イタリア Lezione

主にイタリアに関する読み物です。

雑感

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イタリアに限らず、旅先で感じた事を書いています。
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失われた時を求めて

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 日常生活の中で見る、何気ない風景の断片に、息を飲む事があります。


 「この景色は、以前見たことがある・・・」という経験は、少なからずどなたでもお持ちの筈です。
 いわゆる「既視感」という現象だそうです。物理的な脳生理学や、抽象的な精神医学等、いずれにしても自然科学の知識に疎いため、この現象を学術的に自分の中で咀嚼することは出来ません。ただ、「記憶」という言葉で漠然と考えています。


 人間は、意識的にせよ、無意識的にせよ「記憶」を「心」に植えつけて行きます。
 此処で言う「心」とは、自然科学の分野では「脳」ということになるのでしょうが、どういうわけか「心」とした方が、自分としては色々な意味で納得することが出来ます。自然科学の方面に明るい方は「脳」と考え、人文科学にその興を憶える方は「心」と捉えるだけで、違う媒体で思考を進めていっても、結局は「記憶」というキーワードに帰結するだけですから、そう大きな違いはないと思います。


 意識的に植えつける「記憶」は、「意識的に」憶えようとするものです。
 しかし、無意識に「心」に刻み込まれた「記憶」は、それが刻み込まれたことにすら気が付かないものです。「記憶」の断片は、日々の生活で、無限に堆積しますから、地層が重なり合うように、次々と「心」の奥底に沈殿して行きます。しかし不思議なもので、「心」の奥底の深い部分に沈殿し、もう2度と表層に蘇ってこないと思われる無意識的な「記憶」の断片が、突如として復活してくることもあります。無意識に溜め込んだ「記憶」と非常に類似した光景、音、匂い、触覚を経験すると、奥底で眠っていた「記憶」と、それらが瞬間的に結びつき、「心」の表層に突如として浮かび上がってきます。自らが能動的に憶えようとした「記憶」ならまだしも、何時、何処で、どのような状況で刻み付けられた「記憶」であるか全く判然としないだけに、この現象を経験すると、本当に不思議な感覚に囚われます。
 これが「既視感」というものなのでしょう。








 近代文壇の巨人、小林秀雄が、名著『モオツァルト』の中で、興味深い経験を語っています。



 「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑踏を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。僕は脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で篩えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった・・・。」

・・・小林秀雄『モオツァルト』



 小林が、モーツァルトの交響曲自体を、能動的に「記憶」していたのか判然としませんが、少なくとも、道頓堀を歩いている時に、交響曲と類似した音、もしくは交響曲を「記憶」した際に経験した光景、匂い、触覚といったものと類似した感覚から、「心」の奥底に眠っていた交響曲が、突如として表出したと思われます。


 「レコオド」を聞き直しても、もはや感動が蘇って来なかったということは、「既視感」によって得た小林の「芸術体験」は、少なくとも「レコオド」による明確な音の再現よりも勝るということを意味します。しかし「既視感」による特殊な感覚は、多分に個人的な「記憶」の表出ですから、突然「頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った」小林の経験は、あくまでも小林だけが持ち得るものです。


 個人的な「既視感」による経験を、他人が理解するのは、容易な事ではありません。
 しかし、小林の様に、過去に蓄積された一種の「芸術体験」すら「心」の表層に蘇って来るのですから、「既視感」は、想像以上に深層心理に深く根ざした現象なのでしょう。「既視感」を通じて、過去に自分が無意識に堆積した「記憶」を探ってみても面白いかも知れません。










 初めて、アッシジを訪れた時の事です。
 鉄道駅からバスに乗り、スバシオ山の中腹にへばりつくようにして並ぶ「中世の街」に向かいました。ホテルにチェックインした時、まだ陽が高かったため、初めての街に到着した際、いつもそうしているように、ホテルの周辺を散策してみました。中世の街の雰囲気を色濃く残すアッシジは、道も狭く、少し横に逸れると途端に入り組んで、まるで迷路のように方向感覚を狂わせます。山の片腹に立つが故のなだらかな街路の傾斜のみが、辛うじて我が方向を決めてくれます。


 冬のアッシジは、観光客も疎らです。
 静かな街並みに、少なからず感嘆して歩を進めていました。そして何の気なしに細い横道に入ってみた瞬間です。不思議な光景を見ました。狭い傾斜のついた石畳の道、3階建ての建物の玄関先に吊るされた鉢植え、所在無げに横たわる黒猫、細かい細工が施してある街灯・・・。全てが「何処かで見た・・・」ものだったのです。一瞬にして「既視感」を体験し、身体が震えるような感覚を持ちました。


