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さいたま・大宮 28 片柳の鎮守様、熊野神社 熊野神社はさいたま市見沼区片柳にあり、芝川沿いに広がる見沼の畑、若木樹木の植栽畑、 県民ふれあい農園などの広々とした農地耕地を一望できる小高い丘の上、 鎮守の森に鎮座しおわします。 熊野神社の社殿は20段ばかり石段を昇り、赤い鳥居をくぐった境内正面に鎮座する。 道路脇石段手前にある文政7年(1825)奉納の「天下安寧」刻字石造りの旗棹立、 鳥居脇の文政13年(1831)奉納の手洗石、鳥居脇の文政5年(1823)奉納の朽ちた 御神灯石台などは江戸末期の嘉永2年・嘉永6年(1849・53)「浦賀へ黒船来航」の わずか前のこと。 現在の狛犬や御神灯は大正から昭和初期にかけての奉納品であるが、 その狛犬や御神灯のそばに5・6個の力石が半ば埋められて飾られている。 文政10年(1828)奉納の「力石五十貫目余(187.5kg)」、 寛政2年(1790)奉納の「力石45貫目(168.75kg)」、 天保2年(1832)「黄金岩」、万延元年(1860)力石56貫目(210kg)」 などである。 (大正10年までの基本単位・尺貫法による質量の単位、1貫目=3.75kg、 五十貫目=187.5kg)」 力石に刻まれた文字から、神社の境内の雰囲気から、自然に湧き出る子供のときの記憶、情景!! 熊野神社の例祭には、小学唱歌「村祭り」の歌詞にあるように、村の鎮守様のお祭りには、 村人総出、いや近在からの人出で大変な賑わいであったろうと楽しい想像が浮かびあがってくる。 この神社の最盛期は文化・文政の頃と想像させる。 すなわち、力石がこの時代に奉納されたもので、力自慢の若者が競い合い、 それを囲んでワイワイと喝采し、これでもかと更に重たい力石の奉納。 普段は森閑としたこの神社の雰囲気が、今日に想像の昔を伝えるような、 そんな ここ熊野神社です。 大東亜戦従軍記念碑 裏面にザーット200名を越す方々の名前が記されている。 戦火に「名誉の戦死」をなされた方もおられるであろう。 終戦になってやっと郷里に帰還なされた方々もおられるであろう。 当時、僻村であったこの片柳の地から、これほどの多くの方々が、出征従軍されていたことに、 改めて戦争の重大さを痛感させる記念碑である。 日清・日露の戦役従軍した記念碑は多くの土地で見かけたが、 このような 大東亜戦争の従軍記念碑は、ほとんど見かけない。 いや敗戦により、連合国に占領されて、日本人の心が閉ざされ、 戦争に従軍したこと事態、タブー視され、貝のように語らず閉ざれ、今日に至っている。 このような従軍記念碑は、戦争の愚かさを後世に伝える、重要な教訓を含む碑でもある。 このような記念碑を建立した、片柳地区の皆様に、深く敬意を表します。 |
散策・さいたま大宮
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さいたま・大宮 27 自然景観育成を目指す、七里総合公園 七里総合公園は、さいたま市見沼区大谷にあり、市立七里保育園、市立東宮下小学校、 市立七里中学校、県立大宮東高校などの文教地区が隣接していて、 旧道の日光御成道に沿った昔の見沼田んぼ、見沼代用水東縁に囲まれた土地である。 ここでも見沼の広大な土地を市が取得し、自然の景観・里山の造成、自然の動植物の保全と 保護育成の管理育成を推進している。 昔はこの一帯は見沼田んぼといわれた穀倉地帯であったが、近年都市化が進み、 昔の自然がどんどんと無くなってきた。 ひと昔前には里山として、森が広がり、田園が広がって、 田んぼにはドジョウ、うなぎ、ふな、鯉、めだか、タニシ、カワニナなどが住み着いていたが、 米の収穫を増すため農薬などの散布により、先ず小魚が死滅、 都市化の汚水の流入でますます土地は荒廃し、その結果住宅地の進出にと連鎖し、 拍車がかかって現在の景観となった。 しかしこれも時代の流れ、東京都市の膨張に周辺地域が翻弄される宿命であった。 今残された自然の保護と管理をしなければ、都市から自然が無くなってしまうと、 このような公園造りが始まった。 しかし一度破壊した自然を甦らせるのは、なかなか困難である。 この七里総合公園に本当の自然が甦るのは何時のことか?? しかしやらなければならない。 自然を保護しなければ成らない。 動植物をよみがえらせなければ成らない。 人間のエゴ・驕り・都合で無くした自然を、次世代に「美しい元の自然」に帰して、 譲り渡し「夢」も贈らなければ成らない今の我々世代の、大切な勤めと痛感するしだいである。 ここでホタルの育成が、手がけられていた。 何時かは昔のように、ホタルが乱舞する里山に、早くしたいものである。 野鳥の楽園にする湿地帯育成地。 今でもこのような野鳥が集まってくるようです。 だが見られるのはラッキィーとの事。 平家ホタルを育てている育成用水路。 ホタルが乱舞する日は何時に日か??? 七里総合公園に隣接する市立東宮下小学校。 自然と隣接する学校。 |
