なお爺のひとり言

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東京見物

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東京見物 013 東京の桜名所 04
 
六本木ヒルズ  東京ミッドタウン
 
 
  六本木ヒルズと毛利庭園(東京都指定旧跡)
 
六本木ヒルズは平成12年2月着工、平成15年(2003)3月竣工、
4月25日開業した多目的ビルで、高さ238m、地上54階、地下6階である。
 
六本木ヒルズの隣接は、毛利甲斐守上屋敷の一部が庭園で、
都心での桜の名所になっていて、色々とイベントも行われている。 
 
元禄の頃、吉良邸に討ち入りした赤穂浪士47名のうち10名が、
ここ毛利家上屋敷にお預けになった。
中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を、初代とする毛利家は、
現在の山口県下関に藩庁を置く、外様大名で禄高3万6,200石。 
赤穂事件当時は、3代藩主毛利綱元、56年の在任中、家臣団の整備や、
財政の建て直しを図り、藩政を確立させ、また和漢の学に長じた名君と知られていた。
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  東京ミッドタウンと檜町公園
 
東京ミッドタウンは平成16年5月着工、平成19年(2007)1月竣工、
3月30日開業の多目的ビルで、高さ248m、地上54階、地下5階、
東京都庁舎第一庁舎に代わって都内最高層ビルとなった。
 
赤坂檜町は寛永年間以後、長州萩藩毛利家、松江藩松平家、
山家藩谷家の屋敷地となり幕末を迎え、
幕府と萩藩とが対立し召し揚げとなっってしまった。 
明治5年武家地を合併したが、毛利家邸内にヒノキが多く、
檜屋敷と呼ばれそれが由来となった。 
明治になり、陸軍省用地になり東京鎮台歩兵営が置かれ、
後歩兵第1連隊となった。
戦後連合国に接収され兵舎になり、昭和37年返還され、
跡地は平成12年まで防衛庁が置かれたのである。
 
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東京見物 012 東京の桜名所 03
 
  皇居外苑・田安門と千鳥が淵そして北の丸公園
 
 
  皇居外苑・田安門
 
皇居外苑の田安門は、北の丸公園の日本武道館に行く、
玄関口の門と言ったほうが、現在は馴染みが有ると思います
 
田安門は寛永13年(1636)に建てられ、
現存する江戸城建築遺構のうち最古のもので、
北面する高麗門と、西側に直交する渡櫓門からなる枡形門で、
国指定重要文化財であり、昭和38年解体修理がされている。
高麗門の扉の釣金具に、製作したとされる職人の名文が在ると言う。
 
名前の由来は、門内の田安台という百姓地に、
田安大明神があったので門の名にしたと言われ、
江戸城造営後北の丸と称し、代官屋敷や、
千姫、春日局などの大奥女性の隠遁所となっていたと言う。
 
  田安門の外側
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  田安門の内側
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  田安門の内側 石垣
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  牛が淵 千鳥が淵
 
田安門の外側、左側は「牛が淵」右側は「千鳥が淵」の
深い濠が巡らされている。
「牛が淵」「千鳥が淵」の構造は「土塁式石垣」三段構造で、
基礎部分は土台となる大型の根石が据えられ濠の中に、
その上に水面に帯状に見える「腰巻石垣」と言われる石垣、
更にその上に高い土塁が築かれクロマツ・サクラが植えられた「腹巻土塁」、天端部は幅3m位の平坦部があり、
最上部に高さ3m位の「鉢巻石垣」が廻っている。
 
  牛が淵の景観
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  牛が淵の景観  正面は日本武道館の屋根
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  牛が淵の景観  土塁式石垣に咲くソメイヨシノ
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  千鳥が淵の景観
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  千鳥が淵の景観  千鳥が淵を横切る首都高速道
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  昼の憩い
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  北の丸庭園
 
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  旧近衛師団司令部庁舎建物(重用文化財)
 