 初めて訪れるアッシジの街、その街の何気ない風景・・・。
 それは、かつて私が無意識に蓄積した「記憶」を鮮烈に呼び起こしました。


 アッシジと似た「記憶」・・・それはどのようなものなのでしょう。
 失われた「記憶」、そしてそれを詰め込んだ「時間」は2度と蘇ることはありません。ただ、アッシジという見知らぬ街だけが、その「記憶」を辿る手掛かりです。


 自分だけが持つ「記憶」。
 そして、それが、この古都アッシジとどのように結びつくのか・・・。
 「既視感」の不可思議さと共に、際限なく「心」の奥底は広いものです。

大人の自由

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 後にも先にも「ツアー」に参加したのは、初めて香港に行った時だ。


 3泊4日の旅程中、2日目に「市内観光ツアー」が付いていた。
 初めて行く街の「観光地」に少なからず興味があったし、何よりも、その「ツアー」に参加しないと、旅行代金が割高になるという。「ツアー」に参加しない方が割高になるという不可思議な現象を訝しく思いながらも、朝7時にホテルのロビーに集合した。


 「ツアー」の移動手段は、観光バスだ。
 荷物を持って、歩き回らなくとも良いバスは気楽だし、観光地を効率よく訪れる事が出来る。九龍半島側から香港島へ渡る際も、タクシーを使えば驚くほど高い通行料を取られる海底トンネルさえ、構うことなく道程に入っている。事実、その後、数え切れないくらい香港を訪れているが、安いフェリーに乗りこそすれ、海底トンネルなど全く通ることがないから、存外「ツアー」も利するところがある。


 午後になって、何件かお土産物屋に連れて行かれた。
 成程、お土産屋の「マージン」がツアー会社に入るために、料金が安くなるのかと納得した。3泊4日の旅で「お土産」、しかも「他人」のものを手当てしている時間は如何にも惜しいから、連れて行かれる先の店で全て間に合わせた。


 「ツアー」というと堅苦しいイメージがあったが、なかなか便利なものだと感心した。
 しかしその後、香港はもちろん、他のどの国へ行っても、1度も「ツアー」に参加したことはない。生来、人見知りの自分にとって、見知らぬ他人と同じテーブルでお昼の大皿料理をつつくのは何よりも苦痛だった。バスで隣り合わせた、定年退職をして初めて海外に出たという男性の「会社」「病気」「息子夫婦」といった間断なく続く話に、頃合を見つけて合いの手を入れるのも煩わしかった。







 何度も海外旅行に出ている知人がいる。
 彼曰く、「個人旅行」こそ旅の醍醐味で、「ツアー」に参加しているようでは旅をしていることにはならないのだそうだ。以前、何かの酒席で「個人旅行とツアーでは、何が違いますか?」と聞いてみたことがある。自分より年上の知人は、大柄の身体を揺らしながら「今年40になってねえ、改めて思うけれど・・・旅の醍醐味は自由・・・自由がなければ・・・ツアーだとねえ・・・個人旅行の方が断然、自由が・・・」と断片的に話してくれた。


 知人は「何せ個人旅行だと、朝好きなだけ寝ていられるし・・・自分で食べたいもの・・・飛び切り安いものを探すことが出来る・・・行きたいところに行けるし、観たいものを好きなだけ観ていられる・・・自由だよ、自由。旅は自由だから面白い・・・」と、ことさら「自由」を強調した。


 成程・・・「自由」か・・・。
 知人と少なからず同じスタイルの旅をしてきた自分を振り返ると、この「自由」という言葉に、どうしても、言いようのない漠然とした違和感を感じる・・・。







 「個人旅行」が「ツアー」よりも「自由」であるのは、ある意味、正論かも知れない。
「個人旅行」は、すなわち「自由旅行」とも置き換えることが出来ようから、「個人の旅」=「自由な旅」の図式も当たっているのであろう。しかし、旅の「自由」とは、一体何だろうと思う。


 「食べたいものを探す自由」には、必然的に「時間を掛ける」ことが要求される。
 冬の夜、寒空の下、存在するのか否か判然としない「安くて美味しい店」を探し求めて、裏街を徘徊しなければならない。苦労して、此処はと思って入った店が、必ず「正解」とは限らない。20代の頃は、目に付くものが何でも美味しいそうに思えたし、たまさか「不正解」の料理でも、「舌に経験を積ませる」という名目で納得も出来たものだ。しかし30も半ばを過ぎて、世界中何処へ行っても、ある程度、金銭的にも「格」的にも、文字通り「自由」に店や食べ物を選べるようになった今、特段安くなくとも構わないかわりに美味しいものを食べたいし、何より空腹を抱えて街をさまよい歩くような旅は、余りしたいとは思わない。


