|
東京見物 018 東京の桜名所 09 板橋・加賀公園 石神井川
板橋・加賀公園
江戸時代参勤交代により、江戸各地に各大名に対して屋敷地が下賜された。
加賀潘前田家は本郷邸・上屋敷(東京大学周辺)、駒込邸・中屋敷(本駒込周辺)、平尾邸・下屋敷(板橋宿辺・板橋区加賀)にあり、
下屋敷・平尾邸は2万8千坪の広大な敷地は、大名屋敷では最大の広さを持ち、
邸内には石神井川が流れ、庭園は本国金沢・兼六園の7倍の広さを持ち、
藩主や家族の保養別荘として使われ、池泉回遊式庭園は見事であったと言う。
中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時、前田家藩主の休息所、
家臣の送迎場にもなっていた。
邸内には与力を筆頭に50人程の詰め人がおり、代々在番し、
板橋宿周辺の名主と姻戚関係を結び、板橋宿の寺小屋で教育に当たるなど、
地元板橋との関わりもあったと言う。
幕末・明治の影響を多く受け、現在平尾邸の面影は、
ここ加賀公園に残る築山の一部のみという。
やすらぎの水辺モニュメント と 水辺の里程標
石神井川のこの辺で、心無い人に矢で射られ、傷ついたオナガカモが発見され、
上野の不忍池で保護され治癒し、無事旅立って行きました。
板橋区はこの様な心無い行為が、二度と無いように、
豊かな自然環境の中で生息できることを願って、モニュメントを作って、
ここに設置したと言う。
水辺の里程標は、隅田川からの距離を表している。
石神井川
石神井川は、小平市御幸町・小金井公園辺りを源とし、
武蔵関公園・富士見池や、石神井公園・三宝寺池からの水を集めて、
練馬区、板橋区、北区飛鳥山の辺・名主の滝公園を経て、
隅田川に注ぐ、25km程の川で、「石神井村を流れる川」ということで、
その名が付き、昔から川添は風光明媚な場所として親しまれてきた。
帝京大学付近の桜が、ソメイヨシノの名所となっている。
隅田川から4.4km地点の里程表がある。
|
東京見物
[ リスト | 詳細 ]
|
東京見物 017 東京の桜名所 08 浜町公園 隅田公園
浜町公園
浜町公園は関東大震災によって壊滅的な被害を受けた、
東京の復興事業として、台東区と墨田区の隅田川をまたがる隅田公園、
墨田区の錦糸公園と並んで計画されたもので、中央区日本橋浜町にあり
中央区を代表する最大の公園という。
江戸時代熊本藩主細川氏の下屋敷があって、
明治以後も細川家の邸宅があったが、公園として整備され
昭和4年(1929)開園した。
公園内には、キャンプ場、運動広場、総合スポーツセンターがあり、
区民の憩いの場所となっている。
清正公寺
浜町公園内には、1861年藩主・細川斎護により建てられた、
加藤清正を祀る「清正公寺」がある。
寺は細川家時代から一般公開されていた。
明治座
浜町公園に隣接する明治座は、明治の頃より長い歴史を持つ劇場で、
「銀座歌舞伎座」「新橋演舞場」「お濠端帝劇」「日本橋浜町明治座」と
東京を代表する劇場として親しまれてきた。
明治座は歌舞伎、新派として、
その後時代劇公演、演歌や歌謡ショ‐形体の公演が中心になり、
また現代劇、俳優養成にも力を注いでいる。
隅田公園
隅田川を挟んで、台東区浅草・花川戸と墨田区向島にまたがる公園。
隅田川両岸の桜並木は,八代将軍徳川吉宗の計らいにより植えられ、
江戸時代より花見に訪れる人も多く、茶屋出店に賑わったという。
隅田川の夜桜見物を船で眺める人も大勢いて、
観光船、屋形船などの往来も大分多い。
|
|
東京見物 016 東京の桜名所 07 上野公園
上野公園
上野は何時も、人、人、人と、人の波が絶えない。
まして、桜が咲かないうちから、花見、花見と、人々が集まり、
ソメイヨシノがほころびた、二部咲き・三部咲きになったと囃し立て、
もう、満開になったと、ドーット人々は押し寄せる。
昔から、呑めヤ、歌えヤ、踊れヤ、の大騒ぎ。
上野は独特の雰囲気をかもしだす。
(昔の上野は大変だったが、最近はマナーを守り、控えめになってきた)
東叡山寛永寺
徳川将軍家の祈願所として、三代将軍家光公が創建し、
寛永2年天海大僧正により造営、
東叡山寛永寺の山号は東の比叡山、
寺号は延暦寺に倣い造営当時の年号を冠した。
第三世守澄法親王から天皇家より皇子を迎え、
以来幕末まで山主は輪王寺宮家により受け継がれた。
輪王寺宮は、東叡・比叡・日光の三山の山主を兼務したという。
寛永寺根本中堂(かんえいじ こんぽんちゅうどう)
元禄11年(1698)に建立された根本中堂は、
慶応4年(1868)幕府崩壊のとき、幕府側彰義隊が立て篭もり、
官軍に応戦し、そのとき焼失した。
現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院本地堂を移築再建したもので、
御本尊は伝教大師最澄上人が、自刻なされた薬師瑠璃光如来像を、
お祀りしてある。(国指定重要文化財)
開山堂(かいざんどう)
東叡山を開山した慈眼大師天海大僧正を祀った堂で、
また天海僧正が尊崇する、慈恵大師良源大僧正も、