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  北白川宮能久親王銅像
 
北白川宮能久親王は、弘化4年(1847
伏見宮邦家親王の第9皇子としてご誕生。 
輪王寺宮家御相続し、上野寛永寺門蹟に。
明治3年還俗し、勅命によりプロシア留学、
歩兵・砲兵・参謀の兵法を学び、北白川宮家を相続し、
明治17年陸軍少将任じられ歩兵第1旅団長、
明治25年陸軍中将歩兵第6・第4師団長、
28年近衛師団長に親補せられ、
台湾御出征し、疫病に罹り薨去。
陸軍大将に任じられ、国葬を以って、豊島岡陵に御埋葬された。
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  乾門(いぬいもん)   
 
明治になって建てられた京風の門。 
宮殿がある旧西の丸の裏門で、皇居北西、乾(いぬい)の方角にあるので、
その名が付けられ、坂下門の反対側に当たる。
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北桔橋門(きたはねばしもん)
 
本丸大奥に近い門で、外との出入りに使った門。
江戸城本丸防御のため橋を跳ね上げて遮断し、堀も深くなっている。
北桔橋門の両袖には、白い築地塀があり、天守閣の背後の重要性を感じ、
周辺の石垣は、江戸城城壁の中で一番高い(185m位)と言う。
北桔橋門の石垣は、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」で、
隙間が多く、見た目は崩れそうだが、地震には最も強いとされている。 
美しい屈折箇所は、直線が長くなると強度が落ちるため、
「ひずみ」と言う工法を用いる。
そして「算木積み」工法で、長方形の角石を交互に積み上げ、
扇形のそりをつけ、力を両側の稜線から内側にかけあって、
強度の安定性を高め、しかも美しい形に整えている。
江戸城の石垣としては、一番美しい景観をしていると思う。
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東京見物 011 東京の桜名所 02
 
   九段 靖国神社のさくら
 
靖国神社のソメイヨシノは、東京のさくら前線観測の、基準標本樹が在ります。
今年は気象庁観測史上1番最速と予測され、囃されましたが、
どうやら2番目の速さの開花と、3月16日にソメイヨシノの開花宣言が為されました。
 
その後の気象状況が、高低めまぐるしく変化しましたが、
やはり例年よりも早く満開となり、例年入学式のとき満開となる桜が、
今年は卒業式に桜が満開となり、門出の花吹雪を撒き散らせる風景となったようです。
 
  
  靖国神社境内
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  さくらの満開の靖国神社境内
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  靖国神社本殿
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  靖国神社札所
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  靖国神社神域
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  靖国神社神楽殿
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  大東亜戦争(太平洋戦争)戦没者の遺書
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  靖国神社就遊館
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  靖国神社神門
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  献納された銅燈篭
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 「靖国のさくら」の掲示板
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  靖国神社に献納された石灯籠 台座に戦記銅版掲載
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  大村益次郎銅像
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  さくらの木の下で!!
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  九段下 靖国神社境内参道入り口に並ぶ屋台店
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  九段下 早稲田通り 右靖国神社入り口交差点を望む 
      正面日本武道館 左東京電機大学九段校舎
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  九段会館(旧軍人会館)
 
戦前、軍予備役の訓練のため、宿泊施設として建設された。 
昭和11年2月26日陸軍青年将校の反乱事件のとき戒厳司令部が置かれ、
戦後昭和20年9月、連合国最高司令官総司令部(GHQ)により接収され、
昭和32年1月まで連合軍の宿舎として使用され、返還された。 
昭和28年国有化されて、九段会館と改称し、
「日本遺族会に対する国有財産無償貸与に関する法律」により、
日本遺族会に無償貸与されていた。 
3・11東日本大震災が、専門学校卒業式の最中に発生し、
天井材が崩落2名死亡、26名重軽傷したので、
犠牲者の遺族が告訴したので、日本遺族会は会館の営業を終了し、
国に返還したという。
今後、利用か、解体かの、予定はないと言う、戦前を語る象徴的建造物。
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東京見物 010 東京の桜名所 01
 
