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Winter Landscape with Church, 1811, C. D. Friedrich
週末は、雪が積もるようです。
誰の足元にも、それぞれの雪が積もります。
美しく積もりますように。
Some keep the Sabbath in Surplice
I just wear my Wings
And instead of tolling the Bell, for Church,
Our Little Sexton --- sings.
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雑感
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イタリアに限らず、旅先で感じた事を書いています。
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ローマの魅力に屈指する時、「 再訪に堪え得る 」 という事が真先に浮かびます。
初めて訪れた時に、深く感銘を受けるような旅先の街。
しかし、その街に再訪、三訪と足跡を重ねるうちに、あれ程までの振幅を心に及ぼした最初の印象が徐々に薄れていく ・・・ 旅慣れた方であれば、そのような経験を少なからずされているかも知れません。 「 名跡の見物は一度に限る、一度目で得た記憶を二返目で打壊すのは惜しい、三たび目に拭い去るのは最も残念だ 」 という警句は正に至言で、刮目第一感の感慨に勝るものはありません。
その一方で、再訪を重ねる度に、その街に新たな魅力を見出し、心動かされる事もあるでしょう。「 再訪に堪え得る 」 というのは、言い換えると 「 再訪の度に魅惑的な発見がある 」 となります。もちろん事象に対して何がしかの 「 魅力 」 を見出すというのは、個人的な感覚 ・ 感性が大きく関わってくる事です。その意味で、私の全く個人的な趣味嗜好が、異国のローマという街に多くの部分で重なり合う幸運を、再訪の機会に恵まれる毎に強く意識します。
それぞれの街には、それぞれの 「 空気感 」 が漂うものです。
ローマには、古都独特の空気が充満しています。 「 古都独特の ・・・ 」 というのは、無論、一朝一夕には成し難く、膨大な時間の上に、さらに膨大な時間が積み重なる事によってのみ成立します。その膨大な時間の隙間には、「 歴史 」 というありふれた言葉では決して括る事の出来ない、人間の 「 心 」 が無数に詰め込まれています。この 「 永遠の都 」 が積み重ねてきた膨大な時間の中で、どれ程の人がその 「 思い 」 を残して来た事でしょう。不揃いの石畳に立ち尽くし、その 「 思い 」 を心の中で斟酌すると、改めて古都たる空気が身体の中に入って来るような感がします。ローマを訪れる度に、街の至る所で見つける、否、感じる人の心の痕跡こそ、私にとっての 「 魅惑的な発見 」 であるかも知れません。
ローマでは名所旧跡に限らず、何気ない街の断片にさえも、思わぬ 「 発見 」 があります。
裏道の朽ちかけて誰も振り返らないような小さな石碑に、
Omnia vinct Amor : et nos cedamus Amori
という掘り込みを見つけては、心揺さぶられます。
ローマには、どれ程の 「 憎しみ 」 そして 「 愛 」 が刻み付けられているのでしょうか。
遺跡の隙間に切り取られたローマの風景。
黙して静かに並ぶ糸杉の列 ・・・ こういうものを見つけては、思わず沈思します。
ローマを好む自身の嗜好は一向に言葉にする事は出来ませんが、この街を訪れる時には、いつも新しい 「 発見 」 があります。
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コメント(12)
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イタリアに限らず、外国の街を歩く際、常に気になるのが 「 トイレ 」 です。
日本であれば、勝手が分かりますし、比較的清潔な公衆トイレが多いですから、余程のことがなければ、「 抜き差しならない 」 状況に追い込まれることはないでしょう。しかし、外国の場合、我が国よりも数の点で公衆トイレが圧倒的に少ない ( あったとしても有料のトイレが殆どかも知れません ) と思われます。運よく無料の公衆トイレを見つけたとしても、残念ながら衛生状態が極めて劣悪な場合も珍しくありませんから、「 トイレ難民 」 にならないために、ある程度の自衛手段を講じておくことが必要となりましょう。 美術館やレストラン等には、それなりに清潔なトイレが設置してありますから、そういった場所では、 「 まだまだ大丈夫 」 と思ったとしても、立ち寄っておく方が無難ですし、 「 自衛策 」 の基本でもあります。その先の 「 トイレポイント 」 が不確定な状況下では、常に 「 今そこにあるトイレ 」 に貪欲でなければなりません。 それでも、自分 1 人ならば、どうとでもなります?