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学生の頃、一時期、Dublin に居た事がある。
EU に加盟する以前のアイルランドは、西欧州の貧困を一手に引き受けていたような国で、首都 Dublin の中心部でさえ、一歩裏通りに入ると物乞いが徘徊し、荒んだような雰囲気が漂っていたものだ。隣国の英国に対する奥深い劣等感と、Irish の悲哀に満ちた歴史的残存から、まだまだ抜け出すことの出来ない時期であったように思う。
毎晩、大学の図書館で夜遅くまで勉強した後、独りだけの寂しい下宿部屋に帰った。
大学から下宿先まで、薄暗い住宅街の一本道を帰る途中に、一軒の小さな Pub があった。緑色をした磨りガラスの向こう側から、いつもかすかに音楽が聞こえてきた。
心まで冷え切ってしまうような、真冬の寒い晩に前を通ると、よく 『 The Dark End of the Street 』 が掛かっていたものだ。
At the dark end of the street
That is where we always meet
Hiding in shadows where we don't belong
Living in darkness to hide our wrong ・・・
口ずさむ事が出来るくらいに、いつの間にか覚えてしまった歌詞を、陰鬱な Dublin の冷え切った夜道を独り歩く自分に重ね合わせてみる。 If we should meet, just walk, walk on by, darling, please don't you cry ・・・ という部分が耳に届くと、独り身が余計に染みて、自然と歩みが速くなった事を憶えている。
この曲を何かの拍子で聴く度に、薄暗く冷え切った Dublin の冬の夜を、独り歩く自分の姿が蘇ってくる。
旅先では、色々な音楽に巡り合う。
イタリアを頻繁に訪れるようになってからも、それは同じだ。
そして、音楽は、その時に見た風景や心の動きと共に、いつまでも深い思い出として鮮烈に胸に刻み込まれる。音楽を聴く度に、風景を思い出し、風景や心情を思い返す度に、音楽が蘇ってくる。
雨の降る Lucca で、通りすがりの若者が口ずさんでいた 『 Raindrops Keep Fallin' on My Head 』、Mestre の trattoria で、初老のギター弾きが朗々と歌った 『 Volare 』、Palermo の海岸沿いにある小さな bar で、突然ラジオから流れてきた 『 Cavalleria Rusticana 』 間奏曲・・・
そういった曲を、ふと耳にする度に 「 人気が消えた、雨に霞む Duomo 広場 」、「 オレンジ色に暮れなずむ
Venezia の遠景 」、「 何処までも広がる青い海を見ながら飲んだ温かいレモネード 」といった情景が、鮮やかに胸に蘇る。
心に残る音楽は、たとえそれが侘しいものであったとしても、時として旅の断片的な情景を忘れ難くする大切な要素になるのだと思う。
Amalfi 海岸の一本道をバスは進んでいく。
車窓から見える景色に引き寄せられ、思わずバスを降りる。
もう二度と巡り会う事が出来ないであろう、美しい風景。時が経つのを忘れて、いつまでも眺め入った。目の前に広がる景色と空気の色が、心の奥深くまで染みていく・・・。
辺りが暗くなる頃、我に返り、通り掛かりのバスに手を上げて飛び乗る。
どんな音楽が似合うのだろう・・・
バスの座席に着き、暮れていく遠い水平線を見ながら、ふとそう思った。
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