イタリア Lezione

主にイタリアに関する読み物です。

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イタリア旅行に関する記事です。
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Romanico Parmigiano

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 天蓋に施された、見事な Correggio の大作に酔いつつ外に出ると、広場に薄く西日が差し始めています。



 Parma の街に溢れる Romanesque の様式美。
 その香りを最も強く放つ Duomo は、内部円蓋に描かれた Correggio の Santa Maria Assunta をもって、広く名を知らしめています。しかし、外に出て、もう一度振り向けば、facade に並ぶ可愛らしくも印象的なアーチの列が否応無く目に留まります。その傍らに、対照的な佇まいを見せる男性的な鐘楼の屹立も、素朴な様式美の妙を放つかのようです。小さな Duomo 前の広場に立ち、西日が当たって薄く輝く Romanesque の麗辞を目の当たりにすると、Correggio が持つ荘厳な魅力とは別の感慨が湧き上がります。



 西日の筋が、右手の洗礼堂に移る頃、壁面の淡いバラ色は映え、広場は 1 日のうちで最もロマンティックな時間を迎えます。洗礼堂を包む壁面の薄いバラは、色彩のみならず、芳しい 「 香り 」 までも広場に充満させるようです。Duomo の facade をリズミカルに囲むアーチ、重量感溢れる鐘楼、そして洗礼堂の淡いバラの 「 香り 」 ・・・ Romanesque の美は、此処に極まりという感が波の様に押し寄せ、夕刻の風情も相まって、心が締め付けられる思いに襲われます。



 Parma で輝き、「 香り 」 を放つ Romanesque の美。
 イタリアで最も心に残る美しさの 1 つです。



 広場に面した bar のテラスでは、次々とグラスが傾けられます。
 西日を浴びて、黄金色に輝くワインがグラスの中で踊り、穏やかな時間に身を任せる男女が、やがて静かに寄り添い始めると、Romanico Parmigiano のロマンティックは、静かに頂点に達します。







http://blogs.yahoo.co.jp/naokiart1969/33841059.html

Pini di Roma

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 O. Respighi の交響詩に、「 ローマの松 」 があります。



 ローマの遺構群を巡り、あれこれと思索に耽ると、余りにも有名なこの交響詩を、時折思い出します。
 Foro, Caracalla, そして皇帝の名を冠するような巨大遺物は勿論のこと、朽ち果て、生い茂る草の丈に埋もれるようにして佇む、もはや考古学的な 「 遺構 」 とも呼ぶ事の出来ない 「 廃墟 」 まで、ローマに残る時代の痕跡は枚挙に暇がありません。そのような遺構群の傍らに、寄り添うようにして伸びる松もまた、ローマに似つかわしい風情です。


 名も無い遺構に独り立ち、空想は時代を越えて遡ります。
 静まり返った廃墟の此処かしこに盛時の跡を辿ってゆけば、朽ちた壁は、その装飾を取り戻し、倒れた丸柱は重厚な石の天井を支え、崩れた石畳の上を人や馬が行き交います。一体どれ程の年月が、己の立っている場所に流れたのか ・・・ その歳月の中で起こった、創造、盛衰、破壊、そして略奪 ・・・ そのような去来が胸に迫る時、ふと傍らに伸びる松の存在に気が付きます。


 盛衰を繰り返すローマを、物言わず見続けて来た松の巨体。
 幾多の人と、膨大な歳月が織り成す 「 時代 」 の現象を、ただ超然として見下ろしている松は、ローマという都市の生証人でもあります。もはや誰も振り向かなくなった 「 廃墟 」 の盛衰は、傍らの松だけが知っているのかも知れません。


 Respighi ならずとも、「 ローマの松 」 は、1 つの都市に流れた時間を辿る術となります。
 黙して語らぬ松の木と、時代の流れに翻弄される人の栄枯を比す手法は、この交響詩に一貫する哲学です。
Respighi に倣って、「 ローマの松 」 に着目し、遺構群に微かに残る都市盛衰を思い返すのも悪くない楽しみ方であると思います。ローマの風景を支配し、何世紀にも渡って街を見続けて来た巨木は、今を生きる人をも、時代の一部として、その樹皮に刻み付けるのでしょう。





 ローマと松。

 誰も居ない 「 廃墟 」 の中で、壮麗な Respighi の調べが頭に蘇る時、振り向けば、其処には黙して屹立する巨木がある筈です。





Noi eravamo come voi, voi sarete come noi.