が、人と、特に女性と一緒に歩く時は心配なものです。 楽しく街歩きを楽しんでいても、徐々に口数が少なくなり、それとなく周りを見回す仕草が見受けられるようになると、「 トイレのサイン 」 なのでしょう。自分の立場に置き換えてみれば、生理現象を我慢しながら歩くのは、やはり辛いですし、折角の楽しい街歩きも 「 トイレ 」 のことで頭が一杯の 「 上の空 」 ではいかにも残念です。トイレが心配だからといって、飲み物を我慢させるのも如何なものかと思います。また、「 抜き差しならない 」 状況に追い込まれてから 「 ごめんなさい ・・・ トイレがあれば寄りたいのだけれど ・・・ 」 と、女性の方から言わせるようでは無神経の権化でありますから、なるべく気をつけていたいものです。 外国、特にイタリアの街を女性と歩く時は、特有の 「 仕草 」 が見受けられなくても、2 時間程度に 1 回は表通りのなるべく大きい bar に入り、休憩する事を心掛けます。 適当に間合いをはかり、「 ちょっと失礼 ・・・ 」 と言ってトイレに行き、 「 なかなか綺麗なトイレだったなあ。階段を降りた地下にあるから、行っておく ? 」 と水を向ければ、お互いスマートに 「 事を済ませる 」 ことが出来る筈です。 外国では自分もそうですが、他人のトイレ事情も結構気になるものですから、「 懸念材料 」 をスマートに取り除き、お互い心身ともにゆっくりと安心して街歩きを楽しみたいものです。 何回も訪れてよく知っている街であれば、安心して用を足せる 「 トイレポイント 」 を出来るだけ開拓しておきたいものです。 Firenze や Roma 或いは Napoli 等では、経験則上、独自の 「 トイレポイント 」 を要所要所に持っているので安心です。清潔な場所で、心安らかに用を足すのは、実に気持ちが良いものです。( 初めて訪れる小さな街であっても、こじんまりとした美術館等に入り、存外清潔なトイレを見付けると、なかなか得をした気分になります。) 以前、何かの折に知人男性に Venezia での顛末を聞きました。 夜、レストランで食事をしたあと、ホテルまで近いという安心感からかトイレに行っておかなかったそうです。しかし、夜の Venezia は、文字通りの 「 迷宮 」 で、知人は、あっという間に道に迷ってしまいました。ああでもない、こうでもないとグルグル 「 迷宮 」 を彷徨っているうちに、レストランで、したたか飲んだワインが効いてきて、膀胱が風雲急を告げ始めました。しかし焦れば焦るほど、薄暗い小道に迷い込んでしまい、いよいよ進退窮まる状況に追い込まれたそうです。 「 それで、一体どうしたのですか ? 」 と聞くと、 「 困った挙句、道でしてしまおうかと思った。でも、ふと気が付いたら良い場所があったので、そこにしたよ。なかなか気持ち良かった。よく考えると、Venezia には街中に用を足す場所があるな。水洗だし、ハハハ ・・・ 」 唖然 ・・・。 自分なら、たとえ切羽詰ったとしても 「 その場所 」 でしたくありませんから、今度 Venezia を訪れる際は、何はさておいても 「 トイレポイント 」 の開拓に精を出したいと思います。 追記 :
件の知人の様に、「 その場所 」 ( 街中の運河 ・ 小水路 ) で 「 してしまった 」 という笑い話は、頻繁にあるようですが、流石に何かしらの法律に抵触する可能性があるでしょう。「 安心して入る事が出来る、清潔なトイレ 」 記載に特化したガイドブックが出れば、かなり売れるような気がします ・・・。 |
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一人旅は、時として寂しさが道連れです。
バスの座席で揺られながら見る Toscana の丘陵に沈む夕陽
雨の向こう側で濡れる Palermo の黒い海
コートの襟を立てて遣り過ごす Assisi の深い寒気
Bologna の街中に巡らされた中廊の軒下で寄り添う男女の影
そして、Venezia の奥まった小運河に架かる小橋の佇まい ・・・
一人旅の 「 寂しさ 」 は、いつも、唐突に胸に迫ります。
「 自由 」 を得る代償として、時折感じる一人旅の 「 寂しさ 」
「 自由 」 とは、全く儘ならないものです。
旅先で、「 寂しさ 」 と上手く付き合うには、胸の中で無理やり 「 自由 」 を大きくするしかないのかも知れません。頭の奥の方で聞いていた音楽を、思わず口に出してみます。
・・・僕らの自由を 僕らの青春を
大げさに言うのならば きっとそういうことなんだろう ・・・
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「 全体 」 を俯瞰して客観的な判断を心掛ける事は、人生の要所要所で必要となる重要な素養でありましょう。