   東京駅八重洲口前からの「八重洲さくら通り」
 
「八重洲さくら通り」は、東京駅八重洲口、
都心に位置する150本ばかりのソメイヨシノが見られる、
桜名所として知られています。
 
夜間も地元商店街がライトアップしているため、
オフィス帰りのビジネスマンも花見が出来る、
名所スポットとなっています。
 
桜並木のある「さくら通り」は、東京駅八重洲口前から、
ビル街・商店街を真直ぐ貫き、やがて日本橋通りと交差し、
日本橋高島屋のすぐ脇を、更に昭和通り、首都高速道路を跨ぎ、
新大橋通りまで続く、ビル街を貫く桜並木道である。
 
東京駅八重洲口前「さくら通り」入り口
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さくら通りのソメイヨシノの開花
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日本橋高島屋の脇道の 「さくら通り」
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日本橋通りのソメイヨシノの開花
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オフィス街に咲くソメイヨシノ 昭和通り付近
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首都高速道路を跨ぐ「旧新場橋」 
ここは元神田川と元汐留川とを結ぶ、江戸時代からの海運の運河で、
水路で日本橋につながっていたが、
高速道路建設に、運河や江戸城外堀が埋め立てられ利用された。
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オフィス街に咲く桜並木  新大橋通り付近
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東京見物 009 皇居外苑2
 
 
皇居を護る文武2忠臣の銅像
 
楠公銅像
 
楠木正成(くすのきまさしげ)は、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、
鎌倉幕府の御家人帳にない河内国(現大阪府南河内)一帯の
水銀流通ルートで活動する豪族といわれ、
足利尊氏(あしかがたかうじ)と共に、
「建武の新政」の立役者として活躍もし、
また後醍醐天皇側近の人物との接触も持っていた。
 
 
南北朝時代の元弘年間(1333)後醍醐天皇の挙兵を聞くや、
正成も下赤坂城で挙兵し、南朝側の軍の一翼を担い、
後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、
大和国吉野などで戦った護良親王と共に、河内国千早城に籠城し、
鎌倉幕府の大軍と奮戦した。 
 
楠木正成の活躍に触発され、各地に鎌倉幕府倒幕の機運が高まり、
新田義貞らが挙兵し、ついに鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇も京に凱旋した。
 
後醍醐天皇の「建武の新政」が始まると、
正成は天皇の信任を受け、河内・和泉の守護となった。
 
建武元年(1334)正成が北条氏残党討伐のため京を離れた直後、
護良親王が謀反嫌疑で捕縛され、
「建武新政」に反抗する足利尊氏に引き渡され、
再び戦乱の抗争となった。
 
正成は、社会の混乱は後醍醐天皇の政治にあり、
力を持った武士階級を統制し社会を静めるには、
もはや公家政治では無理と認識し、
武士を統制できる武家政治の中心になれるのは、
足利尊氏以外にはないと、
尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言したが容認されず、
新田義貞の下での出陣を命じられ
「湊川の戦い」で尊氏の軍に破れ自害した。
 
 
南朝寄りの古典「太平記}には正成の事跡は強調されて記載され、
また足利氏寄りの史書「梅松論」にも、
尊氏自身が、清廉な正成に一目置く同情的に、記載されているという。
 
南北朝の抗争が北朝の勝利に終わると、南朝側の正成は朝敵とされたが、
永禄2年(1558)正成の子孫が、朝敵赦免を嘆願し、
正親町天皇の勅免を受けて、
そして江戸時代水戸学尊皇史家より、忠臣として見直されて、
これにより「湊川神社」創建に結実した。
 
「鎌倉幕府」からは悪党と呼ばれたが、
明治以後は「大楠公」と称され
明治13年、正一位を追贈された。
 
 
この銅像は別子銅山を開いた住友家が、
開山200年記念に、東京美術学校に依頼し作成し、
宮内庁に献納したもので、
高村光雲などの東京美術学校職員らによる、
当時の技術の粋を集めて作成され、
明治33年(1900)に完成献納された物と言う。 
 
