イタリア Lezione

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芸術

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一番好きな受胎告知

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 フィレンツェのサン・マルコ美術館にある、アンジェリコの『受胎告知』が好きだ。

 神の子の受胎を告げる天使、その告知を真剣な眼差しで受け止めるマリア。簡素な中にも劇的な一瞬に対峙する二人の人物による緊張感が観る者を惹き付ける。

 画僧アンジェリコは、1枚の聖画を描く前に、必ず3日間、神に祈りを捧げたという。
素朴であるが、これ程純真かつ敬虔な姿で描かれたマリアは他にいないと思う。

間奏曲

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 マスカーニ(Pietro Mascagni)の『カヴァレリア・ルスティカーナ』(Cavalleria Rusticana)・間奏曲が好きだ。

 シチリア島で実際に起こった男女の愛憎劇に取材したこのオペラは、マスカーニの処女作で、彼に唯一の成功をもたらし、そしてその後の転落へのきっかけとなった作品である。作品中の間奏曲は大変有名で、そのメロディーは、何処かで聴いたことがあると誰しもが思うはずだ。
 男女の悲劇的な愛の結末という激しくも狂おしいオペラの本筋とは異なり、穏やかな旋律は、何処までも美しく心に響く。


 パレルモの港近くにあるバールで、アランチーニとレモネードの昼食をとっていた。
バールからは、どこまでも美しいシチリアの青い海と空が見える。BGM代わりにつけてあるラジオのニュース番組が終わり、突然この間奏曲が流れてきた。

 海、空、音楽、何もかもが美しいと思った。

学芸員という仕事

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 仕事でイタリアの美術館(博物館)に行くことが多い。

 自分の研究テーマについて、意見を伺わなくてはならない学芸員や研究員が、どこそこの美術館や博物館にいるということが分かると、旧知の人から紹介状を貰って会いに行く。例外なく親切な人ばかりで、多忙にもかかわらず、時間を取って丁寧に応接してくれる。せっかく遠いところを来たのだからと、自ら館内を案内してくれる人もいて、展示物を見ながら受ける説明も存外な勉強になることが多い。

 美術館は、収蔵品に関する研究機関でもある。普段、決して表に出てくることはないが、学芸員や研究員達が労を惜しまず行う研究によって収蔵品に関する様々なことが明らかとなり、芸術文化発展の基礎となっている。膨大な数の「ただの古い絵」が、彼らの精緻な仕事によって芸術的価値を見出され、文化遺産としての地位を確立している。
 イタリアの美術館には、さすが本場、それぞれの専門分野におけるエキスパートたる有能な学芸員、研究員が綺羅星のごとくいる。


 仕事を離れて、一観光客として美術館を訪れるのも、もちろん楽しい。
 気に入った絵や作品の前で、好きなだけ立ち止まり、眺め入ることが出来る幸せに勝るものはない。専門的に見ると決して評価の高い作品ではないが、「綺麗!大好き!」と思うものは幾らでもある。
 「他人が何と言おうと、俺はこれが好きなんだ!」という絵(作品)が沢山あるから、イタリアの美術館は大好きだ。

 そして、そう思わせてくれる美術館を裏で支えている学芸員・研究員に敬意を払いたい。

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 バチカンのサンピエトロ寺院に『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』がある。

 聖人であるヒエロニムス(Girolamo, Jerome)が臨終に際して、最後の秘蹟を受けるというドラマティックな場面を描いた巨大な絵の前に、絶えず人の波が押し寄せている。

 聖ヒエロニムスは西方教会の四大博士に列せられる学者で、「学問の聖人」という日本で言うところの菅原道真的な位置を占める人物である。イタリアの受験生が聖ヒエロニムスのお守りを持って試験に臨むかどうかは知らないが、学問すなわち神学を統べる聖人として、聖画のテーマとしても人気のある人物だ。