しかし、それとは対照的に、「 対人間 」 に関しては 「 個人 」 の差異を常に念頭に置く必要があると思います。そして、この事は、「 全体 」 を意識すると同等か、或いは、時として、それ以上に知的思考の範囲を広げる要素です。 「 最近の大学生は、遊んでばかりで勉強しないでしょう 」 という類の質問をされる事が間々あります。この種の質問には、正直答えようがありません。確かに、学業を疎かにして、サークル活動に精を出している A さんや、いつも一番後ろの席で居眠りをしている B 君の様な学生は、少なからず存在します。その一方、教師の拙い説明に、常に耳を傾けて必死にノートを取る C さんや、図書館に行けば必ず会う D 君も忘れ難い。すなわち、「 最近の大学生 ・・・ 」 という 「 全体 」 の括りでは、1 人 1 人異なる 「 個人 」 の動向が消えてしまいますから、先の質問には、「 う〜ん、そうですね 〜 ・・・ 」 と言葉に窮してしまいます。 「 最近の ・・・ 」 という質問の意図には、多分に 「 過去 」 との比較の意味が含まれているのかも知れませんが、昔とて色々な大学生がいたでありましょうから、やはり一概に 「 全体 」 で 「 個人 」 を推し量る事は難しいと思います。 「 イタリアは、もうこりごり。」 という知人がいます。 12 日間でヨーロッパ 3 カ国を巡るツアーに参加し、ローマに 3 日間滞在したそうです。 「 自由時間が 4 時間あったから、お土産を買いに行った。そこでお釣りを誤魔化されそうになったよ。いや 〜 話しには聞いていたけれど、やっぱりイタリア人は ・・・ 」
という類の話を、ある意味貴重な体験をしたというニュアンスの 「 優越感 」 を交えて、高らかに酒席でされていました。他に周ったロンドンとパリの印象が余りにも良かっただけに、知人の胸中で 「 イタリア株 」 は一気に下落したようです。
しかし、冷静に考えると 「 少し待てよ 」 とも思います。 僅か 3 日間のイタリア滞在 ( しかもローマだけ )、尚且つ 4 時間の自由行動で起こった 1 つの事象、さらに言えば、お釣りを誤魔化そうとした ( それも、本人の勘違いかも知れません ) という、たった 1 人のイタリア人との接触で、「 イタリア人 」 を 「 全体 」 化して良いのだろうかという疑問が残ります。僅か 4 時間の自由行動で 「 お釣りを誤魔化された 」 のは、確かに不運であり、気の毒であるとは思いますが、その事によってのみ 「 イタリアは ・・・ 」 「 イタリア人は ・・・ 」 という 「 全体 」 概念を形成するのは少し危険な気がします。 また、「 やっぱり、イタリア人は ・・・ 」 の下りには、言外に 「 日本人であれば、絶対にお釣りを誤魔化そうとはしない 」 という前提があり、穿った見方をするまでもなく、民族的な優越性をも匂わせますから、ご本人が自覚される以上に剣呑な物言いです。
一般的に、「 旅行 」 は短期間ですから、否定的な体験をすれば、それがたとえ瑣末な事であったとしても 「 全体 」 的な悪印象として記憶に残るものです。しかしそれによって、一国の、あるいは一国籍を持つ人間を 「 全体 」 化し、否定する思考や態度は如何なものかと思います。幸いにも肯定的な体験をして、その国、人種に好意を抱くことも考えられます。たった1つの事象を基に、妄信的に 「 その国大好き ! 」 「 ・・・ 人は、皆良い人だ 」 と受け止めるのも些か短絡的なのかも知れませんが、同じ 「 短絡 」 なら、肯定的な体験をする方が幸せでありましょう。 イタリアに限らず、多かれ少なかれ、旅行をすると、その記憶を 「 全体 」 化して留めたくなるものです。しかしその一方で、「 個人 」 のことも忘れないようにしたいと思います。「 ・・・ 人は 」 と 「 全体 」 を考えるのも、時には有益かも知れませんが、いつも心の内に人を 「 個人 」 で見る目線を持ちたいと思います。 たまたま入ったレストランで、不遜な態度のウェイターに酷いサービスを受けた ・・・ と思ったら、ホテルに帰るタクシーの運転手が降り際に 「 良い旅を 」 と言って、満面の笑顔をくれた。
街角で地図を開いて立ち止まっていたら、親切なおばあさんが、駅までの道を教えてくれた ・・・ と思ったら、駅の構内で擦れ違いざまに肩が触れた若者に大きな声で怒鳴られた。
そして ・・・
お釣りを誤魔化されそうになって腹が立った ・・・ と思ったら、別の店で買った袋詰めの ペペロンチーニに、おまけでオリーブオイルの小瓶が付いてきた ・・・。
旅行をしていて、改めて気付くのは、どの国や土地に行っても、「 色々な 」 人がいるという事です。それは、普段の自分の生活の場である職場やご近所に、良い人もいれば、鼻持ちなら無い人もいるのと全く同じ事です。「 何処其処の国は 」 「 なんとか人は 」 という 「 全体 」 の括りに短絡するのは、異国や異人種の多様性に対して無知である事を公言するに等しいですから、上記の意味合いとは別の剣呑があります。
「 トマトが嫌いなイタリア人 」 「 昼寝をせずに真面目に働くスペイン人 」
「 酒に弱いロシア人 」
「 俳句を趣味とするケニア人 」 ・・・
そういう面白い人達を 「全体 」、特に否定的な 「 全体 」 概念の中に埋没させてしまうのは、如何にも残念ですし、異文化理解の初手に重大な齟齬をもたらすと思います。
少なくとも、過度な 「 全体 」 の視線は、旅の良さの範囲を狭めるように思います。 |



