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日常生活の中で見る、何気ない風景の断片に、息を飲む事があります。
「この景色は、以前見たことがある・・・」という経験は、少なからずどなたでもお持ちの筈です。
いわゆる「既視感」という現象だそうです。物理的な脳生理学や、抽象的な精神医学等、いずれにしても自然科学の知識に疎いため、この現象を学術的に自分の中で咀嚼することは出来ません。ただ、「記憶」という言葉で漠然と考えています。
人間は、意識的にせよ、無意識的にせよ「記憶」を「心」に植えつけて行きます。
此処で言う「心」とは、自然科学の分野では「脳」ということになるのでしょうが、どういうわけか「心」とした方が、自分としては色々な意味で納得することが出来ます。自然科学の方面に明るい方は「脳」と考え、人文科学にその興を憶える方は「心」と捉えるだけで、違う媒体で思考を進めていっても、結局は「記憶」というキーワードに帰結するだけですから、そう大きな違いはないと思います。
意識的に植えつける「記憶」は、「意識的に」憶えようとするものです。
しかし、無意識に「心」に刻み込まれた「記憶」は、それが刻み込まれたことにすら気が付かないものです。「記憶」の断片は、日々の生活で、無限に堆積しますから、地層が重なり合うように、次々と「心」の奥底に沈殿して行きます。しかし不思議なもので、「心」の奥底の深い部分に沈殿し、もう2度と表層に蘇ってこないと思われる無意識的な「記憶」の断片が、突如として復活してくることもあります。無意識に溜め込んだ「記憶」と非常に類似した光景、音、匂い、触覚を経験すると、奥底で眠っていた「記憶」と、それらが瞬間的に結びつき、「心」の表層に突如として浮かび上がってきます。自らが能動的に憶えようとした「記憶」ならまだしも、何時、何処で、どのような状況で刻み付けられた「記憶」であるか全く判然としないだけに、この現象を経験すると、本当に不思議な感覚に囚われます。
これが「既視感」というものなのでしょう。
近代文壇の巨人、小林秀雄が、名著『モオツァルト』の中で、興味深い経験を語っています。
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑踏を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。僕は脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で篩えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった・・・。」
・・・小林秀雄『モオツァルト』
小林が、モーツァルトの交響曲自体を、能動的に「記憶」していたのか判然としませんが、少なくとも、道頓堀を歩いている時に、交響曲と類似した音、もしくは交響曲を「記憶」した際に経験した光景、匂い、触覚といったものと類似した感覚から、「心」の奥底に眠っていた交響曲が、突如として表出したと思われます。
「レコオド」を聞き直しても、もはや感動が蘇って来なかったということは、「既視感」によって得た小林の「芸術体験」は、少なくとも「レコオド」による明確な音の再現よりも勝るということを意味します。しかし「既視感」による特殊な感覚は、多分に個人的な「記憶」の表出ですから、突然「頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った」小林の経験は、あくまでも小林だけが持ち得るものです。
個人的な「既視感」による経験を、他人が理解するのは、容易な事ではありません。
しかし、小林の様に、過去に蓄積された一種の「芸術体験」すら「心」の表層に蘇って来るのですから、「既視感」は、想像以上に深層心理に深く根ざした現象なのでしょう。「既視感」を通じて、過去に自分が無意識に堆積した「記憶」を探ってみても面白いかも知れません。
初めて、アッシジを訪れた時の事です。
鉄道駅からバスに乗り、スバシオ山の中腹にへばりつくようにして並ぶ「中世の街」に向かいました。ホテルにチェックインした時、まだ陽が高かったため、初めての街に到着した際、いつもそうしているように、ホテルの周辺を散策してみました。中世の街の雰囲気を色濃く残すアッシジは、道も狭く、少し横に逸れると途端に入り組んで、まるで迷路のように方向感覚を狂わせます。山の片腹に立つが故のなだらかな街路の傾斜のみが、辛うじて我が方向を決めてくれます。
冬のアッシジは、観光客も疎らです。
静かな街並みに、少なからず感嘆して歩を進めていました。そして何の気なしに細い横道に入ってみた瞬間です。不思議な光景を見ました。狭い傾斜のついた石畳の道、3階建ての建物の玄関先に吊るされた鉢植え、所在無げに横たわる黒猫、細かい細工が施してある街灯・・・。全てが「何処かで見た・・・」ものだったのです。一瞬にして「既視感」を体験し、身体が震えるような感覚を持ちました。
初めて訪れるアッシジの街、その街の何気ない風景・・・。
それは、かつて私が無意識に蓄積した「記憶」を鮮烈に呼び起こしました。
アッシジと似た「記憶」・・・それはどのようなものなのでしょう。
失われた「記憶」、そしてそれを詰め込んだ「時間」は2度と蘇ることはありません。ただ、アッシジという見知らぬ街だけが、その「記憶」を辿る手掛かりです。
自分だけが持つ「記憶」。
そして、それが、この古都アッシジとどのように結びつくのか・・・。
「既視感」の不可思議さと共に、際限なく「心」の奥底は広いものです。
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