祀られているので、一般に「両大師」と呼ばれている。
正保元年(1644)に建立されたが、現在の堂は平成5年の再建。
寛永寺五重塔
寛永8年(1631)に初建され、
寛永16年再建された五重塔は国指定重要文化財。
第五層のみ銅板葺きで、他層は瓦葺き、高さは先端宝珠まで36m。
第一層には、釈迦、薬師、阿弥陀、弥勒の四方四仏が祀られている。
銅灯篭
東照宮社殿落慶の日(慶安4年銘記の奉納品最多)、
諸国大名がこぞって東照大権現霊前(徳川家康公)に奉納した銅灯篭は、
実に50基という。(一括・国指定重要文化財)
不忍池
|
|
東京見物 015 東京の桜名所 06 日比谷公園
日比谷公園内の桜並木
日比谷公園の霞ヶ関官庁街に面した通りにソメイヨシノの桜並木が立ち並ぶ。
鶴の噴水
鶴の噴水は明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸術大学)の、
津田信夫、岡崎雪声の両氏に依頼して製作したもので、
装飾用噴水としては、長崎諏訪神社、大阪箕面公園に次いで、
3番目に古いもと言う。
台座は銅製だったが、戦時中金属回収で台座が石造りになったと言う。
桜と木々の緑と調和した美しい噴水である。
冬には鶴に薄氷が張ったツララが下がり、冬の風物詩となっている。
石橋
芝増上寺霊廟・旧御成門前の桜川に架かっていた石橋の一つで、
道路構築のとき、移設したもので、江戸時代を伝える、素朴な石組みである。
松本楼 と 大けやき
大噴水
昭和36年(1961)に、戦後復興の締めくくりとして、設置された。
三段水盤で、上段直径8m、中段直径14m、下段30mで、コンピュータ制御により様々な変化を見せ、夜間は水中照明によるライトアップ点灯。
中央建物は重要文化財・旧日比谷公会堂
バックのビルは、東京帝国ホテル。 外濠通り
日比谷交差点より
夕日の染まる第一生命館(旧GHQ=占領軍連合国総司令部)
帝国劇場 東京會舘 などのビル街
皇居外苑 外濠通りから、警視庁庁舎に日が沈み、外濠に映る夕日の光
夕日に照らされ、輝く帝国劇場 東京會舘
重用文化財に指定されている明治生命館
丸の内オフィス街の街並み
一丁ロンドン
明治末期からオフィス街として整備されてきた丸の内は、
大正3年(1914)の東京駅開業により発展、高層ビルが立ち並び、
丸ビルなどモダンなデザインを競うビルが建設され、
「一丁ニューヨーク」と呼ばれた。
この馬場先門の通りは「一丁ロンドン」と呼ばれ、
レンガ造りのビジネス建物街を形成した。
復元修復された「一丁ロンドン」ビジネス街。
|
|
東京見物 014 東京の桜名所 05
飯田橋 牛込見附 神楽坂
飯田橋駅脇の旧飯田濠暗渠上に咲くソメイヨシノ
牛込橋から飯田橋までの外濠は1980年代に埋め立てられ、
その上にビルが建設され、濠は暗渠化され、
暗渠上に水辺公園があり、石垣の一部が保存されている。
旧飯田濠を模した水辺公園
牛込見附 と 牛込橋
飯田橋駅の南西側に牛込橋が掛かっており、
南詰めに牛込見附跡の石垣があり、江戸城・田安門にと道は続く。
牛込見付は牛込御門とも呼ばれ、重要な交通路であった。
両側には「番町方」( 千代田区 側)と「牛込方」( 新宿区 側)と呼ばれ、
武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられている。
寛永13年(1636)に外濠が開かれた時は、
阿波蜂須賀藩によって造られたが、
その後の災害や老朽化で何度も架け替えられている。
牛込濠 と 外濠公園
牛込橋と市ヶ谷の間に、牛込濠があり、
J R中央線の線路は,外濠の土塁の内側を通っている。
土塁の上は外濠公園として、遊歩道があり、桜の名所となっている。
江戸時代は、海からここまで船が上ってきて、
全国各地から運ばれてきた、米、味噌、醤油、酒、材木などが、
荷揚げされていて、「牛込揚場」と呼ばれていたと言う。
神楽坂
牛込橋から北に神楽坂がある。
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したからとか、
津久戸明神が移って来た時この坂で神楽を奏したからとか、
若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤坂明神の神楽堂があったからなど、
神楽にちなんだ伝説から名が付けられたと言う。
善国寺
神楽坂を上りきった所に、善国寺がある。
「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代から信仰を集めていた。
本尊は毘沙門天立像( 新宿区 指定有形文化財)は、
室町時代頃と推定され、加藤清正の守本尊とも伝えられる。
善国寺は文禄4年(1595)に家康の意を受け、
日惺上人により創建され、「鎮護国家」の意を込め、
毘沙門天を安置したと伝えられる。
善国寺は、毘沙門天信仰から「虎」を重視し、
「石虎」が寄進者から寄進され、「石虎」は都内でも珍しく、
新宿区 唯一の作例で、 新宿区 指定有形文化財。
|