 「行きたい所へ行く自由」には、すなわち、バスや列車、飛行機の手配から宿の確保が付随する。
 駅の窓口で、遅々として進まない列にイライラし、「横入り」を企む輩に目を光らせながら、尚且つ、いつ現れるかも知れない「置き引き」の手から、重たい荷物を守らなければならない。また、宿に予約の電話を入れるには、電話機、それも「壊れていない」公衆電話を、これまた重たい荷物を引きずって探さなくてはならない。1枚の切符を手に入れるために、1つの宿を取るために掛かる労力も馬鹿にならない。


 旅の「自由」とは、何なのだろうと改めて思う。
 食べたいもの、しかも美味しいとは限らないものを探して、知らない街を徘徊することなのだろうか。イライラしながら列に並び、時間を浪費するぐらいのことは、旅に出なくとも、日常生活で毎日やっている。「朝、好きなだけ寝ていられる」という怠惰な自分を、旅の間だけ「自由」という言葉に置き換えることに抵抗を感じる。重たい荷物を背負って、腰を痛めることを心配するのも「自由」に付きまとう副作用なのだろうか。


 旅の「自由」が何を意味するのか、未だに掴む事が出来ない。
 もちろん、人それぞれの自由があり、それを旅先で享受するのも「自由」であろう。「個人旅行」であろうが、「ツアー」であろうが、瑣末な事であろうと思う。ただ、「不安」や「イライラ」、「疲労感」といった日常生活で経験するような事象、もっと言えば「面倒くさい」事をやらなければならない「自由」・・・その裏側にある「不自由」が、最近どうしても頭に浮かんで来る。
 「自由」な旅を強調されればされる程、それに伴う「不自由」な旅をしてきた自分が、どうしても「自由」とは思えなくなってしまう。







 旅の「自由」には、少なからず「不自由」が付きまとうと思う。
 若い人が、自虐的な意味も含めて通る「経験」という旅の名目を、旅の「自由」に当てはめるのであれば、「不自由」の中の「自由」という、形而上的な論も成立するのかも知れない。「自由」を求めて旅の「不自由」の中に飛び込んでいく事が若い人の特権ならば、彼らが「自由」と信じて疑わない「不自由」さに気が付くのが「大人の旅」なのだろう。





 「不自由」さに、「経験」「自由」という名前を付けて、素直に旅を楽しむには、些か若さを失った。
 その代わり、(少しだけ「お金」が掛かっても良いから)「不自由」と思う部分を少しずつ「自由」に換える旅を探したいと思う。


 自分にとって、完全なる「自由な旅」がどのようなものであるのか、一向に見えてこないが、少なくとも「大人の自由」だけは求めたい。

Ladro !

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 イタリアで1度だけ「盗難」に遭ったことがある。


 ローマの Fiumicino 空港に着いて、手荷物を受け取ろうとターンテーブルで待っていると、いつまで経っても自分のバッグが出てこない。他の乗客は、次々と自分の荷物を取って消えて行き、とうとうターンテーブルが止まってしまった。これがいわゆる話に聞く「 Lost Baggage 」という現象かと思い、傍らの専用デスクに事情を申し出た。妙に愛想の良い若い男性の係員は、恐らく乗り継ぎのウィーンで荷物を乗せ損なったのでしょうと笑いながら言った。夕方の便には、確実に乗せるよう手配しておくとの事なので、ホテルの住所を教えて荷物を届けてくれるように依頼した。


 その夜、自分の荷物がホテルに届いた。
 やれやれとバッグを開け、着替えを取り出していると、横のポケットに入れておいた筈の小銭入れがないことに気付いた。日本を出る時に、残った小銭を1000円弱位入れておいたのだが、跡形もなく消えている。ポケットの口が1cmくらい開いていたのを思い出し、瞬間的に「盗られた・・・」と悟った。


 少額とはいえ、自分のものが盗まれたという事実は、気分を暗くした。
 しかし、時間が経過するにつれ冷静さが戻り、イタリアでは空港というその国の顔とも言える施設の職員でさえ「盗み」を働くのか!と怒るべきなのか、外国に出ているという自覚に欠け、不用意に金銭を手元から離した自らの浅薄さを自省すべきなのか、ベッドの上で暫く考えた。


