1723)に建てられた「武蔵国一宮 是より宮二町 □大門□居へ□」の石標、
   「空蝉や 沙羅双樹の 花のいろ」 芭蕉の句碑が、裏参道の鳥居と共に、緑地にある
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   中山道と東北本線・東武鉄道野田線の立体交差は昭和42年(1967)に完成し、
   開かずの踏み切りは解消した。 そこをくぐり抜け、しばらく行くと東大成町交差点。
   角のココス駐車場入り口に安政7年(1860)の道標があり、
   道標には、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と彫られ、
   中山道から西の分かれ道の存在と、行き先を示している。  
   かつてはレストランと魚屋の間に古道があり、与野の町に続いていた。  
   大山は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社、御嶽は東京都青梅市の御嶽山への信仰の道を示していた。
   大山参りは、この辺の男子15−20歳の一人前とみなされる成人参拝。
   与野・引又(志木市)・川越は当時の商業・交易の中心地で、此処大成地区から市が立つ日に、
   長芋・麦・米を売りに出かけ、賑ったという。
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   旧中山道の東側一本目の平行した道に、祠があり八百姫大明神が祀られている。
   この道は東大成町と植竹町の境で、「古い中山道」と考えられる。  写真の道が古道??
   そして旧中山道・保健センター交差点北側ロッテリア前の歩道に、
   天保3年(1832)造立「原市 せいぶ きさい」と記された、
   原市や菖蒲・騎西への道しるべとなっている馬頭観音供養塔。
   安永6年(1777)造立「大宮 上尾」「是より東より右原市道」と彫られた三界萬霊塔。
   江戸時代商業地として栄えた原市(上尾市原市)への分岐点があったことを伝えている。 
   古道は住宅密集地になっていて、道筋の探索は不可能で、原市までは約4km。 
   昭和10年(1935)頃まで、陸軍・麻布3連隊兵士が、現在の原市団地付近での
   秋の野外演習に、古道を利用したと伝えられる。
   写真は旧中山道の歩道で、コカコーラ自動販売機はロッテリア店、
   その手前の駐車場入り口の石が三界萬霊塔、右の電信柱の脇に馬頭観音供養塔。 
   ほとんど目に付かないし、関心を持たれていないから、恐らく後、数年で車にぶつけられ、
   邪魔だと取り払われる運命にあるような予感がする。 
   古道の「道しるべ」となっていた時から、すでに250年近く此処に存在していたが、
   貴重な歴史的遺産が消滅してしまう。!! 
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   商店と民家が混在する中山道、新幹線ガード手前に、元禄10年(1697)の庚申塔がある。
   青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻され、「耳の神さん」「目に神さん」と信仰されている。 
   庚申講は戦争で中断されたが、近年春3月、秋の収穫後に行われ、
   昔からの伝統を受け継いでいるという。
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   さいたま・大宮 07
     江戸時代に開かれた町・大宮宿と新開地・大宮の街を結ぶ大栄橋
   大栄橋は昭和34年(1959)完成の跨線橋で、川越新道の開かずの踏切を解消した。 
   大宮駅の北側にある川越新道は、川越に通じる街道として、古くからあった道を、
   改修した旧16号国道であったが、昭和30年代から大宮及びその周辺まで、
   東京のベットタウンとして開発され、東北線・高崎線、貨物線が混在した線路は、
   電車・列車の往来が煩雑となった。 
   更にまた大宮車両修理工場・大宮機関区などもあって、更に拍車をかけので、
   此処の踏切は時間によっては、開かずの踏切となってしまった。 

   大栄橋は、昭和37年(1962)封切り映画、吉永小百合の「キューポラのある街」の
   ロケで使われ、当時の跨線橋としては大きい橋で、今も東西を結ぶ大動脈の橋である。

