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旅先で、ふと眼に入る風景に、存外、心動かされる時があります。
遍くその名を知らしめる、有名な 「 観光地 」 の風景を存分に愛でるのも、決して悪くありません。
積年、憧れ続けた土地の風景を眼前にした時に湧き上がる、独特の高揚感や達成感は、言葉に出来ぬ程の振幅を、心に植え付ける事でしょう。また、そのような体験は、「 観光 」 という、旅の一義的な目的を充分満足させる要素になる事は、言うまでもありません。
しかし、旅も、その回数を増して来ると、常に同じ心の振幅が蘇るとは限りません。
初めて見た際に、圧倒的な感動の大波を伴った筈の、「 有名な観光地 」 における風景も、少し時を置いて、2 度、3 度、或いは、4 度、5 度訪れると、次第にその 「 波 」 も凪いで来ます。また再び、此の風景の中に立つ事が出来た ・・・ という感慨に浸る事は出来ますが、最初に得た 「 波 」 の揺れを心に蘇らせるのは、なかなかに難しいようです。
また、その期待が大きければ大きい程、落胆の度合いも、それに比例する事が間々あります。
乾坤一擲、何時かは見てみたいと念願した風景さえも、いざ間近に佇むと、「 思った程ではなかった ・・・ 」 という悔恨のみ心に残る事は珍しくありません。「 思った程では ・・・ 」 というのは良い方で、「 土産物売りに囲まれた 」、「 ゴミが沢山落ちていた 」、或いは 「 入場料が不当に高価であった 」 など、様々に付随する 「 俗 」 な要素に、念願の風景がすっかりと色褪せてしまうといった事は、旅慣れた方であればある程、少なからず経験する現象でありましょう。
有名な観光地等、是非見聞したいと念じた風景を虚心坦懐に愛でるのも、常に上手く行くとは限りません。
それとは反対に、旅先で、存外眼に飛び込んでくる風景が、不思議と心に残る事があります。
街を何気なく歩いている時、駅で列車を待っている時、立ち寄ったレストランの窓から外を眺めた時 ・・・ その 「 風景 」 は、突然眼に飛び込んできます。一瞬にして、通り過ぎるような、何気ない風景は、万人を、その名を持って惹き付ける様な 「 有名観光地的風景 」 とは趣きを異にします。それは、皆が皆、見たいと念じるような普遍的風景ではなく、極めて個人的な振幅を呼び起こす、その人だけが見る事の出来る、「 心の風景 」 なのでしょう。
突然、眼に入る、予期せぬ旅先の風景 ・・・
夕暮れのアマルフィ海岸を走るバスの車窓から見たオレンジ色の海、シエナの石畳を敷いた細い裏道で手を繋いで仲良く歩く老夫婦の後姿、ポンペイ遺跡の片隅に住み着いて戯れる猫達、そして、突然振り出した雨に薄く濡れるミラノ中央駅の駅舎 ・・・
ふと眼に入る、こういう旅先の風景は、自分だけが得る個人的な体験である故に、不思議な程、心に残るものです。
そして、時間が経つほどに、大切な 「 心の風景 」 として、旅の思い出を彩るのでしょう。
何気なく通り過ぎる 「 心の風景 」 を見逃さないような旅をしたいものです。
ローマの繁華な通りを少し入った所に佇む、名前も分らない小さな教会。
何も無い中庭の奥にある聖画に手向けられた植木鉢の花の色。
その可愛らしくも可憐な薄紅の色 ・・・
いつまでも忘れられない 「 旅の風景 」 です。
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