 紛失した現金は、まず戻ってくることはない。
 一応、警察に届けるべきかとも思ったが、1000円位の損失で、旅行中の貴重な時間を浪費するのも・・・という結論に達し、「次から気をつけよう」という「薬代」にした。日本円の硬貨など、イタリアでユーロに換金する手段もなかろうし、小銭入れの中には、近所の稲荷神社で求めた旅行安全のお守りも入っていたから、盗んだ人物は、暫くの間、毎夜、狐の悪夢にうなさるのだろうなあと、ほくそ笑む事にして些か溜飲を下げた。






 イタリアで、旅行者が物を盗まれるという話をよく聞く。
 もし文字通り「よく盗まれる」のが事実とすれば、自分も旅行者の1人であることに違いないから、剣呑この上ない。


 漠然と「イタリアだから・・・気をつけなくては」と思っても、「何をどう気をつけなくてはならない」のか、具体的な「戦略・戦術」を想定しないのは、余りにも思慮を欠く。少なくとも「盗む側」は、「外国人の観光客=ある程度の金銭を必ず所持している=効率の良い仕事が出来る」という図式を念頭において事に及ぶ「確信犯」だから、ひとたび彼らに狙われれば、知能犯・粗暴犯の別なく、その時点で勝負の趨勢は決すると言っても良い。とすれば、旅行中の盗難防止策は、如何にして「盗む側に目を付けられないか」という一点に集約され得るであろう。


 幸いながら、「小銭の紛失」以来、イタリアで全く盗難の被害に遭わない。
 「よく盗まれる・・・」という噂が本当で、それがたまたま「小銭」で済んだのは幸運だったのだろう。

捨て子達の力

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 青い円形の陶板に、産着を纏った様々な赤ん坊が描かれている。


 フィレンツェの中心部、アカデミア美術館の裏手に、捨て子養育院( Spedale degli Innocenti )がひっそりと建っている。ドゥオーモの円蓋建築で不朽の名を残す、ブルネッレスキが設計した連続アーチのロッジアは余りにも優美で、かつてここに「捨て子」の養育施設があったことを忘れさせる。


 15世紀、金融と毛織物産業の一大拠点となっていたこの街は、その一方で「都市」特有の暗い影も濃くしていく。マキャベリズムが風土とも言えるフィレンツェで、肥大する人口によって富める層がより富み、貧しい層がその悲惨さを増すという構造が、半ば必然的に作り上げられた。明日の糧にも困るという家庭に生まれ落ちた赤ん坊は、公然と教会や富豪の軒下、あるいは道端に「捨てられる」運命にあった。


 人文主義の広まりと共に、赤ん坊の悲惨な末路に対して心を痛め、「捨て子」にも「人間的な可能性」を見出すという、如何にもルネサンス的な思想の土壌もこの街に醸成しつつあった。毛織物商組合の出資で「捨て子養育院」が創設され、多くの「捨て子」達が路上の露となる運命から逃れることになったのも、フィレンツェの幸運であろう。


 「捨て子」達は、養育院で育てられ、毛織物や商業、画業など様々な技術を手にして、「路上」から「生還」し、フィレンツェの「中」に戻って行った。少なからず彼らの「力」が、この街の発展を支える一助になったのは、想像に難くない。


 「捨て子」の「力」を掬い取る「合理主義」も、この街の一面であろうが、路上で消え行く彼らの姿に心を痛めた「人間らしい」多くの慈悲も、ルネサンス・フィレンツェの大きな要素であると思いたい。


 青い陶板に描かれた「捨て子」達の姿に、もう1つのフィレンツェがある。

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ミモザの花(再掲)

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 イタリアでは、3月にはいると街中がミモザの花で溢れる。


 黄色い可憐なミモザの花は、早春の訪れを告げる風物詩で「長かった冬も、もうすぐ終わり。今年も春が来たのだなあ。」と実感する。


 3月8日は「女性の日」(La Festa della Donna)だ。
 この日イタリアでは、男性が女性、特に勤労婦人(主婦も含む)に感謝の意を込めて、ミモザの花束を贈る習慣がある。どの街でも、即席の「ミモザ屋台」がたくさん出来て、男性は職場の女性同僚、母親、娘、妻、恋人・・・自分にとって大切な人のためにミモザの花束を求めていく。


 普段は、なかなか言えないけれど、やっぱり大切な人に感謝を込めて。
 この日だけは、ミモザを送る男性、それを受け取る女性、お互いに対する敬意と愛情を素直に交換出来る。


 この国を通り過ぎるだけの旅人には、ミモザを贈る人はもちろんいないけれど、街中に溢れる可憐な黄色い花を見て、素敵な女性の笑顔を思い浮かべる。





 1束買って、小さな教会にあるお気に入りのマリア像の前にそっと置いてみた。

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