   旧中仙道の繁華街を過ぎたところ、大栄橋の東側の交差点で、この大栄橋は鉄道跨線橋として、
   大宮西側新開地を結ぶ重要な橋である。 
   東方面には、大宮氷川神社の二の鳥居前を通り、国道16号線バイパスに接続し、
   岩槻に抜ける岩槻街道・旧国道16号線の道である
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   大栄橋西側のスクランブル交差点。  
   大宮駅が東北・上越新幹線が昭和57年6月に大宮駅から発着し、
   昭和60年3月上野駅発着まで、3年間東北・上越新幹線の要として勤め、
   大宮駅は西側を中心に大変革をした。
   それに伴い、西側の開発は目覚しく発展し、東西の街の人の流れは、駅のコンコースに
   集中するようになった。
   此処、大栄橋西詰スクランブル交差点は駅コンコース北側の要である。
   新幹線駅舎は西側にあり、埼玉新都市交通ニューシャトルも新幹線線路の脇に設けられ、
   北部ニュータウンの交通となっている。  
   スクランブル交差点の上を走るニューシャトル、大栄橋の上を走る新幹線とニューシャトル。  
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   西方向には、国道16号線に接続して川越方面に。
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   大宮駅と複雑な路線線路。
   ホームに停車する電車は、東武鉄道・野田線。 前方大宮駅コンコース、新幹線ホーム。
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   新幹線ホーム駅舎、下は埼玉新都市交通ニューシャトル駅舎。  高層ビルはソニックシティ
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   大宮駅コンコースと複雑な線路。  大宮駅東側のビル街、電車は東武鉄道・野田線
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   大栄橋北側。 左側建物はJR東日本大宮総合車両センター(車両の修理点検塗装工場)の
   長い建物が続く。
   車両センターの北隣に、鉄道博物館がある。(ニューシャトル鉄道博物館駅)
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   大栄橋東詰め、橋の袂の交差点近くにある阿弥陀堂は、甲州武田家の遺臣で、
   大宮宿脇本陣を勤めた栗原一族の持仏堂である。
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   大栄橋東詰め、橋の袂の交差点、ビル(第一商品)脇の立木生垣に囲まれた
   緑地にある稲荷神社。  何故、東京都文京区教育委員会の案内板???
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   さいたま・大宮 06
     大宮氷川神社の参道

   大宮氷川神社は、京都―江戸との主要裏街道・中山道の、江戸より四番目の宿場、大宮宿の
   東側に位置したので、旅人や近隣在郷の人々や、江戸からの参詣人で
   大いに賑ったということである。
   鬱蒼とした森に囲まれた氷川神社は、聖武天皇の御代に定められた武蔵国一の宮として、
   また明治の御代に武蔵国鎮守勅祭の社として官幣大社に列せられ、年々の例大祭には
   勅使御差遣される、格式を持つ社として尊敬された。 
   三の鳥居の近くに、勅使御差遣の際に使われ、官幣大社の威容を整えるため建立された
   「勅使斎館」がある。 
   固く門が閉ざされていた。 
   勅使斎館の周りを囲う門、塀、建物は、樹齢幾百年というケヤキ並木と対峙して、
   古色然とした風格を備えていた。

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   二の鳥居は昭和61年に明治神宮から奉納されたもので、木造鳥居では日本一高い。 
   旧御影石鳥居は、神社北側公園入り口に移築。 
   境内にある石鳥居・敷石寄付者の顕彰碑に
   「伯爵 大隈重信、 男爵 千家与福、 男爵 渋沢栄一」の名が。

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   氷川の杜文化館。
   平成10年に伝統芸術振興の拠点として完成。 参道に面した前庭は竹林になっている。

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   市立図書館と市立博物館
   二の鳥居の近くに市立図書館があり、その東隣に博物館がある。
   博物館には、氷川神社に一丁(109m)ごとにあった丁石の一つ「拾丁石」や
   大宮宿の模型などが展示されている。

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   天満神社
   二の鳥居の近くに、学問の神様・菅原道真公をお祭りしてある天満神社がある。
   江戸時代の絵図にも現在の位置に祭られていたことが確認されるという。