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さいたま・大宮 26 膝子(ひざこ)一里塚 日光御成道、江戸から八里、岩槻へ一里の距離にある「膝子一里塚」は、 さいたま市見沼区膝子にある。 江戸日本橋を基点として、各街道沿いに壱里(約4km)毎に、壱里塚が築かれ、 塚上にエノキの木を植えて目印にし、旅人はこれを旅程の目安に旅路を通行し、 宿泊する宿場を目指し道中した。 しかし、壱里塚は道路の整備改修で、ほとんどが破壊され、消滅してしまい、 現存する「壱里塚」はなくなってしまった。 旧大宮市には、中山道、日光御成道など、江戸時代の主要な街道があるが、 この「膝子一里塚」が現存する唯一の「壱里塚」であり、貴重な存在として、 さいたま市指定史跡文化財に指定されている。 壱里塚は東側・西側にと対で在ったが、現在東側だけが、道路改修で小ぶりになって存在する。 エノキが成長するに付け、根元にある「史跡 膝子一里塚碑」と、「供養塔」が、 エノキの根元と塚の盛土の流出で、下の部分が埋まってしまっていて、 時代を感じさせる存在である。 膝子の「火の見やぐら」 膝子の壱里塚の脇に隣接して「膝子の火の見やぐら」があった。 膝子地区の「膝子自警消防団」の「火の見やぐら」と多分「小型消防ポンプ保管庫」 以前見沼区の「中川自警消防団」の「火の見やぐら」と「小型消防ポンプ車保管庫」が 大変に珍しいと紹介したが、同じく見沼区の「膝子自警消防団」にも 同じ「火の見やぐら」と「保管庫」があった。 片柳の「火の見やぐら」 見沼区の「片柳自警消防団」の「火の見やぐら」と「保管庫」。 片柳地区は膝子地区の隣接地区である。 おそらく各部落地区に、助成金を支給し、同一企画の「火の見やぐら」と「保管庫」を建てさせ、 地域防災を奨励したのではないだろか?? 一地区に一箇所の自警消防団?? 他にも多くあるような感じ?? |
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さいたま・大宮 25 大宮駅か浦和駅からバスで20分位乗ると、もうそこは田園地帯。 天気が良ければ、そよ風に吹かれながら、田園地帯を歩くも良し、 里山の森の精から森林浴のエネルギィーを授かるも良し。 藪の道を歩けば、突然近くで「ホー・ホケキョ」「ホホホ」「ケキョ・ケキョ・チチチ」 鶯の影を追い、ウグイスは近づいたり離れたりしながら追ってくる。 向こうの高木でカッコウが縄張りを告げている。 静寂そのものである。 田んぼの道では、かえるの声、時には蛙とニラメッコ、 イナゴ、バッタ、時にはカマキリと出会い、足元をカナヘビが「ア」という間に草むらを横切り、 モンシロチョウが花を求めて飛び交う。 そんな景色の広がる「見沼地帯」「見沼田んぼ」の自然が素敵で好きである。 加田屋新田 見沼田んぼは首都圏に残された約1260ヘクタールの広大な緑地地帯で、 田んぼ、畑、雑木林と、芝川を挟んだ東西の見沼代用水、芝川、これらが形作る田園風景。 加田屋新田は昔ながらの見沼田んぼの原風景を、今も最も田んぼがまとまって残る地域である。 近くの旧坂東家住宅など、かつての農家の暮しを今に伝える建物も点在するところでもある。 見沼弁才天 「加田屋新田」を一望する、日光御成街道きわ・見沼代用水東縁沿いの土手の道に、 一際目立つ赤塗りのお堂がある。 弁財天を祀る、さいたま市見沼区膝子にある「見沼弁才天」である。 大谷ホタルの里 昔は、市内いたるところで見られたホタルも、見沼田んぼの農薬散布と都市化が進み、 自然が破壊されて長い年月が過ぎ、今は全く見られない。 ホタルは水の綺麗な川にしか住めない。 ホタルが住むということは、人の環境にも良い環境である。 一度破壊した環境を元に戻すことは、並大抵の努力では出来ないが、 この里にホタルを戻す努力を推進するモデル地区を市は造った。 この「大谷ホタルの里」で、ホタルが飛び交う環境には、まだまだ相当の年月を要するだろうが、 皆で自然を守っていかなければならない。 田んぼにドジョウやメダカやフナがいなくなって長い年月が経つが、 いまだに彼等は戻ってこない。 シラサギが住めなくなったのも、餌である小魚がいなくなった為でもある。 環境破壊は、修復に莫大な年月と費用がかかるが、これも人間の勝手と驕りである。 ホタルの生活史が掲示されていたが、改めて勉強になった。 |
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さいたま・大宮 24 将軍・日光社参道中時の休息所、光徳寺 曹洞宗・江長山光徳寺はさいたま市見沼区膝子(ひざこ)にある。 大宮郊外の加田屋新田の農地が広がる場所の里山にある。 さいたま市教育委員会の案内板によれば、光徳寺は片柳の万年寺の末寺で、 本尊に薬師如来を安置している。 寺の開創は文禄4年(1595)といわれ、 江戸時代の3代将軍徳川家光以降代々13石の寺領を賜り、9通の朱印状が残されている。 江戸時代寺領を賜った寺社はさいたま市内では13寺社にすぎず、光徳寺を重く見ていた証。 寺の西側を通る日光御成道は、将軍日光東照宮参詣の際の専用道として使われ、 この寺は将軍休息所となっていた。 天保14年(1843)12代将軍家慶の日光社参には、休息所に定められ、 休息後、寺から岩槻城下手の綾瀬川まで歩き、大橋を渡って駕籠に乗り、岩槻城へ入ったという。 休息時の将軍御愛用の品は、残念ながら失われ、今は見ることが出来ないという。 日光社参は家慶を最後に、再び行なわれることなく、 25年後に明治維新を迎えることとなった。 宝永7年(1711)奉納の地蔵尊。 穏やかな表情、見た瞬間に一目惚れ。 和尚さんの遊び心!!! 休息所の可愛いキャラクター達。 |