・・・ la iscrizione di S.M. Immacolata Concezione

la musica

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 細く暗い路地を抜けて、小さな campo に出ると、時折、何かしらの 「 音楽 」 が聞こえてきます。



 Venezia には、存外、「 音楽 」 が似合います。
 人一人通れる程の細く薄暗い路地を幾つも曲がり、行き先を見失うような漠然とした不安感を抱えつつ歩を進めると、不意に、陽当たりの良い開けた campo に出る ・・・ Venezia の散策は、目的地が定まっていてもいなくとも、いつもそのような道程です。そして、突き当たった campo の一隅に、ちょっとした人だかりを見つけ、その輪の中から 「 音楽 」 が聞こえてくると、不揃いな石畳に疲れて閉口していた足取りも、「 気付け 」 のように正気を取り戻します。


 「 音楽 」 の 「 主 」 は、様々です。
 使い込まれたギターを手に、楽しげに見物人のリクエストに応える者、大所帯の 「 楽団 」 を組み、見知らぬ楽器で遙か遠い異国情緒漂う演奏を行う人達、或いは、マンドリンの憂いを帯びた重奏を物言わず奏でる 2 人の男女。いずれも、暗い路地から解放され、campo の明るい光の中に出てきた人の耳目を集め和ませます。たまさか、知っている曲が耳に入ると、暫し 「 音楽 」 の前で足を留め、満足すれば幾ばくかの小銭を置き、目的地までの道筋を求め、また細く暗い路地に入って行く ・・・ campo に流れる Venezia の 「 音楽 」 は、そのような楽しみ方をすれば良いのでしょう。


 集まった人の輪の中から、不意に Volare の曲が流れてきます。
 ギターの若者が、静かに爪弾くようにして鳴らす音が campo に染みます。


Volare, oh ... oh
Cantare, oh, oh, oh, oh

Nel blu dipinto di blu
Felice di stare lassu ...


 

街の記憶 ( 改 )

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 Venezia ... 静かな laguna に浮かぶ水上都市 ・・・



 Venezia の街に奥深く入り組むようにして通る小運河。
 その 「 水の小道 」 然とした水面と、それを生活の一部として、至極当然のごとく 「 道 」 として使う人達を観る度に、ふと、ある 「 錯覚 」 に陥る事があります。


 建物の壁面に割れ目が走り、家々の入り口が歪み、教会の鐘楼が心なしか斜めに延びる様子を観ると、「 水の小道 」 が、「 道 」 として、人為的に街の隅々まで 「 張り巡らされているのではない 」 という事に改めて気が付きます。Venezia は、遠浅の laguna に無数の杭を打ち込み、その上にモザイクのごとく石を寄せ集めて築かれた街です。


 「 水の小道 」 は、モザイクの 「 隙間 」 に残った海の名残り ・・・


 永遠の存在と思える、この稀有な 「 水上都市 」 も、いつかは沈みゆく運命です。
 Venezia で変わらないものは、石造りの建物ではなく、「 水の小道 」 の方だと思います。「 堅牢な建物の間を通り抜ける不安定な水路 」 というのは 「 錯覚 」 で、いつの日か建物は沈みゆき、静かな水面だけが、何事もなかったように、其処に残るのでしょう。





 遠い将来、「 水上都市 」 の街並みが 「 蜃気楼 」 の様な幻影を残すのみとなり、かつてあった 「 水の小道 」 が本来の laguna に帰る時、世界に二つとない街、この Venezia の記憶は人の心に残り続けるのでしょうか。