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   庚申塔
   宝暦10年(1760)建立の庚申塔は、一の鳥居と二の鳥居の中間の横道にある。 
   道しるべになっていて、「武州足立郡大宮宿下町講中」「西ノ方大宮宿」「南ノ方□□道」と
   彫られていた。

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   散歩に疲れたら名物氷川だんご。  参道中ごろに参道に面してある。 
   一の鳥居の裏にある十勝甘納豆もお勧め。
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   さいたま・大宮 05
     中仙道・大宮宿の今

   中仙道・大宮宿はJR大宮駅東口一帯の地域、すなわち今の大宮市街の中心地が、
   昔の大宮宿の中心であった。

   埼玉県では唯一熊谷市が終戦の前夜昭和20年8月14日夜に米・爆撃機B29の爆撃を受け、
   壊滅した都市であったと記憶しているが、浦和宿のあった浦和市(昭和9年2月市制施行、
   埼玉県では川越、熊谷、川口に次いで4番目の市制施行で、全国都道府県庁所在地での
   市制施行では最も遅い市制施行であった)、大宮宿のあった大宮市(昭和15年11月市制施行)
   は、共に先の戦争で爆撃の戦禍を免れた都市である。 
   いや当時は小さな町で、爆撃される程の都市ではなかったことが幸いであったのだ。 

   終戦後、戦禍を免れたお陰と、東京に近かったため、しかし高崎線・東北線の沿線からは
   東京に買い物に出るには地理的に遠いため、高崎線・東北線の要の位置にある大宮は、
   商業地として急速に発展した。
   昭和30−40年代に商業都市・大宮として大型店出店の幕開けとなり、
   大一ビル(現・大一デパート)が昭和37年、中央デパートは41年、高島屋デパートは45年、
   西武デパート(現・ロフト)は44年という。

   旧中仙道の大宮駅前交差点は、スクランブル交差点になって、昭和46年(1971)埼玉県で
   初めて実施された交差点であるという。
   そして東北新幹線、上越新幹線が一時大宮駅発着となって更に拍車をかけたのである。
   (昭和57年6月に東北新幹線・大宮―盛岡間、上越新幹線大宮―新潟間が暫定開業し、
   昭和60年3月に上野―大宮間が開通)

   交通網が発達し、自動車社会、電車運転の高速化が進み、東京のベットタウン化が益々進み、
   東京周辺の都市発展が爆発的に進展したのである。

   旧中仙道・大宮スクランブル交差点。  正面は旧中仙道・浦和、さいたま新都心方面
   右角は大宮高島屋デパート。 左角は各銀行大宮支店。
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   旧中仙道・大宮スクランブル交差点。  正面は大宮氷川神社、大宮区役所方面
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   旧中仙道・大宮スクランブル交差点。  正面は大宮繁華街、北大宮方面
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   旧中仙道・大宮スクランブル交差点。  正面は大宮駅東口、左側は大宮高島屋デパート、
   右側は大門町商店街
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   大宮駅前東口広場。  右側は大門町商店街、宮町商店街
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   大宮駅前東口広場。  正面は大宮氷川神社、大宮区役所方面  
   右側に大宮高島屋デパート、左側は大門商店街。
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   大宮駅前東口広場。
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   大宮駅前東口広場から旧中仙道裏通り、大門・宮町裏通り
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   大宮駅前東口広場から南銀座通り。 旧中仙道裏通りになる。
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   旧中仙道、南銀座通りの通路。
   この道こちら側は、「片倉新道」と呼ばれ、明治期に東京千駄ヶ谷から片倉製糸工場が、
   仲町に移転してきたことに因んだ名称という。 
   明治34年(1901)大宮仲町に進出し、大正5年に現・さいたま新都心東側に移転した、
   世界的高級生糸ミノリカワ・ローシルクを生産。
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   旧中仙道・宮町交差点からスクランブル交差点方向を望む。 
   この道は狭く交通が激しいので、年中車の長い行列が続く。
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   さいたま・大宮 04
     中仙道・大宮宿の面影を残す大宮中心街

