イタリア Lezione

主にイタリアに関する読み物です。

雑感

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イタリアに限らず、旅先で感じた事を書いています。
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残るもの共

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 Panteon ( Pantheon ) を観ていると、「 残るもの共、理に適い 」 という金言を思い出す。



 現代の Roma においても、Panteon の堂々たる 「 立ち居振る舞い 」 は、強烈な存在感を持つ。
 剣呑な石畳を慎重に踏み締め、Roma 中心部特有の入り組んだ街路を幾つも抜けて進んで行くと、突如として Panteon の巨体を仰ぎ見る小さな広場に出る。周囲を取り囲む、遙か時代が下った、Renaissance 、Baroque 等の建築様式群に囲まれて佇んでいても、その圧倒的な居姿は、些かも褪せる事はない。「 古典主義 」 に抗うが如く、時折傍らを通り過ぎる、現代の奇抜な色合いや風俗さえも、所詮、偉大な 「 巨人 」 の風格を引き立てるだけの存在に甘んじる事になろうから、「 残るもの 」 が発する雄弁の眼差しは、思う以上に説得力を持つ。「 遺構 」 と言うには、余りにも不釣合いな Panteon の 「 立ち居振る舞い 」を観る度に、言いようも無い感慨が奥底から湧き上がる。





 Panteon を仰いで、改めて 「 残る 」 という事を考える。
 時間という容赦の無い風雪に耐え、その巨躯を粛々と保ち続けるという、一種の 「 奇跡 」 に想いが及ぶ。梁も柱も無く、巨大なドーム状の天井を、2000年という気の遠くなる時間を越え、今なお支え続ける Panteon の 「 奇跡 」 は、やはり尋常ならざる事態を思わせる。その 「 奇跡 」 の自明は、後年、各地で教会等に据え付けられた巨大なドームが、世紀を跨がずして、あっけなく崩落の憂き目を見たという建築史上の悲劇を列挙するまでも無い。技法という点で遙かに後進的な、Roma 時代の 「 創意工夫 」 が生み出した、Panteon の居姿に、現代的な後付けの建築学的 「 理 」 を被せるには及ばない。気の遠くなるような時間を越え、其処に未だ凛として「 残る 」 という一点のみに、Panteon の 「 理 」 が見出される。


 或いは、人の心。
 時間の経過は、人の心に、絶えず抗い難い誘惑を投げ掛ける。古いものより新しいもの、時代の進展と共に、常に新しい 「 何か 」 を創造するという、人の心に植え付けられた本能的な欲求は、奇しくも Panteon の周囲に屹立する、異なる時代様式の建築群を一瞥すれば、明らかとなる。破壊、略奪、そして、進歩と創造。永遠の都に降り注いで来た、人の心を取り巻く、欲望的な歴史の変遷を顧みた時、何故、Panteon が 「 残る 」 のかという感嘆が去来する。「 残る 」という現象に対して、最も大きな障害となる 「 人の心 」 をも、この巨躯は凌駕して来たのであろうか。

Reggionale

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 列車の旅は、楽しい。



 車窓に映る風景を観ていると、飽かず時間が過ぎてゆく。
 大きな街の駅を出て、列車が郊外へ、その方向を定めると、途端に地方特有の景観が次から次へと目に飛び込んで来る。そういう1つ1つは、一瞬にして通り過ぎる、文字通り 「 一期一会 」 の刹那な 「 絵画 」 だから、余計に愛おしい。1つの風景が通り過ぎる度に、もう2度と同じ光が自分の目に映る事はない等とぼんやり考える。それが列車の行程独特の旅情と相まって、心の旅は、一層濃く、その密度を増す。


 例えば、Toscana の田園風景。
 丘陵地帯を幾つも越え、車窓には、地平の向こうまで広がる田畑の波が映し出される。その中に、たまさか、ぽつねんと佇む人家を見出しては、そこに住む家族の顔、日々過ぎる暮らしの装いに想像が膨らみ、幾らでも時間が過ぎて行く。或いは、列車が昼下がりの小さな駅に停車し、1つしかないホームに、隣町の学校から帰宅する子供の一団を遣り過ごす。改札もなく、駅員も居ないマッチ箱のような駅舎を駆け抜けていく幼い喚声を、のんびりと窓越しに聞いていると、もう列車は、次の風景を求めて、ゆっくりと動き出す。長閑ではあるが、決して退屈する事のない時間が列車の旅には流れる。





