なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

散策・さいたま大宮

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   さいたま・大宮 13
     大宮片柳の古札、曹洞宗・万年寺

   曹洞宗・万年寺はさいたま市見沼区片柳にある。
   入間郡越生の竜穏寺(りゅうおんじ)七世節菴良均が永正6年(1509)に開山建立し、
   山号は長昌山(古くは長松山)、歴代住職は宗門の名僧が就任し、寺風興隆した。 
   天正19年(1591)徳川家康より寺領20石を拝領した名刹。  
   寺宝に木造釈迦如来坐像があり、鎌倉時代中期の作で、藤原様式も残す寄木造り、
   衆生を救う慈悲と知恵の徳が伝わる坐像尊。

   江戸時代初期の見沼溜井造成に際し寺領が水没したので、伽藍を移したと伝えられる。
   江戸時代中期、見沼溜井の干拓、見沼代用水の開削工事に、工事奉行・井澤弥惣兵衛為永が、
   万年寺に詰所を設けた。 
   境内には見沼代用水関係者が、文化14年(1817)に井澤弥惣兵衛為永の頌徳碑を建て、
   事績をしのんだ。

   境内には、三界萬霊塔(元禄17年(1705))瘤地蔵、庚申塔(天明7年(1789))、
   石灯篭(寛政10年(1779))万年寺中興の祖・初鹿野伝右衛門昌久の墓(旧武田家臣で
   大阪冬の陣で先陣を勤め田と伝えられる)。

   幕末・明治にかけ寺子屋が開設され、村民の子弟の教育にも当たった。 
   戦争中は学童疎開の受け入れもおこなった。

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   さいたま・大宮 12
     南方神社

   南方神社は、さいたま市北区宮原4丁目にあり、地元では「お諏訪さま」の名で親しまれている。
   吉野村の鎮守で江戸時代の書「五街道中細見独案内」にも諏訪社として書かれている。
   雷様の貝殻伝説があり、その宝物は天保5年(1834)の夏、神社近くの大木に落雷があり、
   そのとき天から降ったという、シャコ貝の形をした物で大変重いと言伝えがあるという。
   本来の諏訪神社へ、周辺の雷電社、八雲社、稲荷社を合祀して、村の鎮守とした。
   隣の諏訪公園は樹木が残され、子供たちの遊び場になっている。
   現在、神社の鳥居、敷石などの修繕建設がなされている。
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     不動明王堂

   さいたま市と上尾市との境付近に、不動明王像を祀ったお堂がある。
   荒縄の輪が奉納され、お不動様の左手に掛けられている。
   (ノゾキ窓からお不動様を盗み撮りしました) お堂は明治の時代に建てられたようです。
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     吉野神社

   吉野神社はさいたま市北区吉野町にあり、一般住宅家屋のような、質素な神社である。
   吉野神社から勧請し、地名はこの神社と関係があるようで、また脇には伏見稲荷社が
   祀られている。
   境内の入り口角に、元禄13年(1701)建立の、青面金剛像・三猿の陽刻された庚申塔が
   祀られている。
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   さいたま・大宮 11
     宮原小学校のセンダン樹

   さいたま市北区宮原4丁目にある、さいたま市立宮原小学校には、
   さいたま市指定文化財天然記念物のセンダンの大木がある。 
   この木は小学校開校当時の教師が、郷里・高知に帰省した折、苗木を持参し植えたものと
   言われている。 
   その後同校の校歌にも詠み込まれ、学校のシンボルとして親しまれてきたと言う。
   枝振りは、観賞用に剪定されなかったので、不均衡というが、樹齢100年を越し、
   3階の校舎を越す、樹勢である。  樹高15m、幹周り・目通り3m
   海辺の山地に成育し、暖地性落葉樹で、成長は早く、5月ごろに開花する。
   今丁度身頃で、淡紫色の美しい、香気がある、五弁の花をつけ、10月に黄褐色の実をつけ、
   この実は薬用にされると言う。
   ただ、「センダンは双葉より芳し」の諺のセンダンは、この種ではなく、
   ビャクダン科のビャクダンのことを指している。  (一部通学路の横断歩道から撮影)
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     宇宙飛行士・若田光一さんの母校、さいたま市立宮原中学校

   現在、宇宙ステーションに長期滞在して63日、3ヵ月半の滞在予定で、
   宇宙実験活動をされておられる宇宙飛行士・若田光一さんの母校・さいたま市立宮原中学校です。
   「きぼう」船内実験室から、時々「おもしろ宇宙実験」の様子を、知らせてくださいます。
   若田さんは、さいたま市北区別所に生まれ、別所小学校、宮原中学校、県立浦和高校、
   平成8年と12年にミッションスペシャリストとしてスペースシャトルに搭乗し、
   ロボットアームで人工衛星改修、国際宇宙ステーションの建設作業を行い、
   今回の宇宙ステーション長期滞在3ヶ月半の任務を遂行中です。 
   任務を遂行し、無事帰還されますように、皆様と共に応援しましょう。
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     さいたま市北区宮原コムニティセンターと宮原図書館

   平成12年に地域学習活動の拠点施設としてオープンし、図書館と併設された。
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     金山権現神社

   中山道西側一帯は古くは鍛冶村と呼ばれ、鎧造りの職人が多く住んでいたという。  
   その鎧職人が祀ったという金山権現神社。  
   資料に取り上げられていたので、大きな社と思っていたが、畑の中にこじんまりとあった。
   それでも訪ねる人が多いとみえ、隣のイオンハウスの呼び込みのぼりがはためいていた。
   石灯篭には、石尊大権現、金比羅大権現、秋葉大権現、文化11年(1815)と
   灯篭の四方に刻まれていた。
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     JR高崎線・第三原市踏切