 「 水の小道 」 を観る度に、いずれ還るであろう遠浅の laguna が目に浮かびます。

1 人旅の風景

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 外国を旅する時は、必ずと言って良い程、バスを利用します。



 イタリアを旅行するようになってからも、それは変わりません。
 否、イタリアを旅するようになってから、バスを利用する頻度は増えたような気がします。列車が通っていない、或いは、通っていても、最寄り駅から中心部まで相応の距離があるような街に向かう時には、「 小回り 」 の利くバスの方が、余程便利だと思います。街間を移動する際、何処に行っても、発着を請け負う比較的大きなバスターミナルが中心部にありますから、特に逡巡する事はありません。窓口 ( 窓口が無い時は、附近の
tabacchi や bar ) で切符を求め、前面に目的地の掲示が出ているバスを探して乗り込み、発車を待つ ・・・ そのような一連の過程も、慣れてくると、存外、支障なく進みます。異国の地で 1 人バスに乗り込み、見知らぬ街に向かう ・・・ 発車間際に押し寄せる、多少の不安が入り混じった高揚感も 「 バスの旅 」 特有のものです。


 平日の昼間に乗るバスは、路線バスに限らず、乗客が疎らな事が多いと思います。
 1 時間以内に目的地に到着するような短い 「 旅 」 では、時折途中で、学校帰りの子供達や、買い物に向かう婦人連等が 「 道連れ 」 となります。車内に話し声が充満したとしても、一様に同じ停留所で降りて行きますから、程なくして再び、車内には日中の安穏とした空気が漂います。その様な事を何回か繰り返しているうちに、バスは目的地に到着するという按配です。





 これまで、バスに乗って、色々な街に向かいました。
 なるべく後方にある二人掛け座席の窓側を占め、ぼんやりと窓外を見詰めながら道中を過ごします。1 人旅では、話す人も隣に居ませんから、必然的に窓外に広がる景色だけが旅の供となります。Toscana に広がる何処までも続く田園、Umbria の緑の丘陵地帯、遠浅の海の向こうに霞んで浮かぶ Venezia の家並、そして、Amalfi へと続く一本道を包み込む青い海の色 ・・・ これまで、少なからず観た窓外の景色は、「 バスの旅 」 の旅情を一層濃くします。


 時として、1 人旅は寂しいものです。
 窓外に広がる一刻一刻移り行く 「 忘れえぬ 」 景色を観て、少なからず心を動かされたとしても、その思いを語る相手が居ない。しかし、寂しいが故に、決して吐き出される事のない旅情への思いは深く自身の中に沈潜し、余計に 「 忘れえぬ 」 景色になっていく事もあります。窓の外の景色を観て去来する、1 人旅特有の心の振幅は、良くも悪くも、旅の時間を濃密にして行きます。バスに乗って、ぼんやりと外の風景を眺める度に、「 1 人 」 を強く意識します。窓外を呆然と見詰める自分と、その心内が、心地良く揺れる車内で、鮮明に浮き上がるような感覚が残ります。



 「 窓の外を観る時に、自分が何を観ているか分るか?自分自身を観ているんだ。物事が美しいとか、ロマンティックだとか、印象的に観えるのは、自分自身の中に美しさや、ロマンスがある時に限るのだ。目で観ているのは、実は、自分の頭の中を観ているのだ ・・・ 」



 Fredric Brown の 『 The Fabulous Clipjoint 』 に、その様な一節があったと思います。
 旅先で、バスに乗って、ぼんやりと窓外の景色を観る ・・・ 旅という、色々な事象が現れる、何かと慌しい流れの中で、ふと内省する時間が訪れる。バスの窓から、心動かされるような景色を目にし、それが 「 忘れえぬ 」 思い出として、深く刻み付けられるのは、無意識に自分の心内と対話しているが故なのかも知れません。


 


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