 聖ヒエロニムスはローマで神学を学んだ後、4世紀の終わりにシリアの砂漠に居を構え、瞑想と思索に耽った。その後、ベツヘルムに行き神学の研究に没頭する生活を送る。

 シリアでの隠遁生活で、ある日1頭のライオンが彼の前に現れた。悲しげなライオンの顔を見たヒエロニムスは、1本の棘が足に刺さっていることに気が付く。その棘を取ってやると、ライオンはその恩を忘れず、生涯ヒエロニムスに付き従うようになったという逸話が残っている。
(獰猛な動物でさえも、学問の深遠さの前にひれ伏すという寓話的意味が大きいのかも知れない。)

 その逸話から、聖ヒエロニムスの聖画には、必ずと言って良いほどライオンが描かれている。別の言い方をすれば「ライオン」は、聖ヒエロニムスを表す目印として、好んで一緒に描かれることが多い。

 バチカンの『聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領』にも、画面左下に悲しげな顔をしたライオンが描かれている。生涯、恩を感じて従ってきた主人の臨終に際して、心なしか涙を流しているようにも見える。

 聖ヒエロニムスの絵を見たら、忠犬ハチ公に勝るとも劣らないこのライオンにも思いをめぐらせたい。

二人の物語

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 西暦1401年、フィレンツェである重要なオーディションが行われた。

 街のシンボルであるドゥオーモ(Santa Maria del Fiore教会)西側に立つSan Giovanni洗礼堂のブロンズ門扉の製作者を決めるオーディションである。この洗礼堂は、13世紀にオリジナルの建物が完全に修復されていたが、東南北の3箇所にある入り口門扉のうち、南側門扉だけが1336年に彫刻家であるアンドレア・ピサーノによって製作されていただけであった。そこで残る2箇所の門扉のうち、北側門扉の製作者を決めるオーディションが催されることになった。

 この門扉製作のスポンサーになったのは、フィレンツェ羅紗製造同業組合であった。当時のフィレンツェは「商業都市」としての地位を確立し、実力本位主義という、まさに商人社会の論理が大勢を占めていた。従って、家柄や地位に関係なく、職人達は自らの腕一本でチャンスを掴むことが出来たのである。

 このオーディションに応募したのは、当時トスカーナで名を知られていた7人の金細工師達であった。応募者に課せられたテーマは、旧約聖書の『イサクの犠牲(アブラハムの犠牲)』である。アブラハムが神の命令によって自分の息子イサクを犠牲に捧げようとする逸話である。アブラハムがイサクに剣を突きつけるその瞬間に、彼の信仰を確かめた神が天使を遣わしてイサクを救うという劇的な場面をブロンズの浮き彫りに仕上げて提出することが応募者に求められた。

 下馬評では、フランチェスコ・ダ・ヴァルダンブリーノらを擁するベテランのシエナ派が優勢であったが、意外なことに最終選考に残ったのは、地元フィレンツェ出身の2人の若者であった。共に金銀細工師であったロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti, 1378-1455)とフィリッポ・ブルネッレスキ
(Filippo Brunelleschi, 1377-1446)の2人である。ギベルティは23歳、ブルネッレスキは24歳という若さであった。

 最終選考に残った2人の作品は、どちらも優劣つけ難いほどの出来栄えで、審査員達も苦労したらしい。ギベルティの作品は、工芸的伝統を守る繊細で華麗な出来栄えであったが、ブルネッレスキのそれは、天使がアブラハムを制止する一瞬の動きを重視する、激しく斬新なものであった。こうなると勝ち負けの判定は、技術の優劣よりも、審査員個々人の好みの問題となり、結果として、伝統的工芸趣味を押す声が大勢を占め、ギベルティが優勝した。一説には、両者同時優勝で門扉製作も共同で行うということになったが、その結果を不服とするブルネッレスキが優勝を辞退したともいう。
(両者がオーディション審査に提出したブロンズ浮き彫り『イサクの犠牲』は、現在、バルジェッロ美術館2階に並べて展示されている。)


 オーディションに優勝したギベルティは洗礼堂北側門扉の製作を任された。彼は20数年の歳月をかけ、北側門扉を完成した。いわゆる『天国の門』である。(現在は、レプリカが門扉にはめ込まれてあり、オリジナルはドゥオーモ裏の付属美術館に展示してある。)ギベルティは、引き続いて東側の門扉製作も依頼され、こちらも20数年の歳月をかけて完成させている。一方、失意のブルネッレスキは落選が余程のショックであったらしく、自らの工房を引き払い、フィレンツェから去る。