 イタリアに、大きな街があるならば、それらの間に漠と広がる 「 田舎 」 の景色も忘れ難い。
 ES や IC のような特急列車に乗り込んで、一足飛びに大きな街を駆け巡る旅も良いが、時間を無為に過ごすという旅の最も贅沢な過ごし方が許されるならば、Reggionale と名が付いた鈍行列車で、田舎の風景をゆっくりと眺めていたい。「 地方にこそ、その国の原点がある 」 という、社会史学的な常套句は、蓋し至言で、その素朴な 「 原点的魅力 」 は、如何にも観光地的な大都市の魅力に勝るとも劣らない。田園地帯、海岸沿い、或いは、海も山もない有り触れた風景であっても、Reggionale の車窓に映る 「 原点的魅力 」 は、時間を置いて脳裏に残る。





 Reggionale が、また1つ名も知らぬ駅に停まる。


 行き先も目的もない、列車で巡る田舎の旅。

bancarellisti

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 欧州における他国と同様、イタリアの観光地を歩いていると、必ず道端で物を売っている人を見掛ける。



 路上の片隅に、出所定かではない物品を並べて売る姿は、どの街でも一様に目に入る。
 折り畳み式の机を広げて、「大々的」に商う者も居れば、薄い布切れを歩道の隅に敷いただけで「即席」販売を試みる者まで、その「形態」に異種あれども、売っている品揃えは、左程差がない。「サングラス」「手製の簡単な装飾品」「 imitation のブランドバッグ」あたりが、人気の品であろうか。仕入先や、流通ルート等は知る良しもないが、何処に行っても、大概似たような「商品陳列」であるから、案外、それらを束ねる大規模な「元締め」が居て、観光客等が思いも付かない、アングラ的な「経済基盤」が奥底の深い所で成立しているのかも知れない。


 路上で売られている物を買ったことはないが、売っている「人間」は、いつも気になる。
 元来、「路上で物を販売する人」には、良くて「露天商」、通俗的には「テキ屋」という日本語を当てはめる。しかし、イタリアにおける観光地の路上で商う人達を「テキ屋」と呼ぶには、少々違和感が残る。「テキ屋」と言えば、如何にも渥美清的な「啖呵売」を、その旨とし、通行人の気を惹く流れるような「口上」とまでは言わないまでも、何がしかの「売らんかな」気質があるものだ。そのような「テキ屋」気質は、見ている限り、イタリアの路上販売人に感じる事はない。辛抱強く路上に座り込み、ひたすら客が「来店」するのを待ち続けるのが、彼らの流儀であろう。たまに、「店先」に足を留める客に一言二言声を掛ける事はあっても、積極的な呼び込みをすることはないようだ。日がな1日、路上に座って物が売れるのを待ち、当局の「手入れ」を予感すると、素早く商品を抱えていずこに消える・・・これがイタリアにおける「正当な」路上販売の姿であるように思う。
(こういう露天販売を見て、誰かが typical Catholic と言っていた事を記憶する。cynical な物言いではあるが、ある意味、含蓄のある至言だと思う。)










 Firenze のような狭い街では、露天販売の姿も、余計に目に付く。
 毎日のように同じ道順で散歩をしていると、自ずと露天販売をする人の顔形も判然として来る。「商品」には、相変わらず気を惹くような物はないが、彼らの動静に、飽かず目が行く。露天販売であろうとも、いつもの場所に、いつもの人が居れば、不思議と安心するものだ。街に対して、定点的な手掛かりのない旅行者にとって、彼らが見せる「いつもの」姿は、Firenze の「日常風景」を垣間見る、ある種の「窓口」になるのかも知れない。「 Vecchio の袂でサングラスを売る明るい大柄なアフリカ人」、「国立図書館の前にある小さな広場で、鉢植えを並べる長髪の若者」「Uffizi の影で、小綺麗なアクセサリーを商うジプシー風の少女」、そして「 S.M. Novella が掲げる十字架の下で、小さな聖母のモザイク板を並べ、静かに佇む初老の男」・・・いつもと同様、其処にいる姿に、街の日常を見るような心持ちになるが、彼らの横顔に時折染み出る、ふとした悲哀に言いようもなく胸が締め付けられる。





 「テキ屋殺すに刃物は要らぬ。雨の3日も降れば良い・・・。」

 朝、目が覚めて、ホテルの窓の格子を開け、雨が降っていると、建物の軒先で恨めしく空を眺めながら溜息する、彼らの悲しげな顔が浮かぶ。

albergo

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 小さなホテルも、良いと思う。



 設備が整い、かしずくような従業員が万事全てを請け負うような大型の高級ホテルは、安心で快適だ。
 立派なホテルに泊まり、バスタブに溢れんばかりと温かい湯を張り、広いベッドで朗々と安眠を貪るのも、旅の疲れを癒す手段として、時に必要となろう。ローマやミラノ等の大都市ともなると、この類のホテルは「立地」という捨て難い魅力があるから、比較的多く利用している。