   中仙道・大宮宿はJR大宮駅東口一帯の地域、すなわち今の大宮市街の中心地が、
   昔の大宮宿の中心であった。
   大宮宿は東側に武蔵一宮・氷川神社の鬱蒼とした森に囲まれた境内が広がり、京都―江戸との
   主要裏街道・中山道の宿場町として、旅人や氷川様の参詣人で大いに賑ったことであろう。

   江戸初期に大宮宿を開いたのは北沢甚之丞で、江戸時代に「紀州家鷹場本陣」であった
   「北沢家屋敷跡」は、現在の高島屋で、高島屋の屋上に北沢稲荷が祀られている。  
   北沢家では近代漫画の先駆者・北沢楽天を輩出した。 
   明治初年に廃藩置県され、此処に大宮県の事務所が置かれた。   
   写真は高島屋屋上の「北沢稲荷」
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   大宮駅東口、中仙道スクランブル交差点を北大宮に進み次の通り、すずらん通り角の
   キムラヤパン店は「内倉本陣跡」
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   更に中山道を進み、一番街通りには「脇本陣・栗原友右衛門屋敷跡」。
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   さらに住吉通り角の岩井ビルは、文政期以降の本陣を勤めた「山崎本陣跡」。
   歴史的な地点が続く。
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   中仙道スクランブル交差点から浦和方面に戻った、川鍋ビルは「高札場跡」
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   大宮区役所脇にある倉屋敷稲荷神社は、岩槻城の出城・寿能城の倉屋敷で、寛永5年(1629)に
   徳川幕府が中仙道を現在地に付け替えたとき、道筋のあった社を遷座したが、
   もともと玉龍山宗金寺の稲荷社であったが、明治維新に廃寺となった。 
   昭和40年隣接する大宮市役所新築の際、修復された由。
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   ビルが林立し昔の面影が失われた、ビル街の路地裏にひっそりとある「塩地蔵尊」
   旅の途中で病んだ父親のために、二人の娘が塩断ちして父を救ったとの伝説が伝わる
   「塩地蔵尊」と「子育地蔵尊」 
   安永10年(1782)念仏講中の灯篭石があり、塩と水、線香、ろうそく立てが堂前に置かれ
   参詣が絶えないようである。

   また近くには、「涙橋跡」があり、鴻沼に流れる水路にかかる橋で中之島橋が正式名で、
   江戸時代に高台橋の近くにあった刑場へ護送される罪人と、この橋で涙して別れたところから
   涙橋と呼ばれた。

   南大通り線・通称吉敷町ガードとの交差点は「安藤橋跡」で、「中仙道分間延絵図」に
   「大宮宿入口 悪水抜石橋」と記され、欄干石はさいたま市立博物館に展示。
   大宮宿大火に御用米・御用金を宿民のために使い、その罪により切腹した安藤弾正の名を
   とったという。
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   「塩地蔵尊」近くの中山道沿いにある西橋商事の門は、明治初期に江戸・加賀屋敷から
   買受けたもので、鬼瓦に葵紋が付いている。
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   大宮宿の「宿割り」は寛永5年(1628)新たに造成したとき、中仙道に面する屋敷の間口を
   7−8間(12.8m)、奥行き60間(108m)と、整然と地割したその名残が随所に
   見られる。  
   京の町屋に見られるような、間口が狭く、奥行きの長い地割である。
   栗原脇本陣・清水脇本陣など脇本陣はビルや駐車場に変わっているが、中山道沿いに狭く、
   東西に細長の奥行きが江戸時代の町作りを今に伝えている。  
   店、倉、住まいと宿割地の利用に、それぞれ知恵を絞って生活していたことを物語っている。
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