 洗礼堂の門扉製作に決着を見た今、フィレンツェのシンボルたるドゥオーモにとって残された問題は、大聖堂中央部に円蓋を掛けることであった。13世紀末に始められたドゥオーモ建築計画は、何度かの中断を挟みながらも、15世紀にようやく最後の工程を残すのみとなっていた。しかし、その最後の工程は中央合唱壇上部に掛ける大円蓋の造営という難問であった。正方形の基礎部分の上に円形の丸天井を乗せるという、当時としては未曾有の計画である。直径40数メートルにも及ぶ巨大な空間を、正方形から円形に移行しつつ完全に覆う作業は、従来の石積み工法のみでは到底不可能であった。

 西暦1418年、大円蓋製作者を決定するための設計オーディションが行われた。しかし、到底不可能と思われるプロジェクトに応募する建築家がなかなか現れない。最後には、専門外のギベルティに製作指揮を依頼するという緊急事態になり掛ける有様であったが、1人の建築家が名乗りを上げた。
 門扉製作のオーディションで敗北し、失意のままフィレンツェを去ったあのブルネッレスキである。

 ブルネッレスキは、門扉製作オーディション落選後、金細工師の道を諦め、ローマに渡り建築家としての道に活路を求めていた。ローマでの苦しい設計修行の間、街中の古代建築物、特にパンテオンの構造研究に並々ならぬ熱意を注ぎ、大円蓋形の建造物に関しては特異な才能を発揮していた。洗礼堂門扉製作オーディションから17年が経過していた。

 ブルネッレスキが、このプロジェクトのために考案した設計プランは、当時としては斬新なものであったため、審査員達に理解されなかった。しかし他に有力な候補者も現れず、また、旧知の人文主義者の後押し等もあり、紆余曲折の末、ブルネッレスキに大円蓋の製作指揮が任されることになった。
西暦1421年、世紀の大工事が始まった。

 ブルネッレスキが考案した設計プランは、大量の漆喰と石積みで円形を作る従来の工法とは異なり、まず比較的薄い基礎部で空間を覆い、その上から改めて外壁を積むという「二重殻構造」であった。直径40メートル以上の円空間を覆うためには、従来の工法では荷重が掛かり過ぎ、崩落の危険があったが、中間部を空洞にして重量を減らす「二重殻」の構造であれば、荷重の問題が解決されるとブルネッレスキは考えた。
 当時の建築常識では、空洞部を作ると強度が弱くなり、却って崩落の危険があるとされたが、実際は二重の円蓋が互いを支え合い、荷重を分散して充分に安定した構造をなしていたのだ。また、中間の空洞部は人間が1人立って作業が出来るくらいのスペースとなったため、工事の利便性を考えても優れたものであった。
(現在、階段を使ってこの大円蓋の頂上部に登ることが出来る。途中、中間の空洞部を通るので、この円蓋が二重殻構造になっていることが良く分かる。)

 作業途中で、速乾性のモルタルを開発しなければならない必要性が生じたり、工夫のストライキが発生する等、様々な困難の末、西暦1436年、ドゥオーモの大円蓋は完成した。当時、「100年もすれば崩落する」という声がまことしやかに囁かれたが、500年以上経過した現在でも、大円蓋はその美しい姿をトスカーナの空に屹立させている。

 現在、ドゥオーモの脇(鐘楼が建っている側)にフィレンツェ出身の芸術家、思想家、科学者の像が並んで建っている。ブルネッレスキの像もその中に見出すことが出来るが、彼の像だけはドゥオーモの円蓋を見上げるようなポーズで、今でも満足げに自分の仕事を見つめている。

 1401年のオーディションから始まった、2つの傑作をめぐる長い物語。オーディションでギベルティが勝ち、『天国の門』が、ブルネッレスキが負けてドゥオーモの大円蓋が出来た。

 フィレンツェで最も人を引き付ける2つの傑作・・・不思議な巡り合わせ。

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