本体高さ4m、花崗岩台座を加えると8m、
本体部の重量6,7トンと。言われる
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和気清麻呂銅像
 
皇居平河門近く、大手濠端、気象庁前、
東京メトロ東西線 竹橋駅 、大手町駅近くにある。
高さ4.2m宮中に登る、正々堂々たる気品に満ちた、
清麻呂像の中の最も有名な像。
 
 
和気清麻呂は、皇統を護った忠臣として知られ、
奈良時代末期から平安時代初期の貴族で、
備前国藤野郡( 岡山県和気町 )出身の、
奈良の都に出て近衛府に使えた人物。
 
 
天平宝宇6年(762)僧・道鏡は、
孝謙上皇(女帝)の病を、秘法を用い治療し、
それ以来孝謙上皇の寵愛を受けた。
 
孝謙上皇は、天平宝宇8年(764)藤原仲麻呂の乱の鎮圧後、
淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として重祚すると、
道鏡の権勢は非常に強まり、翌年太政大臣禅師に、
さらにその翌年には法王となり、
更に「天皇の位」に就きたいとの欲がでて、
称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたいとも思っていたという。
 
 
神護景雲3年(769)に、宇佐八幡宮の神官が、
「宇佐八幡神の神託」として、
僧の道鏡を皇位に就かせれば天下泰平になると、
称徳天皇へ奏上したので、道鏡はこれを信じ、
自ら皇位に就くことを望んだ。
 
そこで称徳天皇は、和気清麻呂を「宇佐八幡の神託」を確認するよう、
天皇の使者として八幡宮に参宮することを命じた。 
宣命文を読もうとし時、神が禰宜に託宣宣命を訊くことを拒んだため、
清麻呂は不審を抱き、改めて宣命を訊くことを願い出て、
禰宜が再び神に顕現を願うと、
身の丈三丈(約9m)の大神が現れ、宣命を訊くことを拒んだが、
大神の神託「天の日嗣は必ず帝の氏を継がしむ。
無道の人は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、
称徳天皇に報告した。  
これが宇佐八幡宮神託事件である。
 
清麻呂の報告を聞き天皇は怒り、
因幡員外介に左遷し、更にその後大隈国(鹿児島県)に流罪した。
 
神護景雲4年(770)称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚したので、
光仁天皇により従五位に復位し、美作・備前両国の国造に任じられ、
神崎川と淀川の治水工事などを行った。
 
桓武朝では、実務官僚として重用され高官となり、
平安遷都の建設を進言し、崩壊しかけた律令政治の立て直しに尽力した。
 
 
嘉永4年(1851)孝明天皇は、清麻呂の功績を讃え、
神階正一位「護王大明神」の神号を贈った。 
明治7年(1874)神護寺境内にあった清麻呂を祀った廟は
「護王神社」と改称され、別格官幣社に列し、
その後明治天皇の勅命により
神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座し、
明治31年(1898)没後1100年を記念し、贈正一位が贈られた。
 
昭和15年(1940)、紀元2600年記念事業として建立され、
楠公銅像と共に、文武二忠臣を象徴したものである
 
清麻呂は楠木正成と並ぶ勤皇の忠臣とみなされ、
戦前には十円紙幣に肖像が印刷されたこともあった。
 
 
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震災いちょう
 
和気清麻呂銅像脇に「震災いちょう」と呼ばれる
「いちょうの木」があります。
 
樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、
大正時代、文部省の敷地一ツ橋1丁目1番1号
(現在パレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にあった
 
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、
一面焼け野原になった都心にあって、奇跡的に生き残り、
当時の人々に、復興への希望を与えた。
 
その後復興事業に伴う区画整理に、
切り倒されることとなった際、
当時の中央気象台長岡田竹松氏が、
これを惜しみ後世に残したいと、
帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れ、
長官も意義を理解し、この地に移植したという。
 
 
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日本の道百選 内堀通り
 
 
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