 しかし、地方の静かな街並みに旅の歩を進めた時に泊まる、落ち着いた小さなホテルも楽しい。
 街の大きさに比例して、決して出過ぎず、こじんまりとした小さな「宿」もまた、旅の一時を預けるに足る佇まいであると思う。小さなホテルと言っても、街外れにある場末の暗い「木賃宿」では頂けない。比較的大きな通りから、少しだけ奥に入った場所にあり、観光客の嬌声が届かない、静かな滞在が約束されるようなホテルであれば言う事はない。


 地方の小ホテルは、それを営む人の個性が如実に表れて趣がある。
 小さなホテルには、凝った bar も、広いプールもないけれど、客の滞在が健やかであるように工夫した「手作り」の優しさがある。玄関先に並ぶ可愛らしいテラコッタの鉢植え、掃除の行き届いたフロントロビーの一隅で薄い光を放つアンティーク調のスタンド、食堂内の雰囲気を纏める上品な淡いブルーのテーブルクロス、天窓から柔らかい陽光が入る清潔なバスタブ、そして、遠くまで緑の起伏を眺める事の出来る部屋に付いた小さなバルコニー。その1つ1つを誂えた人が持つ、柔らかな感性もまた、滞在を安寧足らしめる大切な要素になろう。





 小さな街の小さなホテル。
 またいつの日か泊まってみたいと思う安心出来る「宿」を見付けるのは、意外と難しい事だから、そういうホテルと巡り会う喜びを大切にしたいと思う。

都市と壁

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 「壁」の中に佇むと、不思議な安心感に包まれる。





 例えば、Siena のような城壁都市。
 起伏に富んだ風景が何処までも広がる Toscana の丘陵地帯。その一段小高い丘の上に忽然と建つ城壁に囲まれた空間。街と、その外を明確に遮断し、外界の脅威から都市の安寧を確保する壁の存在は、住民の精神生活に大きな影響を与えて来た。


 隣国との緊張や異民族の襲来、或いは、恵みをもたらす一方、時として容赦なく迫る「自然」という天害。
 中世における、そうした外界に対する脅威は、今では推し量る事も覚束無い程に激しいものであったに違いない。その脅威を唯一、緩和する「壁」の建設は、頼るものなく孤立する都市にとって、必然的な選択肢であった事は想像に難くない。其処には「壁に囲まれた偏狭な生活を耐え忍ぶ」というよりも、「壁の内側に居る」という、外界の脅威から解放されるが故にもたらされる精神の安定が顕在した。壁一枚隔てた「内側」には、見上げるような高い塔や教会を中心にして、幾重にも重なる「都市」建設の謳歌があった。その「内側」と、手付かずに広がる「外側」との極端なまでの対照は、中世における「壁」の存在の大きさを窺わせる証左となろう。Toscana の、際限なく広がる丘陵地帯を俯瞰し、Siena のような街の、心細い程に去来する「孤立」という感覚を体感することによって、城壁の本当の意味が見えてくる。






 現代の空気を吸って屹立する Siena の「壁」は、幾分その役目を軽くする。
 隣国や異民族の不意なる襲来はあるべくもない。丘陵独特の強風は予報され、獰猛な獣の遠吠えは遠のき、かつて異常なまでに慄いた見えざる「自然」の脅威は去った。現代の「壁」は、かつての「城壁都市」としての来歴を、今に伝える存在として佇むようにすら見える。


 しかし、Siena の「中」に立ち、「壁」を意識すると、不思議な「安心感」に包まれる。
 「包まれる」という感覚は、その「街」の中に存在する自らの姿を、明瞭に際立たせるかのようだ。全ての空気が「壁」の内側に向かって流れ、街の存在を凝縮する。その濃い空気が、街の何処を歩いていても、常に身体に付きまとい、目に見えない何かに「包まれている」という感を強くする。「壁」の上に立ち、途方もなく広がる丘陵に目線を移す時、現代においてさえも、悲しい程の「都市」の孤立を実感し、「壁」の存在に改めて思いを馳せる。




 城壁都市の「壁」は、現代も生きている。
 「壁」を意識して、不思議な「安心感」に包まれる感覚を持つと、中世という過ぎ去った時代の空気を吸うような気がする。


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