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先日、神楽坂にある美味しいイタリア料理を供する店で知人と食事をした時のことです。
私達と同じタイミングで、外国人男性 ( イタリア人 ? ) と日本人女性のカップルが隣の席に着きました。手元に来たメニューを挟んでのやり取りから、「 良い仲 」 ではあるが、まだまだ 「 固い感じ 」 の残る間柄と推察しました。
前菜、パスタ、メイン ・・・ 我々とほぼ同じ進捗状況で食事が進みます。最後のデザートに至るまで同じような時間の進行を隣席と辿りました。 私は最後のデザートを選ぶ際に長考に沈みましたが、隣の外国人男性は別途運ばれたデザートメニューを一瞥しただけで 「 チョコレートケーキ 」 を頼んだようです。「 ティラミス 」 好きの知人は逡巡がありませんが、迷っていた私は、外国人男性が頼んだ 「 チョコレートケーキ 」 が気になり、自分もそれに倣おうと心中決めました。ウエイターが注文を取るまでに間がありましたので、何気なく 「 隣席の女性は何を頼むのかな ・・・ 」 と思っていました。ところが、男性に向かって女性は思いもよらない言葉を流暢なイタリア語で明瞭に発しました。
Non prendo il dolce stasera, perche sono a dieta.
私は、差し向かいで食事をする際に、「 きちんと 」 食べる人を好みます。
この 「 きちんと 」 には、「 好き嫌いなく、綺麗に食べる ・・・ 」 というのも、勿論含まれますが、「 場所、人、空気 」 を 「 きちんと 」 汲み取って食べることが出来るという意味が多分に含まれます。「 好き嫌いなく、綺麗に ・・・ 」 というのも、なかなか難しいと思いますが、状況を察して、さりげなく 「 きちんと 」 食べることは、それ以上であるかも知れません。
「 きちんと 」 した店で、「 きちんと 」 した相手と時間を共にする時は、やはり 「 きちんと 」 食事をしたいものです。言うまでもなく、西洋料理、しかも 「 それなり 」 の店では、「 時間共有 」 が基本です。「 皿数を同一にして、食事時間を共有する 」 という配慮は、同席の人間に常に払う必要があります。もちろん、その日の体調やお腹のこなれ具合など、特別な事情があれば別ですが、食事相手が注文した後で 「 ダイエットしているから、デザートはやめておく ・・・ 」 というのは、重大なマナー違反と言わないまでも、少し頂けません。美味しい食事を、「 きちんとした 」 相手と最後まで楽しく共有するのは、とても大切なことであると思います。
一方的な女性の話を聞きながら、外国人男性は、所在無げに 「 チョコレートケーキ 」 を口に運びます。私は、隣席を尻目に、「 ティラミス 」 を頬張り、屈託なく 「 美味しい ! 」 を連呼する知人の嬉しそうな顔色を見て楽しみました。
最後のデザートも美味しく楽しく、そして、さりげなく 「 きちんと 」 頂きたいものです。
そして、そのようなことを全て理解した食事相手というのは、本当にありがたい存在であると思います。
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ひとつ所に脚を留め置く安穏が、心の中で余りにも大きく面積を広げ過ぎ、非日常の新味が何故か恋しくなる ・・・
新しい旅を始める動機としては、決して悪くない筈です。
大きな駅の片隅から発車する、誰も気に留めない忘れられたような 「 各駅停車 」 の座席を占め、発車間際特有の昂揚感を静かに覚える瞬間 ・・・ 新しい旅がまた始まるという感を強く持ちます。
行き先が決まっていても、また決まっていなくとも、慣れ親しんだ大きな街から離れ行くローカル列車は、否応なく非日常という旅の奥中へ進みます。これから始まる旅へ抱く、大きな期待にほんの少しの不安が混ざった独特の心の振幅は、発車間際に掛かるディーゼルエンジンの細かい振動と相まって旅情の色を濃くします。
此処ではない何処か ・・・ 未だ見ぬその土地へ思いを巡らすうちに、僅かに残っていた不安を霧散させるように音もなく列車が動き出します。この刹那、私にとっての 「 新しい旅 」 が始まります。
安穏に沈殿した日常から歩を進め、新しい旅を始める季節がやってきました。
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Strange fits of passion have I known :
And I will dare to tell,
But in the Lover's ear alone,
What once to me befell.
When she I loved looked every day
Fresh as rose in June,
I to her cottage bent my way,
Beneath an evening-moon.
Upon the moon I fixed my eye,
All over the wide lea ;
With quickening pace my horse drew nigh
Those paths so dear to me.
To K
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Giovanni Bellini, St. Jerome in Desert, 1450.
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「 自然の前で、人は無力 」 という言葉をよく耳にします。
「 自然は人知を超えた力を ・・・ 」 という言葉も同義です。
しかし、私はそうは思いません。
自然が人間の営みを無視し、ある日突然その猛威を私達の頭上に振り翳す ・・・
たとえそうであったとしても、全ての人間が、それに慄き、絶望し、身を縮めながら
恐怖に震え続けるわけではありません。
人が自然の猛威を否応無く受け入れなければならない宿命を背負っているとしても、
我々は、それを乗り越えて行くに足る能力を備えている筈です。
たとえ自らが自然の猛威に屈し、立ち上がることの出来ない痛みを負ったとしても、
それ以上に他の人の身を案じ、他の人の痛みを自らのそれに置き換えて
涙を流す事が出来る ・・・
人間が本来的に持つこの尊い感情は、
「 人知を超えた 」 力の前で、決して為す術も無く倒れ行くものとは思えません。
自然現象が、何よりも大切な 「 命 」 を奪い去る力を持つのであれば、
その悲しみがたとえ耐え難いものであったとしても、
それを乗り越えて 「 生 」 を繋いでいく大きな力が我々にはある筈です。
人間が持つ、その 「 人知 」 は、無慈悲な自然の力を越える事は出来なくとも、
決して劣るものでもありません。
自然の力が時として余りにも巨大で、容赦なく眼前に立ちはだかるとしても、
私は、それに決して負けることのない人の力、そして人の心を信じたいと思います。
人は、決して屈し続ける事はありません。
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