   金山権現神社の脇はJR高崎線の線路。 
   中山道、宮原小学校を過ぎたところの、交差する道路を左折すると、この第三原市踏み切り。
   此処まではJR高崎線を越すに、立体交差であったが、此処から先は平面交差の踏み切りが
   多いようだ。
   都会では見られない風景に、カメラを向けてみた。  電車・列車の写真はタイミングが難しい。
   持ち歩きのバカチョンカメラはシャッターの作動速度が鈍く、
   グッド・タイミングとシャッターを押しても、どうも間が抜ける!!  
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   さいたま・大宮 10
     金の御幣伝説がある加茂神社

   金の御幣伝説がある加茂神社は、さいたま市北区宮原4丁目にある。
   境内に入ると、大きな樹木に囲まれていて、落ち着いた静寂を保つ、ただずまいである。
   神社の由緒によると
   「文化7年徳川幕府により作られた「新編武蔵風土記稿」に「加茂宮村の鎮守の加茂社は
   勧進の年代詳らかならず」と記されるが、社前の宝暦3年(1753)弘化2年(1845)の
   石灯籠があり、その昔京都上加茂神社から勧進したと伝えられ、別雷の神を祀って
   五穀豊穣と万物を生みなし育てる神として崇敬されてきた。 
   幕府参勤交代の時代、加賀の堀丹波守が中山道を往来の砌、その妻女が産気を催したので
   当社に立ち寄りご加護を祈願したところ産気治まり無事国許に帰着し、男子の出産を見たので、
   安産御礼に奉納の御幣は現存するという。 
   生産・安産守護の神として信仰が厚い。
   明治41年付近数社と合祀され、42年神饌・幣帛供進の神社として村社に指定された」と
   記されている。

   神社の霊験に感謝し金の御幣を奉納したという伝説が生まれたという。

   江戸時代後期の浮世絵師・渓斎英泉(けいさいえいせん)によって描かれた
   「版画・木曽街道六十九次」の中に「上尾宿加茂社」として描かれている加茂神社であるが、
   上尾宿としたのは英泉の間違いで、
   中間の位置である立場(宿場間に駕籠などを止めて休息する休息施設の在る所)が設けられていた。 
   「木曾街道六十九次」は歌川広重と共に描いた版画で、24駅分を担当、埼玉県内は
   全て英泉の作である。

   本殿には、手の込んだ彫刻として、京都加茂神社の「競べ馬」が彫られているという。
   「競べ馬」は古く二頭の馬を直線の馬場で走らせ、勝負を競ったもので、
   京都加茂の競べ馬が特に有名である。

   本殿石組みと鳥居の付近の石灯篭は、バス停「仲屋前」に名を残す中村平右衛門が、
   江戸後期の文政9年(1826)に奉納したことが記されている。
   例大祭には神楽殿で神楽が奉納されるという。

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   さいたま・大宮 09
     大宮宿から中仙道を北に歩く その2

   大宮宿から中山道を北に向かって歩き、新幹線のガードをくくると、国道17号と交差する。
   交差点前方の角には交番があり、国道17号・新幹線沿いに右に行くと、
   埼玉新交通ニューシャトル加茂宮駅がある。
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   バス停「中屋前」に江戸期の絵図には「加茂宮の一里塚」が描かれているが、
   今は塚の存在を知る人はないという。
   宝暦9年(1759)の銘がある「橋供養塔」 
   これもかつては中山道の道しるべとして250年もの間、道端に立っていて、
   旅人の旅情を癒していたが、住宅地となった今は、消滅する運命にあるような予感がする。
   2・3日前ぐらいに横道道路のアスファルト工事が終わったばかりらしく、
   供養塔はそのアスファルトで石塔の下の部分が固められていた。 
   これではタダの邪魔な石があるだけと、多くの人は考えるだろう。 
   このようなものは、歴史的資料として後世に伝え残すべきものか、今問われている。  
   これに限って言えば、行政は、道路補修工事の設計の段階で、250年風雪に耐えて存在していた
   歴史的資料に気付いていた筈、施行業者もこれが何んであるかを気付いていた筈、
   特に教育委員会はこのような歴史的資料に対して、どのように対処するかが問われている。 

   多くの場所は、観光的に尋ねても、その地の教育委員会が、歴史的背景を踏まえた、
   丁寧な案内板を設置しているので、事前の知識なしでも訪れることができる。   
   しかし、元大宮市に限って言えることは、大宮宿の存在は、
   大宮市の存在発展に重要な関わりを持っているのであるが、
   事前にある程度の知識を持って訪ねたが、場所を特定することが出来ず、大変苦労をした。
   しかも、保健センター交差点の馬頭観音供養塔、三界萬霊塔などの道しるべ、
   橋供養塔などの保存方法。
   元・大宮市の教育委員会は歴史的資料の取り扱いに関心が無く、熱意も無かったので、
   昭和40年代以前の歴史資料の探索は、非常に困難な状況にあることを痛感した。  
   さいたま市になってどのように変わるのか??
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   旧中山道の高崎線宮原駅入り口の交差点である。  
   旧中山道を左折すれば宮原駅に、
   右折すると宮原駅前通りは国道17号線から産業道路まで桜並木になっている。
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   旧中山道大宮方面 と 旧中山道上尾方面へ。
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   宮原交差点から200mくらいにバス停「天神橋」
   地名の由来の「天神社」と昔中山道を横切る水路に架かっていた「天神橋」の
   欄干の一部が保存されている。
   此処は大宮宿と上尾宿との中間に位置していたので、「立場」が設けられていた。
   天神橋名物「紫蘇巻唐辛子」が人気であったという。
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